配達人と送り主①
『本当に苦しまずに死ねますか?』
伊美 昌宏がダークウェブのアカウントにアクセスすると、新着メッセージがあった。差出人は「NY」。ニューヨークが好きなのか? それとも、ニューヨークに住んでいるのか?
このようなメッセージが月に数件届く。伊美はクリニックを経営する開業医、数年前まで法医学者をしていた。1年前にダークウェブで自殺幇助のサービスを始めたところ、次々と依頼が舞い込むようになった。
ちなみに、法医学者とは、解剖や薬毒物検査などを行うことにより、犯罪捜査や裁判の証拠を収集する医者を指す。刑事ドラマで被害者を解剖している医師をイメージしてもらえばいい。遺体と向き合い、犯罪の証拠を集めるのが法医学者の仕事。伊美は日常的に遺体に囲まれて暮らしていた。
法医学者の仕事は人が死んでからスタートする。遺体の状態を確認し、犯行に利用された凶器や薬物を特定する。刑事と同じ犯人逮捕を目的としつつも、違った視点から事件解決に貢献する。伊美は法医学者の仕事に誇りを持っていた。
一方で、医師として患者を救いたい、とも考えていた。医者には人を助ける使命がある。法医学者では人を救えない、これが伊美のクリニックを開業した理由だった。
伊美のクリニックは難病に苦しむ患者が多かった。がんによる痛みに耐えて生活する患者、高額な治療費の負担に苦しむ患者、終末期医療の必要な余命わずかな患者。中には、闘病生活に疲れ果て、安楽死を望む患者もいた。
人が死を望む理由は様々だ。安楽死が認められていない日本では、たとえ違法であっても、それを助ける医師が必要、そう考えた。こうして、伊美はクリニックでの業務の傍ら、自殺幇助のサービスを始めた。
死を望む人に対して、死ぬための手段を教え、時には手助けした。
伊美はNYからのメッセージに『投薬により苦しまずに死ねます。どういう死に方がお望みですか?』と返信した。
NYからの返信はすぐにきた。
『苦しまずに死ねる方法であれば何でも構いません。あと、エンバーミングをお願いできますか?』
『技術的には問題ありません。エンバーミングは、費用を別途負担していただきます』
今回の依頼は、依頼人を投薬により安楽死させた後、死体にエンバーミング(防腐処理)を施す。エンバーミングは防腐処理を施し、遺体の長期保存を可能にする。季節にもよるが、人間の身体は死後約1週間で腐敗する。それ以上の期間保存しておくためにはエンバーミングが必要になる。
遺体の消毒・殺菌を行い、遺体の一部を切開し血液などの体液を排出するとともに保全液(防腐固定液など)を注入すれば、遺体を長期間保存できるようになる。
『報酬はいくらですか?』NYからメッセージがきた。
伊美は報酬を目的に自殺幇助のサービスを提供していない。しかし、あまりに安い金額だと依頼者は詐欺を疑う。
『投薬による安楽死、エンバーミング、遺体の搬送を合わせて100万円です』
『わかりました。それでお願いします』
その後、伊美は事務的な手続きのためにNYと会う約束をした。
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伊美が一連の手順を説明した後、NYは投薬についての同意書に署名した。本名は山本奈那。イニシャルだった。
「おかしいですか?」と奈那は言った。
伊美は無意識に笑っていたようだ。
「気を悪くしないでください。差出人のNYがニューヨークに関連する何かだと思っていたので。NYがイニシャルと分かって、少しおかしかったんです」
「そうですか」奈那は静かに言った。怒ってはいない。
「なぜ、死のうと思ったのですか?」
「私は末期がんです。余命は1年と宣告されました。医師からは、延命のために、抗がん剤治療を始めるように言われました。治療を始めると髪の毛が抜けます。痩せて、肌もぼろぼろになります。だから、今の姿を残したいのです」
「今の姿を、ですか?」
「ええ。彼のために今の私を残したい……それが理由です」
一日でも長く、恋人と一緒にいたいとは考えないのだろうか?
愛の形は人それぞれ。伊美は奈那の考えを理解しようとしても、無理だとわかっている。
「そうですか。ところで、手順は先ほど説明した通りです。何か希望はありますか?」
「そうですね……」
施術の当日、奈那は大型のスーツケースを持参する。エンバーミング処理後の遺体をスーツケースの中に入れてほしい、と希望した。
「死亡診断書はこの住所に送ってください。スーツケースはこの住所に届けてください」
奈那は住所を書いた紙を二枚差し出した。死亡診断書の宛名は山本加那。苗字が同じだから家族だろう。スーツケースの宛先は諸江淳一と書いてあった。彼が奈那の恋人だ。
伊美は既に20件以上の自殺幇助に関わっていたが、こんな奇妙な依頼は初めてだった。