恋のウワサ 5
「お先に失礼しまーす」
染谷との昼食後、多少モヤモヤした気分になりながらも午後の業務をこなし只今の時刻は午後6時。定時を迎え急ぎの業務が無いことを確認すると、早々に荷物を片付け事務所を後にする。
昼の話以降、なんだか頭の中がぐちゃぐちゃしている。渉に話せばスッキリできるのだろうか。そう言えば今日の晩御飯は何かな。渉が作るなら何だろうと美味しいだろうけど、できれば今日は肉がいいな。
そんなとりとめのないことを考えながら会社の正門を抜け、駅へ向かおうと思った矢先。
「あの、すみません」
「え?」
門の脇に立っていた女性から声を掛けられた。
ところ変わって、現在私がいるのは駅前のコーヒーショップ。会社前で私を呼び止めた女性と2人でテーブルを挟んで対面する形だ。
対面に座る女性は身長150cmくらいと小柄な体を黒のスーツの上下で包んでいる。髪色はダークブラウンで肩までありそうな髪をポニーテールに纏めており、いかにも新卒の社会人一年生といった感じだ。だが浮ついたような感じはなく、伸びた背筋やシュッとした顔立ち、切れ長の目からは凛々しい感じを受ける。
(どうしてこんなことに…)
私が困惑している理由は主に2つ。1つは対面している女性が、まさに昼休みに話題になっていた須崎という新入社員ーーー本名、須崎彩花さんだったからだ。
もう1つの困惑の理由は、その須崎さんに何故か私の顔と名前が割れているということ。会社前で私を呼び止めた際、彼女は
「秋本菜瑞さんですよね? 少々お話したいことがあるんですが、この後お時間ありますか?」
と言ってきた。
同じ会社にいるのだし、知ろうと思えば社内の人間の顔や名前程度は知ることができるだろうが、その動機が不明だ。彼女と私に接点などないはずなのだが。まさか先日街で会った際に向こうからも見られていたのだろうか。
なんてしかめっ面で思考を巡らせていると、須崎さんが遠慮がちに訪ねてきた。
「…あの、そろそろお話させて頂いてもよろしいでしょうか」
「え? ああごめんなさい、どうぞどうぞ」
どうやら気を遣わせてしまったらしい。姿勢を正して彼女に改めて向き合う。
それを見て「では」と同じように姿勢を正すと、須崎さんは話し始めた。
話を要約するとこうだ。
どうやら須崎さんは昼休み中の私と染谷の会話が偶然聞こえてきたらしく、そこで自分の名前が出たため詳細を確認したくなったらしい。しかし彼女はまだ新入社員という立場なので、事務室内にずかずかと入っていき面識もない先輩を問い詰めるというのは流石にハードルが高かったようだ。とりあえずは廊下からこっそり話を聞き、会話に出てきた「なつみ」という名前から私のことを聞き出して終業後に待ち伏せしていたというわけだった。
私達が昼食を食べていた席は事務室の出入口近くで、扉は開け放たれていた。廊下に出てすぐにトイレがあるし、新人研修は同じフロアの会議室で行われているということなので『偶然』耳に入ったという言い分にも一応納得はできた。
その後は須崎さんから請われて、私が週末に見たカップルの話をすることになった。話を聞いていく内に彼女の顔はどんどんと険しくなり、最後の方なんかは眉間に皺が寄りまくっていたので、何だか自分が怒られているような気分になった。
「…というのが私が見たものなんだけど。それで…ぶっちゃけた話、あれって須崎さんだったの?」
好奇心を抑えられず、少々前のめりになりながら聞いてしまう。
須崎さんは小さく溜め息を吐くと
「いえ、違います。絶対にありえません」
バッサリと否定した。
「え? 本当に違うの? ちょっと距離はあったけど、結構本人っぽかったわよ」
「違います。私、その日は隣県の地元に帰っていましたので。昼頃から夜まで両親と3人で外出していたので男性と2人きりというのもあり得ないですし、父は今年還暦でアラフォーに見間違えられるほど若々しくもありません」
うーん、それが本当なら間違いなく別人だな。
というか若々しくないって、お父さんがちょっとかわいそうだ。
「それに私、白のスカートや水色のカーディガンなんて持っていません。その日の服装も、確か白のパンツに桜色のニットだったと思います。写真もあります」
そう言うと彼女は自分のスマートフォンを取り出し、何度か操作をするとこちらへ画面を向けてきた。スマホを受け取ってみると、表示されているのは須崎さんと両親であろう初老の男女が映った写真だった。レストランらしき場所で両親と一緒に映っている彼女は、確かに桜色っぽいニットを来ている。日付も私が例のカップルを見たのと同じ日なので、彼女の言い分は概ね正しいと言っていいだろう。
「この日、私の初任給でご飯を食べに行ったんです」
写真の中の彼女のように柔らかな笑顔を浮かべながら須崎さんは語り出した。
「私学生の頃、両親にすごい迷惑をかけてしまったことがあって、就職してからは恩返しをしたいとずっと思っていたんです。その日は恩返しの第一歩だって、子どもの頃から両親によく連れて行って貰っていたレストランで食事をご馳走したんです。2人ともとても喜んでくれて私も嬉しくて、来週からもお仕事頑張ろうって思えました」
なんと、親思いの良い子じゃないか。
私まで心が暖かくなるなぁなんて思いながら温かい目で須崎さんを見ていたが、それから段々と彼女の表情が暗くなりだした。
「…でもその週明け、印刷工業の見学中に工場を案内してくれた先輩から変なウワサを聞かされて…それが秋本さんも仰っていた、私と営業部の課長さんとのウワサのことでした。
私、最初はその先輩の仰っていることの意味が分からなくて、とにかく違いますって否定したんです。でもその先輩に『もうみんな知ってるよ』って言われて…私、怖くなって、その日はまっすぐ家に帰って泣きながら寝ました。翌日からは普通に出社して研修を受けていましたけど、それ以降他人の視線が怖くなっちゃって…」
言いながら須崎さんは両手を膝の上できつく握り、体はふるふると震えていた。
入社したばかりなのに周囲から好奇の目で見られ、しかもそれが自分に身に覚えのないことだというのは彼女にとって恐怖だったに違いない。彼女を傷つける意図はなかったにせよ、興味本位でそれを話題に挙げた私にも非があるだろう。申し訳ないことをした。
「…ごめんなさい、勘違いで須崎さんを傷つけてしまったこと謝るわ」
「い、いえ。秋本さんに謝ってもらうようなことでは」
「ううん、謝らせて。ごめんなさい。きっと他人の空似だったのよ。染谷にも…あ、昼に話してた後輩なんだけど、彼女にも勘違いだったって伝えておくわね」
「…はい、ありがとうございます」
そう言うと強張っていた彼女の表情がわずかに緩み、笑みが浮かんだ。きっと毎日周囲からの視線を感じて警戒から顔が強張っていたのだろう。初めて見た須崎さんの笑顔は春の日差しのように柔らかく暖かで、彼女にはこっちの表情の方がずっと似合うのに、なんてことを思った。