ジャノメ
「生きることに意味なんてない」
そして、彼女ほど生きることに執着している人間を、スグルは知らない。
叛逆は、唐突だった。
スグルの視界に、ジャノメを装着して以来初めて見る緊急警報が表示されたのは、夜中の午前一時を過ぎた頃だった。
二時間ほど前、次のミッションの下見から戻って来た後、着替えるのが億劫で、学校の制服のまま宿舎の自室でベッドの上に横たわっていたスグルは、未知の状況に一瞬頭の中が真っ白になった。
避難警報でなければまず自室待機、という原則をスグルが思い出す前に、ペアの相棒であるトオルから通信が入った。
〈部屋か?〉
そう問われたスグルの肯定の返事は、突如激しく脈打ちだした心臓に揺さぶられるように震えていた。
トオルは一瞬黙ったが、すぐにいつものよどみない口調がジャノメを通して聞こえてきた。
〈これからトレーニングセンターの地下三階に行け。入り口で俺の番号をIDとして入力したらこれから言う数字を入力しろ。入るのに必要なパスワードが三個、出るのに必要なパスワードがニ個だ〉
トオルの指示が速いのはいつものことだったが、状況が全く見えないスグルは狼狽して、危うく五個の不規則な数字の羅列を聞き逃すところだった。
「パスワードって、な、何の…」
〈武器庫に決まってる。そこで自動小銃と弾を取って部屋に戻れ。今から十分後にまた連絡する。俺からの通信がなかったら逃げろ〉
逃げろ。
その言葉を、トオルの口から聞くのは初めてだった。
任務中、どんな危機的状況であっても、逃げることなど許されなかったのに。
「逃げ…逃げろって?どこに…」
〈アカデミーの外だ〉
「何それ…何のこと。どういう…」
〈死ぬなってことだ。それから〉
そしてまた、重ねるように、トオルはこれまでスグルが耳にしたことのない言葉を口にした。
〈スバルを見たら迷わず撃て。殺せなかったら逃げろ。捕まるな〉
そこで通信は切られた。
一瞬動けなかったスグルだったが、視界の端にある時刻を確認すると、十分後、というトオルの言葉を頭に置きながら部屋から飛び出した。
廊下には誰もいなかった。自室待機という原則を守っているのだろう。その原則を破って走っているスグルを止める者さえいない。
スグルは、トオルの指示に従って急いだ。
パスワードを口頭で伝えるなど、人間不信と言えるほど慎重かつ峻厳なトオルの行動とは思えない。スグルは、それだけ事態が切迫しているのだと理解した。
エレベーターは非常事態のために止まっていた。階段を駆け下りながら、多少脳内の混乱が収まってきたスグルに素朴な疑問が生じ始めた。
なぜトオルは、自分だけに自室から出る許可を出し、武装を指示したのだろう。それほどの事態なら、なぜこのアカデミーにいる他の人間を避難させるなり武装させるなりしないのだろう。その指示が、なぜジャノメを通じてアカデミーから発せられないのだろう。
何より、一体何が起きているのだろう?
その疑問に対する推測さえできないまま、トオルはトレーニングセンターの地下三階まで辿り着いた。
武器庫の入り口を照らす蛍光灯の光は、明るかったが無機質でうすら寒かった。武器庫の中に入れるのは、銃火器管理担当の専門職員と、ごく少数の、任務を監理する立場にある者だけ。トオルは、その中の一人だ。
スグルは、入り口の扉脇にある小さなディスプレイに触れた。すぐにソフトウェアキーボードが現れ、そこには、0から9までの数字とアルファベットが不規則に並んでいた。スグルは間違えないよう、慎重にキーを押してIDを入力した。
1221SG。それがトオルのここでの正式名称、つまり「エブ」としての検体識別番号だった。そして同時にトオルが装着している戦闘用義眼のシリアルナンバーでもある。
いつから誰が呼び出したものか、その戦闘用義眼は「ジャノメ」の愛称を持ち、それはアカデミーの研究員達の間でさえ遣われている。
両目の代わりにジャノメを装着し、訓練と任務にあたるのが特殊生検体、Exceptional Vital Examineeの頭文字を取ってEVE「エブ」と呼ばれる人間たちだ。現在、四十三名いる。
ID入力後、ひとつめのパスワードを入れると、認証されて扉が開いた。スグルが足を踏み入れると、一つめの扉は、スグルの背後で自動的に閉まった。二つめの扉の脇にも一つめの扉にあったものと同じディスプレイがあり、そこにふたつめのパスワードを入力すると、緊急用IDとして認識され、最終認証に三つめのパスワードを入力すると、入庫が許可され、いかにも重そうな金属の扉が、軋む音さえ全くたてずに静かに開いた。
スグルの視界の端で、周辺環境のモニタリング機能が、適度な温度と湿度の数字を表示していた。しかし、重く黒光りする火器が並んだ庫内は、足の下から冷えるような空気だった。
スグルは、表示を辿って庫内を走り、トオルの指示通り自動拳銃を探した。スグル自身も任務で使用した経験のある狙撃銃が並ぶブロックを通り過ぎ、自動拳銃の保管場所に辿り着いた。そこには、おそらくアカデミーの任務において最も使用頻度の高い銃の一つであろうシグ・ザウエル社の拳銃が各種ずらりと並べられていた。スグルはP250をホルダーから取り上げ、ズボンの中に入れた。続いて銃弾に手を伸ばすと、ふとシグ・ザウエル以外の自動拳銃が並んでいるのが目に入った。
そこにあったのはスタームルガーMkⅣサイレンサーモデルだった。
スグルは、弾を制服の上着のポケットに入れながら、その暗殺用拳銃の列を何とはなしに眺めていたが、あることに気付いて心臓が一瞬で凍りついた。
スタームルガーMkⅣの銃身が並んでいる一番端、そのホルダーが空になっていたのだ。誰かが今夜任務に使っていると言われればそれまでなのだが、スグルは、つい数分前にトオルの口から出た名前と目の前の状況を結びつけずにはいられなかった。
スバル。
彼女こそ、スタームルガーのサイレンサーモデルを使用して三百を越える任務を完了させてきたアカデミー屈指のエブにほかならない。
「俺たちは選ばれたわけじゃない。この世に選ばれた者なんていやしない。命はみんな平等にクズだ」
トオルが、その言葉を、長い長い道のりを経て、心の底から信じざるを得なくなったことをスグルは知っている。
出庫用のパスワードを入力して武器庫から出たスグルは、トオルのジャノメの信号を検知するべく探査プログラムを起動した。
すべてのジャノメは、それぞれが独自の信号を常時発信している。探知可能圏内はさほど広くはないが、同一の任務を遂行する他のエブの居場所を把握するには十分だった。
特にアカデミー施設内では、どの棟の何階にいるのかまで視界に表示することも可能だ。はたしてすぐに、スグルの視界にトオルの居場所が表示された。
中央棟。
ジャノメおよびアカデミーのすべてを統括する監理機構がそこにある。スグルにはその機構の詳細はよくわからなかったが、多数のオペレーターが集う部屋や、機械ばかりが並んでいる部屋を、アカデミーに来たばかりの頃に見学した覚えがある。
そして、そこにはアカデミーの最高責任者である総裁の居室もある。
トオルのジャノメは、その総裁の居室と同じ階にあると表示されていた。片面すべてがガラス張りで、オペレーター用の広い部屋を見下ろせる廊下を、総裁の居室へ向かってトオルが進んでいることが、表示された図面でわかった。
と、ふいにその図面上で動いていた光の点が消えた。
スグルは一瞬ぎくりとしたが、アカデミー内の施設の一部では、ジャノメの探知が不可になっていることを思い出して心を落ち着けた。
しかし、その図面上に他のジャノメの存在を示す光が点灯して、スグルの心臓は再び跳ね上がった。トオルとは別の方向から、総裁の居室へ向かっていく。そのジャノメの検体識別番号を見たその瞬間、スグルは駆け出していた。
中央棟へと。
部屋に戻れというトオルの言葉を忘れたわけではないが、スグルは自分の部屋で時間が過ぎていくのを待つことなどできそうもなかった。
頭の中で、これまでトオルから言われてきたいくつもの言葉が響く。
「お前がジャノメを捨てるというのなら止めはしない。だが、そうなったとき、俺はお前を追う」
殺すために。
「俺は、光に縋って生きることを選んだからだ」
トオルが、どういった経緯でジャノメを装着し、エブとなったのかスグルは知らない。最も初期のエブの中で唯一の生き残りらしいということを聞いたことがあるだけだ。このアカデミーの総裁の信頼を得て、検体でありながらも側近のように付き従うトオルは、エブの中でも特殊な存在だった。
そのトオルが、総裁の居室へ向かい、今また別のエブが、そこへ向かおうとしている。
スグルは中央棟まで来て、中へ入るには特別に許可されたIDとパスワードが必要だということを思い出した。スグルには、単独で中央棟に入る権限はないのだ。
しかし非常事態であることは既にわかっている。スグルは扉のロック部分に銃口を向けた。電子的であれ機械的であれ、施錠された扉を銃を使用して開くことにはすでに慣れてしまっている。スグルは、一発の銃弾でロック部分を破壊した。
そしてスグルは戦慄した。
何も起こらなかったのだ。
認証システムのロック部分が強行的に破壊された場合、即座に警告ブザーが鳴り、アカデミーの監理機構のコンピューターが異状を知らせるはずなのだ。そしてその通知は、ジャノメを通じて全てのエブに知らされる。
しかし、スグルの視界には、非常事態の警告どころか、認証システム破壊の通報さえも表示されなかった。
それがどういうことなのか、スグルにも容易に推測できた。
アカデミーの監理機構の中枢にあるシステムが、何者かによって破壊されつつあるか、そうでなくても機能しないようにされているのだ。
スグルは重い扉を手で開き、中へ入ると階段を駆け上がった。
中央棟最上階、総裁の居室へ向かって。
静かだった。
が、それこそが異状だった。
多くのコンピューターが稼動して、夜勤のオペレーターもいるはずなのに、静か過ぎるのだ。
スグルは、トオルが行ったであろうルートと同じ道程で、総裁の居室へと走った。そして、壁がガラス張りになっている廊下に差し掛かり、ふと下を見下ろした瞬間、がくりと膝が崩れた。
そのスグルの目に、オペレーターたちの姿が見えた。
誰一人、動いていない。みな、不自然な格好で倒れているか、突っ伏していた。
死んでいるのは明らかだった。
血はほとんどなかったが、十数人が静かに死んでいる光景は無音の悪夢のようだった。
スグルは逃げるように再び走り出す。
瞼の裏に一瞬で焼き付いた光景がまだ生々しいうちに、スグルは総裁の居室へ辿り着いた。
扉は、開いていた。
スグルは、銃を構えて静かに中を覗き込む。
そこには。
一人の少女が背を向けて立っていた。
これまでに何度も目にし、何度も追った、その後姿。
それが、ゆっくりと、振り返った。
その右目は、いや、その右目がかつてあった場所は、黒い穴に変わり、そこから流れた血は乾いて頬を赤黒く染めていた。それはまるで涙の跡のようでもあったが、もう片方の眼が見せる表情は、いつもの飄々としたものと同じだった。
ぽとりと、その左手から何かが落ちた。
床をころころと転がるそれが、アカデミー唯一の単眼型ジャノメだとスグルが気付いた瞬間、それはスバルが発射した銃弾で砕け散った。
次にスグルが見たのは、机に突っ伏す総裁の頭部と、自分に向けられた銃口だった。
後ろから誰かに肩を引かれなかったら、その銃口から発射された弾丸はスグルの頭を撃ち抜いていたかもしれない。
「なんで来た!」
そう怒鳴ると同時にスグルの腕を掴んで走り出したトオルに引きずられるように、スグルは再び走り始めた。
オペレーターたちの数多の遺骸を見下ろすガラス張りの廊下に差し掛かると、前方に、細い人影が現れた。
スバルだった。
息ひとつ、髪のひとすじも、乱れていない。
「中央機関室の前を過ぎた先に研究棟に通じる通路がある」
スグルを背に、スバルの前に立ちふさがったトオルは、低い声でそう言った。
「でも、で、でも」
「言っただろう。逃げろ!」
トオルが銃を構えると同時にスグルはトオルとスバルに背を向け駆け出したが、背後で銃声がひとつ響いて思わず立ち止まった。
それは、実際には二発の銃声がほぼ同時に聞こえたものだった。
スグルは振り返った。
見えたのは、仰向けに倒れたトオルと、こちらへ歩いてくるスバル。スバルは銃を無造作に手に持っているだけで構えていなかった。その耳から、とろとろと血が流れている。
スバルは静かにトオルに歩み寄り、見下ろした。
「何の…」
ぽたり、と。
スバルの耳から流れる血が、ひとしずく、トオルの手の甲に落ちた。
「な、んの…マネだ…」
なぜ、撃たせた。
スバルは、何も言わないまま屈み込み、トオルの上半身を起こした。そして、その後頭部に、ただ一度だけ発砲する。
それは、一発で確実に殺すための方法だった。
スバルはトオルの体を静かに横たえ、立ち上がる。
そして顔を上げたその眼と視線が合って、スグルは戦慄して我に返った。
と、同時に再び全速力で走り出す。
階段を駆け下りて四階まで辿り着いたスグルは、フロアに入るための認証システムを再び破壊して中へ入った。中央機関室の扉の前を横切ると、すぐに研究棟への渡り廊下があってスグルはそこを駆け抜けた。
死ぬな。
そう言っていたトオルの声を思い出して、スグルは自分の首を濡らしているのは汗ではなく伝い落ちた涙だと気付いた。
「さてここで問題です。神様は人間を愛しているでしょうか、いないでしょうか」
酷く唐突に冒涜的なクエスチョンを投げかけられるものだから毎度一瞬呆けるのだが、決まったことを言ってやらないと他のことであれこれからかわれるので、スグルはいつもトオルに教えてもらった答えを言うことにしていた。
「よくできました」
決まった答えを聞くと、そう言ってまたふらりとどこかへ行ってしまう。
解放してもらうためにいつも同じ答えを言ってきたが、よくできましたと言いながら、本当にその答えを正しいと思っているのか、甚だあやしいとスグルは思っていた。
なんとか研究棟に辿り着いたスグルは後を振り返った。スバルは追ってこない。システムを完全に使用不可能にするためにまだ中央棟に留まっているのだろうか。
そんなことを思いながら走って逃げ込んだ研究棟は、ほとんどの研究室がすでに業務を終えて消灯している状態だった。
しかし、廊下の一番奥の研究室に、灯りが点いているのが見えた。そこは、ジャノメとライフルの連動狙撃システム開発の研究室だった。任務の九割が遠距離の狙撃であるスグルは、ここの研究員と顔を合わせる機会が多かった。
スグルは、しばらくその場に立ったまま足が動かなかったが、静か過ぎる研究棟の廊下を、一歩、また一歩と進んでいった。
研究室の前まで来たスグルは、そっと、中を覗き込んだ。
足を踏み入れることはできなかった。
ただ手を口に押し当てて、叫び声を押さえるだけで精一杯だった。
研究室の中にはスグルが知っている研究員三名がいた。スグルが予想した通りに。
一人は棚にもたれ、一人はテーブルの上に、一人は床に倒れていた。
銃で撃たれた赤黒い穴はまだ濡れていて、研究室内にはどこか有機的とでも言える金属の匂いが満ちていた。体の位置と向きからして、扉から入ってきた人物に顔を向けてすぐに撃たれたことがわかる。おそらく、何が起こったのかさえ理解できないうちに。研究室の中には、つい先程まで研究員達がいつも通りに研究活動をしていたことを否応なく思い知らせるなまあたたかさが漂っている。
スグルはそのまま後退し、倒れそうになった上半身を何とか壁に預けたが、すぐに膝がゆるんでずるずると床に座り込んだ。
叫びを手に受け留めさせてそのまま握り潰そうとでもいうかのように、スグルは必死に手を口に当てる。
これまで幾人も射殺してきたにも関わらず、この期に及んでたった三人の遺骸を見ただけで腹の底からこみ上げてくるようなもの。それが一体何なのか。
スグルは、今まで気付くことを拒んでいたそれを、思い知らざるを得なかった。
嗚咽に近い叫び声を喉の奥で堪えようとするスグルの鼻先を、何かこれまでとは違う匂いがかすめた。
硝煙の匂いではない、これは。
それが何の香りか気付いたスグルの脳裏には、即座に一人のエブの姿が浮かんだ。
彼女は、いつもスバルの傍らで、その美しい相貌にはそぐわない奇妙な笑みを浮かべ、歪めた唇にはよく煙草を咥えていた。
赤い缶や同じ柄の赤い箱から煙草を取り出して歯の間に咥え、オイルライターで火をつけるとパチパチと音がしていた。細長い円錐の形をしたものを咥えていることもあったが、その煙草からも同じような匂いがしていた。いずれにしてもずいぶんと重い煙草らしく、早死にするぞとトオルに言われ、今更?と笑っていた姿を思い出す。
トオルがかつてそのエブ、検体識別番号5370AM、通称ミハルとペアを組んでいたとスグルが知ったのは、比較的最近のことだ。スバルが任務に就くようになってミハルと組むことになり、トオルとミハルのペアは解消されたのだという。
そして、あの三人を殺したのはミハルに違いなかった。
スグルの瞼には、すぐそこの研究室の中の光景が焼きついていた。
研究室で、三人の遺骸の他に何を見たか、今になってどういうわけか思い出した瞬間、スグルの神経に得体の知れない戦慄が走った。恐怖にも似たそれが自分の体を動かしたことが、スグル自身にとっては多少意外だった。
まだ自分は、死を恐れているのだ。
そのことにどこか滑稽ささえ覚えながら、スグルは今だ笑いの治まらない膝を半ば無理矢理持ち上げながら駆け出した。
ミハルはもともと従順などとはお世辞にも言えない性分だったが、己の痕跡を残さないという任務の鉄則を守らなかったことはない。
それはもう、残酷なほど。
広い範囲で多くの人数をターゲットにした殲滅任務に就くことが多かったミハルは、いつも同じ手段で任務を締めくくっていた。その時にミハルが使うもの。それを、スグルのジャノメは視界の端でとらえていたのだ。
スグルは、研究棟二階へ降りると、渡り廊下へ向けて走り続けた。静まり返った夜の廊下に、スグルの乾いた足音が響く。
ようやく渡り廊下に差し掛かり、スグルがちょうどその中ほどまで進んだとき、スグルの背後から全てを揺さぶるような凄まじい爆音が襲って来た。
「…!」
スグルは歯を食いしばったままだったが、その喉からは引き攣ったような声が涎と共に漏れた。背中に感じた熱で、爆風と炎がすぐそこまで来ていることがわかる。何より、スグルが足を踏み出す度に蹴る床が、一歩一歩進むうちに下へ崩れていく。
スグルは背後を振り向けなかった。
スグルは爆風に飛ばされるようにトレーニングセンターの廊下へ転がり込むと、這い蹲った姿勢のまま頭を抱えた。熱風が運ぶ瓦礫のクズが、スグルの背や手の甲にいくつも叩き付けられた。
辺りが静かになり、爆風が治まったらしいと確認したスグルは、びくつきながら背後を振り返った。
渡り廊下はほとんどその痕跡がなくなっていたが、わずかにトレーニングセンターの側に床や天井の端が残っている。しかし研究棟は、建っていた姿など想像できないほど破壊され、鉄屑とコンクリート破片の山に変わっていた。そして、やけに爆発音が大きいと思ったら、つい二十分ほど前までスグルがいた宿舎まで、研究棟と同じように崩れ落ちていて、スグルは呆然とした。そこには、おそらく緊急事態につき自室に待機していた残りのエブたちがいたはずなのだ。
「間一髪だったねぇ」
突然の声に、ひっと叫んで振り返ったスグルの眼に、無造作に右手に持たれた拳銃が映った。
スグルがゆっくりと視線を上げると、そこには、背の高い女が立っていた。
いつものように黒い細身のロングコートを着込み、形よい唇に咥えた煙草の先からはふうわりと煙が立ち昇っている。パチパチと、煙草の先で焼けた粒が弾けた。
周囲にはクローブの香りが否応なく振り撒かれ、火薬や建築材の匂いと混ざり合って、それは正にその女、ミハルそのもののような空気だった。
あと数秒、走り出すのが遅かったら。
それを考えるだけで足が立たなくなっているスグルに向かって、ミハルは一歩、また一歩と近づいてきた。
スグルは逃げ出そうとするものの、体全体が痙攣直前のように言うことをきかず、わずかに後退することができるだけだった。腰を上げられないまま、ずるずると後ずさるスグルの背後、腰のあたりで、何かが床とぶつかった。その存在をすっかり忘れていたスグルだったが、後退すると見せて、手を腰に伸ばした。
この距離ならばジャノメの照準機能を使う必要もない。
スグルは、腰のP250を引き抜いた。
しかし、その銃口がミハルへ向けられるその前に、目の前のミハルがスグルの銃の一瞬の動きで蹴り上げた。
ガツ、という天井にぶつかる乾いた音の後、ミハルの左手がP250を捕え、ほぼ同時にトオルの目の前に銃口が突きつけられた。
スグルの体は、動く術を失ったかのように硬直してしまった。
そんなスグルを眺めながら、ミハルはその天授の清廉なる声で呟く。
「『どうして地獄の罰を免れることができようか』…」
ほんの一瞬だけ、慄くほど荘厳なまでの響きさえ持つ声でミハルが口にしたその一節が一体何なのか。それをスグルに教えたのもトオルだった。
「か」
よく声が出たものだと、スグルは思った。
神様 は
それは、確信と言うほど、改まったものではない。
人間なんて
ただ、いつの間にか、肉と心にこびりつくようになった、予感。
人間なんて 愛して ない
ミハルは片方の口角を不自然なほど吊り上げ、にぃいっと笑った。
「よくできました」
ミハルの眼が、嬉しそうに、そして不気味に細められる。
その指先が微かに動く気配を察したスグルは、トリガーが引かれるものと思って即座に逃げ道を考えた。そして、最も有効な逃走経路を見つけ出したスグルが、動き出そうとしたその時、ミハルの指は引き鉄を引くことなく、銃をくるりと回してグリップをスグルに向けて差し出した。
まったく予想外の出来事に、スグル却って動けなくなり、ただ、差し出された銃と、ミハルの顔を交互に見つめるだけだった。そんなスグルに、優しく、そして甘い声で、ミハルは囁きかける。
「スバルと顔合わせたらどうするの?」
その時には必要なはずだ、と言わんばかりに、ミハルはスグルの間抜面の前に銃を差し出す。
スグルは、まるでミハルの言葉を肯定するようだと思いながら、ミハルの手から、差し出されたP250を引っ掴むと、ほぼ同時に体を後退させ、まるで身を投げるように背後の穴から飛び出した。
スグルの体が、夜の暗い空気の中に浮かぶ。
そしてその後、どさり、と地面とぶつかる音がミハルに聞こえた。
ミハルは慌てる様子もなく、渡り廊下が崩れ落ちてできた壁の穴から地面を見下ろし、ジャノメの暗視機能の感度を上げる。少々意外なことに、すでにスグルの姿はなかった。
何が楽しいのかミハルはにんまりと口元を歪め、喉の奥で笑った。
第一号単眼型試験機。
検体識別番号6180FO。
スバル。
衰える。集まって一つになる。そんな、妙なふたつの意味を持つ言葉。
スバルの母親もまたエブだった、とスグルに教えたのはミハルだ。
しかも、最初のエブ、つまりジャノメを装着した最初の人間だったと。
ずいぶんと前に死んだけどねと話すミハルを、余計なことを喋るなとトオルが叱りつけていたのを覚えている。
トレーニングセンターの一階の隅で、スグルは座り込んでいた。潤いを奪われた粘膜が、喉の奥できちきちと張り付く。息を潜めなければならないはずが、暴れるような胸の拍動に伴って呼吸は乱れ、スグルは肩を上下させて必死に空気を吸い込んだ。それでも眩暈はひどいままで、手の震えはおさまらず、指先に力が入らない。
視界の左下に映る文字が、脈拍数の異常を知らせて点滅していた。それにさえ頭痛を増幅させられ、スグルはコンディションモニタ機能をオフにする。
スグルはようやくスバルが何をしようとしているのか理解し始めていた。
いや、おそらく、トオルからスバルを撃てと言われたときから気付いてはいたのだ。しかし、それを信じることをスグルの感情は拒否してしまった。だから、それを信じないわけにはいかなくなった今この時になって、スグルは受け入れがたいこの状況にどう対処していいのかわからなかった。
それでも、その時が来ることをスグルは知っていた。予感ではなく、確信だった。
突然、爆発が起こり、スグルは爆風を浴びながらも、吹き飛ばされるだけで死には到らないことを奇妙なほど冷静に分析していた。
煙の中、咳き込みながら起き上がると、周りは炎に包まれていた。熱された空気で視界が揺らめく。
その中、スグルの前方に、スバルが無表情で立っていた。
スグルは瞬時にジャノメの狙撃コマンドを起動させ、P250を構えた。
しかし、スグルがトリガーを引くより速く、スバルはスグルの視界から消えた。
そして舞い降りるように目の前に現れた。
その左目と、目が合う。
次に、スグルは胸を突き抜かれるような衝撃と共に体が折り曲がった。
「が、はっ…」
振り上げられたスバルの膝がスグルの鳩尾に直撃したのだ。
それでも何とか体を支えようとする左右の脚に、スタームルガーの銃弾が一発ずつ撃ち込まれた。スグルの体は弾かれたように震えながら地面に倒れ、その体を抑え込むように圧し掛かったスバルは、同時にスグルの鼻の前に銃口を向けた。
スグルのジャノメがスバルに照準を合わせてから、四秒のうちのことだった。
スグルはスバルの意図がわからなかった。撃たれた場所からの激痛よりも、むしろその混乱の方がスグルを恐怖させた。
スバルは、こんな風に、なぶり殺すようなやり方はしないはずなのに。
スバルはいつも一発で相手を殺す。スバルが使った弾の数は、スバルが殺した人間の数にほぼ等しい。
つい十数分前にトオルにしたように、脳幹を狙って弾を撃ち込む。それしか銃の撃ち方を知らないかのように。
スバルがジャノメの狙撃用コマンドを起動させたら、その瞬間、その眼にとらえられている人間には死が決定するのだ。
なのになぜ、スバルは自分を殺さないのだろうか。
スグルはスバルを見上げた。
ぴたりとスグルの脳幹を狙う銃の向こう、スグルを見下ろすスバルがいる。
さらりとした真直ぐの髪、その前髪の奥に、残されたスバルの左目があった。
その視界で、スバルの手がひらりと舞った。
スグルの左のジャノメが最後に認識したのはスバルの指先だった。
ぎちぎちぎちっ。
嫌な音がスグルの頭に響いたが、それよりも聞こえたのは自分の叫び声だった。
スバルはスグルの右瞼に指を差し入れ、眼底にある接続部ごとジャノメを抉り出した。
配線とともに引きちぎられた肉から血が溢れ出す。
反射的に左目を抑えて、スグルは叫び続けながら床の上を転がった。スバルは、いつの間にかスグルの上からどいていた。
銃声が一発響いて、微かに、金属が壊れるような音がした。それを掻き消すかのように、スグルの叫び声はしばらく続いた。
気付くと、スバルの気配はなくなっていて、周囲の燃える音だけが聞こえてきた。
一人残されて間もなく、スグルは動かなくなった。辛うじて残った意識も、頭の奥へ突き抜けるような激痛しか感じていないように思えた。
しかしスグルの耳に、何かが響いた。
死ぬな。
スグルは、当惑してむしろ笑えそうになった。
直接死に至らないとはいえ、両脚を撃たれ、義眼を抉り出され、炎に囲まれた人間に今更、死ぬな、なんて。
燃え広がる炎が、スグルの頬を火照らせていく。あと数分もしないうちに、ミハルが仕掛けた爆発物がここでも起動するのだろう。
ふいに、ポケットに何かが入っているのを感じて、その瞬間、それが何なのかスグルは思い出した。
今夜、任務の下見に行って、トオルの運転する車で宿舎に戻ってきたとき、車外に出たトオルが座席に落としたライターだった。スグルはそれを拾って車から降りたが、渡す前にトオルに誰かからの通信が入った。通信に応えながら車をロックしたトオルは、そのまま足早に研究棟へ行ってしまった。残されたスグルは、明日渡せばいいと思ってそれをポケットに入れたのだった。
それはほんの数時間前のことなのに、今となってはすべてが遠い。
スグルは、ポケットの中のライターを左手で握り締めながら思い、空いた右手を震わせながらも何とか動かした。
悔い改める術は、とうの昔に忘れてしまった。この罪だけが生きている証ならば、罰も、裁きも、救済も、空虚への逃走でしかない。
しかしその逃走をこそ必要としていた自分を、スグルは今になってやけに冷静に見据えていた。
それでは、今踏み出すこの一歩は何なのか。
どこに行っても楽園などありはしない。
それを思い知らされているにもかかわらず、なぜ体が動くのか。
なぜ。
今はもう、楽園の幻想さえ見つけられないのに。
しかしスグルは、その答えを、ずっと前から知っていたように思えた。
スグルの右のジャノメは、スグルの指を認識したのを最後に動作不可能となった。
生きていることに気付いたのは、自分の血の匂いを感じたからだった。
今どこにいるのかわかったのは、少し遠くで聞こえる声の中に、先生、と呼ぶ声が混じっていたことと、独特の薬くさい匂いが鼻を刺激したからだった。
目の前は、闇。
しかし、指先や足先から微かに感じる布の感触や、動こうとして全身あちこちから生じる痛みから、スグルは生きていることを確信するに至った。
なぜスバルは、自分を殺さなかったのだろう。
いまだ不安定なままの意識でスグルは思った。
あの無口な少女に何かを求めて縋ってみても、何の躊躇いも哀れみもなく、拒まれるというよりもむしろ完全に無視され、淡い期待を裏切られ、何度も突き放されてきた。
にも関わらずスグルは、時折目にするスバルの仕草や眼差しの中に、スバルの思うところを見る気がして、あるいは思うところを知りたいと思ってしまったために、どんなにトオルに諭されても諦めることができなかった。
そう、例えば、自分を殺さずにおいたということにスバルの心を探り、その意図は自分の望むものと一致するのではないかと思い描いてしまうように。
いつかスバルが、自分の求めに応えて手を差し伸べてくれるのではないかという期待がスグルの中から消えたことはなく、スバルに両脚を撃たれ、左のジャノメを抉り出され、炎の中に放置されても、それは哀れなまでの屈強さでスグルの中に存在し続けていた。
光は、もうない。別に、欲しくもない。
かといって、目の前に広がる闇に、スグルは否応なく恐怖を掻き立てられていた。
今スグルの目の前に広がる闇でさえも、いつ何時スグルを突き放すかわからないのだ。
光に縋ることも闇に身を委ねることもできずにいる居所のなさ。
それは、きっと今になって初めて手にしたものではない。
これまで、ずっとそれはスグルの中に存在し続けていたはずなのだが、今ようやく、スグルは生まれて初めてそれを感じていた。
そして、その不安なことの、何と心地のよいことか。
浮遊感にも似た奇妙な充足感に満たされながら、トオルにそのことを伝えたいと思ってもそれが叶わないことで、スグルはようやくトオルの死を実感し始めた。
そして、生まれ変わる術を知らない自分は、この体を引きずりながら生きていくのだ。
スグルは、ふと、もう一度スバルに会いたいと思った。
片方の眼だけがジャノメだった彼女には、この世界はどんなふうに見えていたのだろうか。
「なんていうかさ」
病院横の駐車場では、周りを囲むように植えられている桜の花が咲き誇っていた。その一角で、ミハルは運転してきた車に寄りかかって噛み煙草を口に含んでいた。全身真っ黒の服装は、麗らかな春の午後の空気に全くそぐわない。
「ほんと物好きだよねぇ。いつものことだけど」
ミハルは不思議そうに首を傾けて、隣で静かに佇んでいるスバルを見た。
スバルは右目に眼帯を付け、大きな絆創膏で右耳を覆い、高校の制服を着ていた。
左手に紙袋を提げて。
そこには、記念品と筒に収められた卒業証書が入っている。
それは代理と称して受け取ったものであり、車の中には、スバル自身の一式があった。
スバルの髪の上を、日の光がさらさらと流れていく。
一言も発しないままのスバルを一瞥して、ミハルはふう、煙草の香りのする息を吐き出した。
「ま、好きにして」
桜の花びらが風に吹かれて舞い散る中、ミハルは病棟へ歩いていくスバルの背中を見送る。
スバルは、薄い雲が走る青空を見上げ、吹きゆく風に視線をあずけた。