彼のウワサ 3
8月に入り毎日今年度最高気温を更新するほどの猛暑日が続くある日、俺・秋本渉は都内のある駅に降り立った。空調の聞いた電車内からホームに降りると、熱気と湿気で不快な汗が体中から噴き出る。日本の夏というのは本当に過酷だ。普段から家に籠ってひたすらPCとにらめっこしている身からすれば尚更に。
そんな取り留めのないことを考えつつ駅から15分ほど歩くと、程なくして目的地に到着。目の前に立つのは大通りから1本路地に入ったところにある小さな建物だ。一軒家とも見紛うような風体の建物だが、入り口脇には『カフェ 桜庭』という立て看板があり、ここが小さいながらも店であることを示している。
古びた店のドアをくぐると「いらっしゃいませ」という店員の挨拶と共に、ひんやりとした空気と穏やかな調子のジャズ、年代物の調度品類とコーヒー豆の豊潤な香りに迎えられる。それまで感じていた熱気と喧騒が嘘のように消え、さながら異世界に迷い込んでしまったかのようだ。
「お一人様ですか?」とこちらへ近づきながら尋ねてくる店員に「待ち合わせで…」と答えつつ店内を軽く見回すと、奥の席から目当ての人物がこちらへ軽く手を振ってきた。俺がそちらへと歩み寄ると、席に掛けていた人物は立ち上がりこちらへ軽く頭を下げてきた。俺もそれに会釈で返す。
「お疲れ様です。すみません、お待たせしてしまいましたか」
「お疲れ様です、秋本先生。大丈夫ですよ、まだ約束の時間の10分前ですので」
そう言って俺に席を勧めるのはパンツスーツ姿の女性。ハッキリとした目鼻立ち、女性としては高い身長、ピンと伸びた背筋。モデルだと言われれば信じてしまいそうな容貌の彼女は鹿子木雫。俺の担当編集者だ。
今、俺達がいるのは都内にある隠れ家的喫茶店『カフェ 桜庭』だ。鹿子木さんの会社———俺の作品の出版元でもある丸山書店本社に近く、落ち着いた雰囲気でランチタイム以外はあまり混雑しないこの店は、よく打ち合わせで使っている。
背負っていたリュックを足元に下ろしつつ席に着くと、店員の若い女性がおしぼりとお冷を持ってきてくれた。
「ご注文はお決まりですか?」
「アイスコーヒーを」
注文を取ると店員は「かしこまりました」とカウンターで作業をしている店長の元へと向かった。その姿を見送りつつおしぼりで手の汗を拭いていると、対面の鹿子木さんが
「暑い中ご足労頂きましてありがとうございます」
そう微笑みながら言ってきた。
今日は月に一度の鹿子木さんとの打ち合わせだ。今時仕事のやり取りなんてメールや電話にオンライン会議があるためフルリモートでも事足りてしまうが、彼女は対面での打ち合わせにこだわりがあるようで、たまにこうして会社近くの喫茶店で落ち合って打ち合わせをする。
本社オフィスの方がいいのでは?と俺の方から聞いたこともあるが「私のリフレッシュも兼ねているので」と笑いながら言っていたので、もしかしたら打ち合わせというのは建前なのかもしれないが。
彼女は先に頼んでいた自分の紅茶で口を湿らせると、足元のショルダーバッグからタブレットを取り出して素早く操作しながら話し始める。
「昨晩のメール拝見しました。今月分の原稿送付頂きましてありがとうございます」
「いえいえ、修正ありましたらすぐ対応しますので、よろしくお願いします」
「それでしたら修正依頼については先ほどメールにてお送りしていますので。帰宅後で良いので確認お願いしますね」
「あ、そうだったんですか。相変わらず仕事が早いですね…」
「出来ることから済ませているだけですよ」
涼しげにそう言ってのけているが、俺が原稿を送ったのは昨晩の21時だ。今朝出社してから校正――誤字脱字や表記揺れ、文法ミスのチェックのことだ――を行ったとして、他の仕事をこなしつつ現在の14時までにチェックした原稿の返信まで終えるというのは、自分にもわかるくらいのハイペースだ。常々感じていることだが、この担当編集様はとんでもなく仕事ができる人だと思う。
今月の雑誌掲載分の原稿の話を軽く済ませると、その後は今後のスケジュールの確認や次の単行本の挿絵のチェック、新作の構想についての相談などを行った。何だかんだで1時間以上話し合い、一段落ついたところでお互いに追加の飲み物をオーダーする。
仕事についての打ち合わせは大体終わりで、ここからはいつもプライベートな雑談の時間だ。鹿子木さんからは、いつものお決まりの質問が飛んでくる。
「奥様とは最近いかがですか? 今日も私と会うことはお伝えになっていますよね?」
「ええ、妻には伝えてあります。鹿子木さんによろしくと言っていました」
「そうですか」
そう言うと彼女は微笑みを崩さずカップの紅茶を口にする。
入籍後、鹿子木さんとの打ち合わせの時は妻である菜瑞へ事前に報告するのが決まりとなっている。鹿子木さんから「仕事相手とはいえ妻以外の女性と定期的に会っているのを黙っていたら、知られた時にトラブルの元になります」とのご指摘があったからだ。仕事ができるだけあって気配りも細やかな人である。
ちなみに、菜瑞の希望で鹿子木さんと俺と3人で食事に行ったこともある。鹿子木さんの人となりを詳しく知りたいというのが理由だったようだが、俺の予想以上に2人は意気投合していた。どうやらマンガの趣味が合ったらしく、帰り際には連絡先まで交換していた。
「もう結婚から半年ですか。お二人ともまだ新婚の雰囲気ですか?」
「まぁ…僕としては、まだまだ浮わついた感じはしますね。妻はいつもしっかりしているんで、僕ほど浮かれてないのかもしれませんが」
「…あら、そうなんですか?」
それまで微笑を崩さなかった彼女の眉がピクリと動く。
「確認ですが、菜瑞さんと十分なコミュニケーションは取られているんですよね? 確かに菜瑞さんはしっかりして自立した方だと思いますが、新婚ということで先生に遠慮している部分があるかもしれませんよ?」
「い、いや、夕飯はほぼ毎日一緒に食べてますし、会話も多い方だと思います。家事も分担して行っていますし、休日は一緒に出掛けているし。あとお互いに遠慮はしないようにしようと、菜瑞からもいつも言ってくれていますので…」
凄みの滲むような笑顔に若干気圧されながらも答える。彼女は自分より2歳年上と聞いていたが、それだけの差でこんなに貫禄が出るものか。それとも通ってきた修羅場の違いなのだろうか。
「…そうですか。仲がよろしいようなら何よりです」
俺の言葉に一応は安心してくれたのか、鹿子木さんは凄みオーラを引っ込めて再度紅茶を口にする。その様子に俺も内心安堵していた。
「…菜瑞さんとのことはせっかく私どももご協力差し上げたのですから、奥様とは末永く仲良くなさってくださいね? 彼女の心が離れてしまわないないよう、秋本先生がしっかり繋ぎ止める努力をしないといけませんよ?」
そう言うと彼女は先ほどまでの微笑みではなく、今度は満面の笑みを向けてそう言ってきた。美人なだけあって笑顔がとても様になっているが…なんだろう、顔は笑っているのだが、間違いなく心は笑っていない。
「え、ええ…。わかっていますとも」
彼女の迫力のある笑みに、俺は若干引きつった笑顔でそう答えるしかできなかった。




