配達人と送り主②
※本話には、人によっては気持ち悪いと感じる描写が含まれます。苦手な人は読み飛ばしてください。
当日、大型のスーツケースを携え、ニットのワンピースを着た奈那が伊美のクリニックにやってきた。緊張した様子はない。
エンバーミングの処置があるから、手術着に着替えてもらった。自殺の当日になって踏ん切りがつかない依頼者がたまにいるが、奈那は終始冷静だった。むしろ、晴れ晴れとした表情をしていた。
遺体をスーツケースに入れためには、死後硬直を考慮する必要がある。人の体は死後数時間で死後硬直が始まり、その後、3~4日で硬直は解ける。
死後硬直は血流が途絶えることでアデノシン三リン酸が不足することで起こる。この点、エンバーミングをして血管に薬剤を注入すれば死後硬直は起こらない。
死後硬直が始まる前にエンバーミングを終わらせる。そうしなければ、スーツケースに入れるために死後硬直を解く手間が掛かる。
時間との戦い。時計を確認しながら、伊美は手順を奈那と再確認する。
「はい、大丈夫です。その通りにお願いします」
手術台の上の奈那の意志は固い。
「少しチクっとします」
伊美は針を白い腕に刺し、投薬を開始した。すぐに奈那の意識はなくなり、呼吸が不安定になった。苦痛を感じている表情ではない。次第に脈拍が下がり、最終的に心臓が動きを止めた。
検死をした伊美はエンバーミングの準備をする。
消毒液を全身にスプレーし、身体を殺菌する。鼻腔や口腔をコットンで洗浄した。顔の歪みはないから、表情を作る必要はない。安らかな寝顔だった。
次に、防腐液を注入する動脈、血液を排出する静脈を切開する。右鎖骨上部、太ももを約2センチ切開し、防腐液を注入した。静脈から血液が排泄され、容器に赤い液体が溜まっていく。全身に防腐液が行き渡るよう、身体をマッサージしながら処置を続けた。排出される液体が透明になったら、腐敗しやすい物質を取り除くため、胸や腹の内部に残った体液や内容物を吸引した。処置は問題なく終わった。
仕上げに防腐液を注入、切開部を縫合、全身を洗浄する。身体を乾かした後、下着、ウールのワンピースを着せた。
一連の処置を終えた伊美が手術台を見ると、そこには処置前と変わらぬ奈那がいた。薄っすらと笑っているようにも見える。とても幸せそうな遺体だった。
死後硬直はない。完璧な処置。伊美は満足した。
奈那の体勢を整え、体が傷つかないように、慎重にスーツケースに入れた。
「さてと」
スーツケースを閉じると、クリニックの駐車場へ向かった。
**
ワンボックスカーにスーツケースを載せた。重量はあるが、患者を運ぶためのスロープとリフターが付いているから難なく搭載できる。
目的地の晴海の住所をカーナビに入力した。クリニックのある阿佐ヶ谷から晴海までは約1時間。伊美は遺体が傷つかないように丁寧に運転した。
奈那からは「宅配業者として運んでほしい」と言われていた。深く考えず「いいですよ」と言ってしまったので、宅配業者のユニフォームを用意した。
遺体を見た諸江はどんな反応をするだろうか? 興味はあるが、長居すると疑われてしまう。
目的地はタワーマンション。運搬用の車止めに停めて、スーツケースを降ろした。帽子を目深に被り、インターフォンを押した。
「はい」男の声が聞こえた。声の主が諸江、奈那の恋人だ。遺体を再配達するのは避けたかったから、在宅中でよかった。
「お届け物です」
「えぇっと、手が離せないので……ドアの前に置いてもらえますか?」
インターフォンが終了し、自動ドアが開く。業務用エレベーターに乗ると、行先階のランプが点灯していた。
エレベーターを降りた伊美は、諸江の部屋の前にスーツケースを置いた。
遺体を通路に置いたまま帰ることに躊躇した。置き配の盗難が増えていると聞く。スーツケースを誰かが盗むかもしれない。諸江が荷物を受取るのを確認するべき、完遂してこそプロの仕事だ。
伊美は諸江の部屋を離れた場所から見張ることにした。
5分ほど経過したころ、ドアが開き、男がスーツケースを部屋の中に入れた。遠目には優しい雰囲気のある好青年に見えた。彼なら奈那を大事に扱ってくれそうだ、伊美は安心してエレベーターに向かった。
業務用エレベーターは待ち時間が長い。タワーマンションには業務用エレベーターが1台しかない。この1台で配達業者、工事業者、引っ越し業者が1階から最上階までを行き来する。やっと来たと思ったら、引っ越し業者の荷物でいっぱいだった。アルバイトの学生らしき男性が申し訳なさそうに会釈するから、伊美は「お先にどうぞ」と笑顔で対応した。
居住者用のエレベーターを使えば早く降りられる。だが、遺体を運搬した後だから目立つ行動は避けるべきだ。しかたなく、業務用エレベーターがくるのを待った。
1階に停めたワンボックスカーに乗り込んだのは、諸江の部屋にスーツケースを届けてから15分後。あとは、死亡診断書を郵便ポストに投函すれば、依頼者から頼まれた業務は完了する。
車寄せから道路に出ようとしたら、黒い国産車が飛び出してきた。衝突しそうになって、ブレーキを強く踏む。何とか衝突をまぬがれた。
「危ないなー」
黒い車のドライバーの顔を見た。諸江だった。助手席にはスーツケースが見える。諸江は急いでいるのか、伊美のことなど無視して車を急発進させた。
スーツケースを載せて、どこに行くのか?
不安になった伊美は、後を追うことにした。