恋のウワサ 9
数日ぶりの晴天に恵まれた土曜日の午前11時、駅前広場のベンチに一人の男が座っていた。
男は深緑のジャケットに黒のシャツ、ベージュのチノパンという出で立ち。腕には高級品であろう重厚感のある輝きの腕時計を着け、革靴も老舗ブランドのロゴが光る高級品。いかにも『落ち着いた大人の男性』といった風体だった。
そんな男だが、落ち着いた身なりに反して非常に落ち着きがない状態だった。しきりに腕時計を見ては貧乏ゆすりをし、駅改札から人の波が吐き出される度にそちらを凝視する。明らかに誰かを待っている様子だった。
そんな男の背後へ女性の声が掛けられる。
「雄一さん」
男が声の方へ勢い良く振り返ると、そこには小柄な女性が立っていた。クリームイエローのワンピースにジャケットを合わせたカジュアルな装い。細面に切れ長の目は凛とした雰囲気を醸し出しているが、右目の下にある泣き黒子の存在が得も言われぬ色気を感じさせる。
その女性こそ男———雄一の待ち人だった。
「ああ待ってたよレイコちゃん! 予定の時間を過ぎても来ないし、メッセージも全く既読にならないから心配だったよ! 12時からこの前話した有名な和食レストランを予約してあるんだ。少し遅れてしまうけどまだ間に合うし、すぐに出発しよう!」
雄一が焦りを滲ませながら矢継ぎ早にそう言う。対してレイコと呼ばれた女性はあくまで優雅に、にっこりと笑顔を浮かべながら答える。
「お待たせしてしまってごめんなさい。実は雄一さんに会って欲しい人がいて、迎えに行っていたら遅くなってしまったの」
「会って欲しい人? 誰だい?」
雄一は不思議そうな顔を浮かべていたが、レイコの背後から近づいてきた人物の足音に気付き顔を上げる。その人物の顔を確認すると、雄一はあり得ないものを目にしたような驚愕の表情を浮かべた。
「せ、誠二…? お、お前こんなところで何して…」
目の前に立っていたのは、雄一と顔も背格好も瓜二つの男性。
それもその筈。彼の名は木下誠二。
待ち合わせをしていた男、木下雄一の双子の弟である。
誠二は苛立ちを含んだ声で答える。
「こんなところで? それはこちらの台詞だ。お前こそお義姉さんを放っておいてこんなところで何をしているんだ。今日は休日出勤だと言って朝から家を出たと聞いているが」
「い、いやそれは…」
一体何が起きているのかわからない雄一は、レイコに向き直り両肩を掴んで問い質す。
「ど、どういう事だいレイコちゃん!?」
半ばパニックになっている雄一に、レイコは悲しげに溜め息を吐きながら告げる。
「私、雄一さんには結構本気だったんです。けど雄一さんにとって私は遊び相手だったんですよね。浮気の片棒を担がされるとか勘弁なんで、もう別れましょう」
不倫がバレていたこと、絶縁を言い渡されたこと、それら2重のショックを受けた雄一はその場で膝から崩れ落ち
「な、なんで…」
そう力なく呟いた。
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「…そうですか、お疲れ様です。すみません、わざわざ休日にお時間取って頂きまして」
『とんでもない。兄とレイコさんのこと、教えてくれてありがとう。身内の恥を晒すようでみっともないが、このままではお義姉さんが不憫だったからね。礼を言わせてくれ。私はこれからヤツを実家に連れて行くよ。それでは』
そう言うと木下課長は電話を切った。
これでこちらの問題は解決か。後の事は木下課長とご家族に任せるべきだろう。
私がいるのは駅前のファミレス。先ほどまでは木下課長とレイコさんも一緒だった。本来、レイコさんは今日の午前10時に駅前で雄一氏と待ち合わせてデートの予定だったのだが、それを木下課長による雄一氏実家連行とするための最終打ち合わせを3人で行っていたのだ。
話は数日前に遡る。
レイコさんとの話を受け、私は翌日喫煙室で染谷に木下課長の家族構成について聞いてみた。ただ、そこで判明した思わぬ事実に私は凍りついた。
「木下課長のご家族ですかぁ? えーっと…確かご両親とお兄さんがいるそうですよぉ。お兄さんは結婚して家を出たけど、子どもはいないって聞いたような気がしますねぇ…ってあれ? 先輩どうしたんですかぁ?」
それを聞いた私は、多分顔が真っ青になっていたと思う。その時点では木下課長の家族構成を確認し確証を得てからウワサの真相を木下課長と須崎さんに報告すればこの件は解決すると思っていた。木下課長のご兄弟と須崎さんに似た方がお付き合いしていただけだと。だが兄である雄一氏が妻帯者となるとそれは…不倫だ。
これはマズいと急ぎ社内メールで「社内で広まっているウワサについてお話が」と木下課長にアポイントを取り、翌日の定時後に近くのコーヒーショップで話をすることになった。メールの返事を見るに、木下課長もウワサについては思うところがあったらしい。
そしてその日の内にレイコさんには電話で真相を告げた。雄一氏が妻帯者であり、自分との関係は不倫だったと聞かされたレイコさんは、最初は
「嘘!! 嘘よ!! 雄一さんがそんなことするはずない!! 何かの間違いよ!!」
と絶叫するように私の言葉を否定し通話を切った。
しかし一時間ほど経過してから彼女から再度電話があり
「…今になって考えれば、おかしいところはあったわ。自宅には連れて行ってくれないし、泊まりがけのお出かけもダメだって言われていたの。多分、奥様にバレないよう都合良く遊ぶためだけの相手だったってことなのね…」
泣きながらそう告白してきた。レイコさんの気持ちを思うと、胸が張り裂けそうだった。
翌日の木下課長との話には、本人の希望でレイコさんも同席することになった。
最初、木下課長を目にした彼女は
「ゆ、雄一さん…? じゃないのよね…? 驚いた、本当にそっくりだわ…」
と漏らしていた。
見知らぬ女性の口から突然家族の名前が出たことに怪訝な顔を見せる木下課長だったが、彼女と雄一氏とのこれまでの関係を話すと次第に険しい表情になっていった。証拠としてSNSでのメッセージのやり取りやツーショットの写真なんかも複数見せられ雄一氏の不倫が決定的とわかると、木下課長はレイコさんへ向けて深々と頭を下げた。
「…不出来な兄が迷惑を掛けたようで申し訳ない。ヤツには落とし前を付けさせるし、必ず君にも償いをさせる」
その後はレイコさんからの提案で、週末のデートの待ち合わせに誠二氏を伴って突撃し彼を締め上げるという計画が立てられた。もはやレイコさんには雄一氏への未練はなく、とにかく不義理を働いた奥様へ償いをさせるのが最優先だと言っていた。それを受けて木下課長は、義姉と両親に予め事情を説明して実家に待機していてもらい、そこへ雄一氏を捕まえて連行すると言っていた。きっとこの後、木下家では壮絶な修羅場が繰り広げられる事になるのだろう。
これで問題の半分は解決だ。もう半分も数日中には決着がつくだろう。
それはそれとして、今日の私にはもう一つやらなければならない重要なことがある。
そろそろ来る頃かな…と入り口の辺りを見ると、キョロキョロと周囲を見回していた女性が目に入った。
「あ、来た来た。おーい、こっちこっちー」
手を振りながら呼びかけると、彼女もこちらを確認したようですぐに速足で歩いて来る。
「お待たせしました。お疲れ様です」
「お疲れ様。ごめんなさい、わざわざ休日に呼び出したりなんかして」
「いえ、お気になさらず。特に予定もなかったので」
そう言ってボックス席の反対側に座ったのは須崎さんだ。今日は薄手の大きめなベージュのジャケットにジーパンとカジュアルな格好で、いつもはポニーテールにしている髪もまとめずに流している。いつもカッチリとスーツを着こなした彼女しか見ていなかったので新鮮な感じである。
「それで『紹介したい人がいる』ってことでしたけど、その方はまだ来ていないんですか?」
そう、今日は須崎さんと『彼女』を引き合わせるためにこの場を設けたのだ。
本人は不安そうにしていたが、きっと上手くいく…はず。
「ああ、もうすぐ来るはずだから…と、ウワサをすればね」
入り口から近づいてくる、1人の女性の姿。
私が見る方へ須崎さんも振り返ると、須崎さんは目を見開き驚きの表情を浮かべた。
「え…?」
その女性は私達の座る席へゆっくりと歩み寄り、ついに須崎さんの前へ立った。その顔は須崎さんと瓜二つ。ハッキリとした違いは右目の下にある泣き黒子くらいだろうか。須崎さんを眼前にして緊張しているのか、顔は強張り体も僅かに震えているように見える。
「あ、あの、秋本さん、この人は…?」
狼狽した様子で須崎さんが私に問いかける。まぁ自分と瓜二つの顔の人物がいきなり目の前に現れたらそりゃ驚くだろう。苦笑しつつも、あくまで女性が切り出すのを待つ。
女性は意を決して深呼吸をすると、須崎さんを見据えて言った。
「…はじめまして、北原麗花と申します。その……あなたの、姉、です」