受取人④
車に戻って時間を確認すると午後1時。日暮れまでは時間がある。スニーカーでの沢登りは危険だ。スーツケースを持って登るのだから、なおさら危ない。諸江は登山用品を調達することにした。
スマートフォンで付近を検索するとアウトドアショップが何件かあった。
アウトドアショップに到着した諸江は、トレッキングシューズの売り場へ直行する。スポルティバ、モンベル、アルトラ、コロンビア、ノース・フェイス、サロモン……有名なアウトドアブランドのシューズが並んでいた。登山は元々、富裕層向けのスポーツだったから、アウトドアブランドのシューズは高い。
家にあるモンベルのシューズを取りに帰ることも考えたが、警察が自宅を見張っているかもしれない。奈那の入ったスーツケースを車に積んで戻るよりも、このショップで調達した方が安全だ。
コロンビアのシューズがセールになっていた。店員に試着したいと伝える。
シューズを履いて鏡に映った自分の姿を見る。上はシャツにジャケット、下はチノパン。登山をする服装ではない。このまま山に入ると、山道ですれ違うハイカーは違和感を持つだろう。
やはり、上着だけでも登山ウェアを買うべきか。諸江は試着したトレッキングシューズを持って登山ウェアの売り場へ行く。寒くなってきたせいか厚手の物が多い。値札を見ると、2万4千円、2万8千円……ウェアも高い。靴と合わせると約4万円の出費だ。
上着は見た目をハイカーに近づけるために買うだけ。だから、高価な登山ウェアでなくてもいい。ユニクロが近くにあったはずだから、ナイロンのジャケットを買えばいいのでは……。
悩んでいたら「何かお探しですか?」と店員がやってきた。
「いえ、有間ダムにドライブに来たら、急に棒ノ嶺に登りたくなったんです。あいにく、登山ウェアは家に置いてきてしまって。靴と上着だけでも安いものがあればと思って、探しに来ました」
「登山ウェアは高いですからね。それなら、レインウェアはどうですか? 上に羽織るだけでそれらしくなりますよ」
店員はノーブランドのレインウェアをいくつか広げた。値札をチラッと見ると、5千円。確かに安い。
諸江は店員に勧められるままレインウェアを手に取り、靴と合わせて購入した。
アウトドアショップを出た諸江。余計なものを買ってしまったのではないか、と反省する。奈那はこんな買い物をしない。
奈那は服を一つ買うだけなのに、ショップを何カ所も回って決めた。
「買えばいいんじゃない?」衝動買いをしてしまう諸江は、奈那に尋ねた。
「気に入らなかったらどうするの? 着ない服を部屋に置いておくのは嫌じゃない?」
奈那はミニマリストだった。必要最低限のもので暮らす生活を理想としている。だから、ものを増やしたくない。一着買うと、一着捨てる。お気に入りの服を捨ててまで買う価値があるのかを考える。
諸江はスーツケースの奈那が着ている服を思い浮かべる。お気に入りの黒のウールのワンピース、奈那が着ているのを何度も見た。奈那のお気に入り一着だった。
トレッキングシューズとレインウェアを買った諸江に、「無駄遣いだね」と奈那は言うだろう。そう考えると、おかしかった。
**
アウトドアショップに停めた車に乗り込むと午後3時。
ダムの入口には鉄のゲートが設置されており、午後5時以降は閉じられる。閉鎖時間を過ぎて駐車場に停めていたら、ゲートが閉鎖されて車が出せなくなる。とすると、車はゲートの外に停めるべきだ。
スーツケースを持って閉鎖されたゲートを越えるのは難しい。ゲートが閉鎖される前にスーツケースを登山口付近に隠しておき、車はゲートの外に停めることにした。
アウトドアショップから登山口近くの駐車場に移動し、車を停めた。助手席からスーツケースを下ろす。ずっしりと重みを感じた。
スーツケースを登山口横の茂みに隠すことにする。スーツケースは黒色。だから、陽が落ちれば誰かに見つかることはない。
ゴゴゴゴゴゴゴ……スーツケースを引きずると山に反響して音が響いた。離れた場所からでも音が聞こえる。諸江は周囲を注意深く見回し、誰もいないことを確認した。登山口の階段を数段上り、茂みの中にスーツケースを隠した。
ゲートが閉まる直前にスーツケースを回収し、山を登ろう。
諸江は車を移動し、堤防の近くにある公衆トイレの駐車場に停めた。
奈那をあんな場所に置いてきてしまった。
奈那は寂しくないだろうか?
奈那が誰かに盗まれないだろうか?
諸江は気を逸らすためにダッシュボードから文庫本を取り出した。奈那が貸してくれたミステリー小説、探偵役が不在だから関係者の証言から読者が事件の真相を推理しないといけない。読んでいたら、あっという間に4時30分になった。小説に集中しすぎた。
駐車場から登山口までは徒歩で20分掛かる。諸江は登山口に向かって歩きだした。
すっかり陽が落ち、バイクのライダーがいなくなったダム。静寂が辺りを包む。水面には微かに橙色と紫色のグラデーションが映し出される。深く息を吸い込むと、冷たい空気が肺に入ってくる。寒い。諸江は上着のジッパーを上げた。
早く、早く。誰かに見られているかもしれない。焦ってはいけないのは分かっているが、諸江はスーツケースが無事かを早く確かめたかった。
カーブを曲がると登山口が見えた。ゴゴゴゴゴゴゴ……音が聞こえる。目の前が真っ暗になった。誰かがスーツケースを引きずる音だ。
目を凝らすと、作業服の男性がスーツケースを引いていた。
「すいませーーん!」
力いっぱい叫ぶ。諸江は登山口を目指して走った。
「何か?」
登山客に見える格好なのに、男は諸江を訝しげに見た。咄嗟にできるだけ自然な言い訳を考える。
「それ、僕のスーツケースなんです。登山の邪魔になるから、登山口に隠していました。すいません」
旅行中に登山に来た、そんな登山客もいるはず。我ながら馬鹿な言い訳だ。
諸江が愛想笑いをしたら男は言った。
「山に粗大ごみを捨てる人がいてね。こんなところに置かずに、次からは下の温泉のロッカーを使ってくださいね」
「すいません、ご迷惑をおかけしました」
諸江は頭を下げてスーツケースを男から受け取った。
男に見られていては、山に入れない。
ゴゴゴゴゴゴゴ……スーツケースを引きずって、諸江は車に向かった。