恋のウワサ 7
翌日、通勤電車に揺られながらSNSで須崎さんにメッセージを送る。昨日、別れ際に連絡先を交換しておいて良かった。
『今日のお昼休みに話したいことがあるんだけど、時間あるかな?』
そう送ると、ものの数分で返事が返ってきた。
『大丈夫です』
よしよし。ひとまず昨日と同じコーヒーショップで今日の昼休みに会う約束を取り付けることができた。
そわそわしながら午前中の業務を終え、迎えた昼休み。
いつも通り声を掛けてくる染谷に
「ゴメン、今日は外で食べてくるわ!」
そう断りを入れ、ダッシュで事務室を出る。
すれ違いざまに見た染谷は突然のことにポカーンと呆けていた。すまん。
コーヒーショップに到着し、先に席を確保。ランチメニューのパスタセットを購入し、席に戻り食べながら待っているとすぐに須崎さんも到着した。彼女に先に昼食を買ってくるよう促すと、数分後サンドイッチのセットを手に戻ってきた。
彼女がサンドイッチを食べ始めるのを確認してから、私は単刀直入に切り出した。
「工場案内の時に案内してくれた先輩って誰だかわかる?」
そう聞くと、むむむと数秒眉間に皺を寄せて悩んでいたが
「確か…安藤って名前の方だったかと思います。背が高くて体格も良くて、髪が短い男性でした」
よく覚えているな。そこまで分かっていれば絞り込むのも難しくなさそうだ。
「…そう言えば…」
「ん? どうかした?」
「…私、以前にもその安藤さんに話しかけられたことがあるかもしれません」
「え!? どういう事!?」
唐突に判明した繋がりに驚愕した。まさか渉の推測が当たっていようとは。
須崎さんにお願いし、その時の詳細を語ってもらう。
「まだ入社してすぐの頃、5月の連休前なので4月末だったと思いますけど、研修を終えて帰ろうとした時に会社の敷地内で男性に呼び止められたことがあるんです。今思えば、それが安藤さんだったような気がします。その時は何だか怖くて逃げてしまったので、ハッキリと顔を覚えているわけではないのですが…」
何だそれ? 社内でナンパか?
定時後というなら就業時間外ではあるが、ウワサの件も含め何とも軽率なヤツだ。
「ちなみに何で呼び止められたの?」
「それが、私を誰かと勘違いしているようだったんです。確か『何何ちゃんだよね?』みたいなことを連呼していたような…。もちろん『違います』と何度も否定したんですが、言っても聞き入れてくれなくて、怖くなってしまって」
「それで逃げたと。まぁ、当然の反応ね」
そんなの私でも逃げるだろう。下手すれば通報されても文句が言えないレベルだ。
しかし、つまり安藤氏は須崎さんを誰かと見間違えて声を掛けたということか?
見間違えた誰かさんは、安藤氏にとってどういう相手だったのだろうか。
「ちなみに『何何ちゃん』の部分って覚えてる? あ、思い出すのが辛いなら無理にとは言わないけど」
「いえ、そこまでではないです。でも…なんだったかな…。れ…れい…こ、ちゃん? だったかな?」
「一応聞くけど、そう呼ばれることに心当たりは?」
「無いですね。友達にもそんな名前の人はいなかったかと思います」
ふるふると首を左右に振る。
うーん、余計な謎がひとつ増えてしまったな。
「ところで、なんで安藤さんのことをそんなに気にされているんですか?」
そう聞かれて、どこまで話すべきか少し悩んだ。
昨晩の渉との話では工場案内の先輩…安藤氏がウワサを広めた可能性が考えられるという推論を立てたが、確証が無い状態で須崎さんにそれを話しても良いことはないだろう。むしろ安藤氏に直談判しに行き事態を複雑化させるかもしれない。先ほどの呼び止め事件のことを考えると、不用意に彼女と安藤氏を引き合わせるのは危険な気がする。
迷った挙句、ちょっとだけぼかして自分の考えを伝えることにした。
「…ハッキリしたことは言えないけど、須崎さんのウワサにその安藤さんが関係している気がするのよ。もちろん私の思い込みかもしれないけれど、今の話を聞くと何か裏があるような気がするのよね」
「えっ…?」
驚きに目を見開く須崎さん。その目をまっすぐ見て、私は昨晩から考えていたことを伝える。
「須崎さんは不快に感じるかもしれないけど、良ければ私にウワサのことを調べさせてもらえないかしら」
「え…?」
「これまで話してきて、私は須崎さんが嘘を言っているとは思えない。だけど根も葉もないウワサが今後も広まるようなら、その原因が何かを突き止めたいの。須崎さんにとっては興味本位で嗅ぎまわられて迷惑かもしれないけど、どう、か、な…?」
私が話している途中から須崎さんは瞳を潤ませ、しまいには涙を零し始めてしまった。
「え!? ご、ごめんなさい、やっぱり不快だったかしら…?」
「そ、そうじゃないんです…」
片手で口元を覆い、もう片方の手で目元を拭いながら彼女は続ける。
「安藤さんにウワサの事を聞いて『みんな知ってる』って言われてから、私ずっと怖くて…。
私、何も知らないのに、周りのみんな、陰で私のことウワサして笑っているのかなと思うと、苦しくなって。せっかく就職できたのに、仕事辞めたくないって思うのに、どうすればいいのかわからなくて…。
だから秋本さんが、私のこと知って、それでもそんな風に言って貰えたのが嬉しくて…。
ごめんなさい、ご迷惑かけて…でも…ううぅ…」
気丈に振舞ってはいるが、やはり大きなストレスを抱えていたのだろう。入ったばかりの会社で、周囲の人間は影で自分のことを嘲笑っているのではと疑いながら過ごしていたのだから無理もない。
妙な流れから巻き込まれてしまった案件だが、彼女のためにも真相を明らかにしたいと改めて強く思った。同時にウワサを流した張本人に強い憤りを感じた。まだ右も左も分からないような新人を貶めようとするなんて許せない。絶対に尻尾を掴んでやる。
未だ泣き続ける須崎さんへの周囲の視線は若干気になったが、私は須崎さんが落ち着くまで彼女の手を取り握り続けた。一人じゃないよ、と勇気づけるように。
午後の業務中、少し離れた位置の染谷が席を立つのを確認すると、私も後を追う。予想通り喫煙室へ向かっているのを確認すると、明るめの声を作ってその背中に声を掛けた。
「染谷ーっ!」
「ぅえっ? 先輩?」
気が抜けていたのか素っ頓狂な声を上げてこちらを振り返る。
「…どーしたんですかぁ? 私、タバコ休憩のつもりだったんですけどぉ」
「いや、お昼は急に出て行っちゃったから、ちょっと謝っておかないとと思ってね。ご一緒させてよ」
若干胡乱げな目で見られたが「まぁ、いいですよぉ」とのことだったので、2人で喫煙室に入っていく。
喫煙室は四畳半ほどのスペースに灰皿が2つ置かれただけの簡素なものだ。先客はおらず、ヤニで薄茶色に染まった室内に換気扇の音が寂しげに響いている。染谷はポケットから加熱式タバコのケースを取り出すと慣れた手つきでスティックをカートリッジにセット、スティック部分を口に含み軽く吸うとハーッと煙を吐き出す。
「…で、一体何の話ですかぁ?」
「え、いや私は昼の件を謝ろうと…」
「そういうのいいですってぇ。喫煙者じゃない先輩がわざわざここまで来るんですから、周りに聞かれたくない話があるんでしょお? さっさと言っちゃってくださいよぉ」
染谷にはこちらの目論見は全てお見通しだったらしい。
「…話が早くて助かるわ。分かる範囲で教えて欲しいのだけど、安藤って男性社員のこと知ってる? 背が高くて体格が良くて短髪らしいんだけど」
「…ああ、あの人ですかぁ」
「わ、わかるの?」
「もちろんですよぉ、これでも社内の人間は全員顔と名前くらいなら把握してますしぃ」
マジか。私なんか他部署の人間なんて名前と顔が一致するか怪しいのに。
「フルネームは安藤圭佑。新卒入社の5年生社員。誕生日は10月4日で現在26歳。身長178センチで短髪。営業部所属で営業成績は最近不調らしいですねぇ~。あと昔柔道やってたとかでガタイがいい奴です。ちなみに去年の冬頃に彼女にフラれたとかで、一時期めちゃくちゃ落ち込んでたらしいですよぉ」
「く、詳しいわね…」
なんでそんなスラスラとプライベートな情報が出てくるんだ。ちょっと怖いぞ。というかまさかそのレベルの情報を社内の全員分網羅しているのかこいつは。何だか急に恐ろしくなってきた。
とは言え予想以上の収穫だ。やはり持つべきものは情報通の後輩だな。
「まぁ私が知ってるのはこれぐらいですけどぉ~。でも、何でそんなこと知りたったんですぅ?」
「え、ええと、ちょっと気になることがあってね」
須崎さんの呼び止め事件のことも考えると未だ不明瞭な事も多いので、ここで染谷に詳細を語るのは若干憚られる。コイツが口が軽いヤツだとは思わないが、余計なことを話すとまた社内にあらぬウワサが回ってしまうかもしれない。ここは適当に礼を言ってさっさと離脱しようと判断した。
だが、一瞬の逡巡の間に染谷の手は私の肩をガッチリと捕まえてしまった。
「先輩からのたってのお願いだから、何も聞かずに安藤のことを教えてあげたんですよぉ。だからそっちも知ってること教えてくださいよぉ。今時、情報もタダじゃないんですよぉ。ギブアンドテイクってヤツですよぉ」
クソッ、そう言われると断り辛い。肩もがっちりホールドされているし逃げられそうにないか。
…まぁウワサ好きとはいえ軽薄なヤツではないし…信じてもいいか。
心の中で須崎さんに誤りつつ、染谷に向き直る。
「…わかった。ただし、プライベートな話も絡むから他言無用よ」
「オッケーですぅ~。うふふ、そう言われるとどんな話なのかドキドキしちゃいますねぇ~」
(のん気か!)
間の抜けた返事に内心ツッコミつつ、私はこれまでの一連の経緯を染谷に話すこととなった。