落語声劇「おすわどん」
落語声劇「おすわどん」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約35分
必要演者数:4名
(0:0:4)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
徳三郎:上州屋という呉服屋を営む旦那。
若いがよく店の経営を切り盛りしている。
おそめ:徳三郎の最初の妻。
人並外れた器量よしで、徳三郎にも良く尽くしていたが、
それがもとで病に倒れる。
おすわ:徳三郎の後妻。
おそめにも我が子のように可愛がられ、同じ奉公人からの信頼も
厚い。
番頭:上州屋の番頭。
旦那から毎夜聞こえる声の正体を暴くよう頼まれるが、恐れをなし
て、断ってしまう。
荒木又ずれ:元ネタは作中にも書いてある、江戸初期の武士で、
鍵屋の辻の決闘で名高い、柳生新陰流の剣士、荒木又右衛門を
もじり、子孫という設定で登場させている。
町で剣術を教えており、徳三郎から依頼を受けて、
毎夜聞こえる声の正体を暴くべく、上州屋に泊まり込む。
蕎麦屋:江戸時代に大人気となったソウルフードの一つというべき蕎麦。
昼となく夜となく売り歩き、最盛期には江戸だけで三千軒を数え
るほど、右を向いても左を向いても蕎麦屋があったとか。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
徳三郎・蕎麦屋・枕:
おそめ・おすわ:
番頭・語り:
叔父・荒木:
枕:江戸の昔、下谷の阿倍川町に呉服商を営む、上州屋という大店がござ
いました。旦那の名は徳三郎といい、妻のおそめと共に他の人が羨む
ばかりの仲睦まじさで日々を暮らしておりました。
松の双葉はあやかりものよ、枯れて落ちても夫婦連れ、てな都都逸が
ございます。
これは夫婦は枯れて落ちる事はないが、貧乏な時も大変な時も決して
別れないという意味ですが、正にこれを地でいっていたわけですな。
実際、おそめさんの器量は人並外れており、亭主の徳三郎にはよく
つくす、店の奉公人や出入りの者への気遣いたるや、
なみなみならぬものがございました。
しかしそんな気遣いしすぎるのが災いしたか、
体をこわして寝込んでしまいます。
さあ旦那の徳三郎、八方手を尽くし、名医という名医に診てもらい、
果ては神仏へ願掛けする有様。
そんなある日、いつものように徳三郎は妻おそめの枕元へ、
看病にやって参ります。
おそめ:ごほっ、ごほ…。
徳三郎:おそめ、具合はどうだい? 大丈夫かい?
お医者様がね、飲み薬を置いていっただろう?
煎じたあれを飲んだら近頃だいぶ良くなっていると、
そうおっしゃってたよ。
おそめ:いいえ…私はもう、ダメです…。
そろそろあの世からお迎えが来そうな気がいたします。
徳三郎:何を言うんだい、おそめ。
お前、病は気からって言うじゃないか。
気分を変えなきゃダメだよ。
おそめ:そんなことはありません。
自分の命くらい、よくわかっています。
こちらに嫁いできて三年という間、一生ぶんに感じるほど、
おまえ様にとても可愛がっていただきました。
おまえ様と夫婦の契りを交わせて、おそめは本当に幸せでした。
ただ、一つだけ気にかかる事は…、私が目をつぶった後、
おまえ様はまだまだお若いですから、後添えをお持ちになるで
しょう。
それについてやきもちがましい事は申しません。
その時は、おまえ様によく尽くして奉公人の面倒見の良い、
立派な人を迎えて下さいね。
そうすれば、私も思い残す事なくあの世とやらへ参れますから。
ごほっ、ごほっ…。
徳三郎:バカなことを言うんじゃないよお前は。
なぜそう弱気になるんだい。
お前にもしもの事なんてない!
いや、仮にあったとしてもだよ、お前がいなくなったら私は、
もうこの世の中に女なんてものはいないと思うよ。
とにかくね、そんな事は考えずに、さあさあ、養生しておくれ。
語り:と、医者の処方していった薬を勧めてみたが、人間には寿命という
ものがございます。与えられた天寿というものがある。
その次の日の明け方、血相を変えた店の番頭が飛び込んできました
。
徳三郎:おぉ番頭さん、今日も朝早いね。
番頭:だ、だ、だっ、旦那様ッ!!
お、おかみさんが…!!!
徳三郎:えっ!?
【走り出す】
おそめ…おそめ…そんな…そんなっ…!
【障子を勢いよく開け放つ】
おそめっ!!
おそめっ! しっかりしなさい!
おそめっ!!
おそめぇぇっっ…!!
おおぉぉぉぉッッ…!
【しばらく号泣する】
語り:おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで、という
都都逸があります。
あわれ共に歳を重ねる事かなわず、おそめはこの世を去りました。
徳三郎、金に糸目をつけず立派な葬式を上げて弔い、
初七日・二七日・三十五日、四十九日・百箇日、
やがて一周忌を迎えたころ、こんな話が持ち上がります。
徳三郎:おかげ様で、無事に一周忌の法要も済みました。
叔父御も、誠にありがとうございます。
叔父:早いものだね、あれから一年だ。
…徳さん、実はさっきみんなと話したのだが、これだけ大きな店を
構えていて、女手が無いというのはどうも具合の悪い話だ。
だいいち店の信用にもかかわる。
何よりまだ26という若さじゃないか。
そろそろ、後添えを考えてくれないと困るよ。
徳三郎:…いろいろと、ご心配をおかけして申し訳ございません。
確かに、皆様のお気持ちも、叔父御のおっしゃることも分かりま
す。
実はおそめが今わの際に、これこれこういう事を言って逝きまし
て、それが未だに耳の底に残っているんです。
なので、まだ後添えという気には…。
叔父:いや、お前さんの気持ちが分からないわけじゃないよ。
短い縁だったけど、おそめさんを忘れる事ができないってのはね。
けどね、亡くなった人の事は一日も早く忘れてやらないと、
仏が浮かばれないよ。
軒端を離れられないと言うよ。
それにね、一つの家に女というものがいないと、
どうも殺風景でいけない。色気というものが無い。
だからね、後添えを迎えるといい。
おそめさんの事は、ちゃんと季節ごとのお墓参りをして、供養してあ
げればいいじゃないか。
徳三郎:ですが、しかし…。
叔父:何もこれはお前さん一人だけの事じゃないよ。
この上州屋に奉公している者達みんなの事も考えてのことだ。
徳三郎:…。
番頭:旦那様、私からもお願いいたします。
差し出がましい事も、口幅ったい事を申しているのも分っているつ
もりです。
旦那様とおかみさんの間柄はよく存じております。
ですが、店の事、私ども奉公人の事を案じてくださるのでしたら、
なにとぞここは、まげて…!
徳三郎:…。
わかりました…。
では叔父御、お頼み申します。
番頭:! ありがとうございます、旦那様!
徳三郎:店の為、おまえ達の為…と言われては私も考えないといけないか
らね…。
叔父:徳さん、よく決心してくれたね。
じつは番頭さんとも話したんだが、
気心の知れない者をあちらこちらと探すよりも、どうだろうな。
今まで奥で働いていた、おすわという女中なんだが、
たいそう気立てが優しく、器量も十人並みの上だ。
徳三郎:おすわ…そういえばおそめもよく話していました。
細かい所によく気が付くと。
番頭:亡くなったおかみさんは、自分の子供のように可愛がっていました
。
何をするにも、どこへ行くにもおすわ、おすわと…、
おすわもおかみさんによく懐いておりました。
奉公人たちも、”おすわどん”と親しみを込めて呼んでいるくらい
で。
徳三郎:そうか…そんなに…。
叔父:あれを後添えにするのが、一番丸く収まると思うのだが、
徳さんはどう思うな?
徳三郎:ありがとう存じます。
それでは叔父御にお任せいたしますので、
なにぶんよろしく、お願いいたします。
叔父:うむ、分かった。
…実はな、おすわさんにはさっきから次の間で控えてもらってる。
入ってきなさい。
おすわ:は、はい…失礼いたします。
おすわでございます。
徳三郎:おすわ、おそめの生前は良くつくしてくれたね。
私にもおそめの時と同じように、力を貸してくれるかい?
おすわ:も、もったいないお言葉です。
これから幾久しく、よろしくお願いいたします。
叔父:ようし決まった!
あとのもろもろの事は番頭さんにお願いしよう。
おすわさん、徳三郎のこと、頼んだよ。
おすわ:は、はい!
番頭:お任せください。
所持万端、滞りなく整えておきます。
おすわさん…いえ、おかみさん、まずは先代のお部屋へご案内しま
しょう。
おすわ:はい、よろしくお頼みいたします、番頭さん。
語り:いささか押しの強い感が無くもないが、末は徳三郎も納得しての事
、話はとんとん拍子にまとまり、おすわは上州屋の後添えとなった
のであります。
さぁこのおすわさん、先代のおかみのおそめにも増して旦那に
はつくす、奉公人には気を配る。出入りの者からの評判は上々と、
非の打ち所がありません。
徳三郎:おや番頭さん、どうしたんだね?
番頭:旦那様、お忘れ物です。
徳三郎:おぉ、これは粗忽だったよ。
番頭さん、よく気が付いてくれた。
番頭:いえ、気づいて私に持たせてくだすったのは、おかみさんです。
徳三郎:なに、おすわが?
番頭:はい。
いや、実に恐れ入りました。
ご先代以上に気の付く方です。
徳三郎:おすわのおかげでお前たち奉公人や、出入りの者の一人まで笑顔
が絶えない。
ありがたいことだよ。
番頭:いや、こんな事を申してはお叱りを受けるかもしれませんが、
旦那様ほど女運の良い方はいらっしゃらないのではないかと、
最近しみじみ思うようになりまして…。
徳三郎:ふむ…。
いや、番頭さんの言う通りだ。
私は幸せ者だね。
ありがたいことだよ。
語り:徳三郎をはじめ、店の奉公人たちも良かった、良かったと、
すっかり喜び、ほっと一安心しました。
ところが、おすわさんが正式に徳三郎の後添えになって、数えて二十日めの
真夜中すぎ。俗にいう、丑三つ時でございます。
徳三郎:ううむ、夜中はやはり冷えるな…。
さて、小用も済んだし、寝所に戻ってもうひと眠りーーん?
おそめ:ぉすわ~ど~~~ん…ぉすわ~ど~~~ん……。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
徳三郎:?はて、いま誰かうちの妻の名を呼んだような気がしたが…、
それに表の戸を叩くような音も聞こえたような…。
空耳だったかな…?
語り:その時は聞き間違いか空耳で済ませた徳三郎でしたが、
それから毎晩同じ時刻の真夜中すぎに聞こえてくるようになったの
です。
おそめ:ぉすわ~ど~~~ん…ぉすわ~ど~~~ん……。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
徳三郎:や、やっぱり空耳じゃない!
おすわの名前を呼んでる…!?
おすわ:お、おまえ様、おまえ様、聞こえましたか…!?
あ、あれは…私の名を呼んでおります…!
! ま、まさか、おそめさんが私を恨んで…!?
徳三郎:そ、そんなはずはないだろう!
だいいち、おそめはお前を可愛がっていたはずじゃないのか?
それなのに、どうして迷って出てくるって言うんだ!?
おすわ:わ、わたし、もしかして知らないうちに何かして…?
う、うう…気分が…っ。
【倒れるSEあれば】
徳三郎:あっ、お、おすわ、おすわ!
これ、しっかりしなさい!
おそめ:ぉすわ~ど~~~ん…ぉすわ~ど~~~ん……。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
語り:身に覚えはない、しかしあれあの通り毎晩毎夜自分の名を呼ぶ。
その為おすわはすっかり気に病んで床に伏してしまいます。
おそめ:おそめ:ぉすわ~ど~~~ん…ぉすわ~ど~~~ん……。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
徳三郎:ううう、今夜も…!
おそめ、いったいお前は、何を訴えたいんだ…!!
おそめ:おそめ:ぉすわ~ど~~~ん…ぉすわ~ど~~~ん……。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
語り:奉公人たちもすっかり怯えてしまい、夜になると奥の一間に集まっ
て、頭から布団をかぶってガタガタ震えている。
そしておすわの病状も日増しに悪くなる一方。
すっかり貧乏くじを引いた形になってしまった徳三郎ですが、
このままでは暖簾に傷がつく、これはいけないとばかりに、
事態の収拾へ向けて動き出します。
徳三郎:番頭さん! 番頭さんはいるかい!?
番頭:旦那様、お呼びでございましょうか?
徳三郎:あぁ、あとを閉めて入ってくれるかい。
【二拍】
番頭さん、私は今日ね、お前さんに手をついて頼みたいことが
一つあるんだ。
番頭:だ、旦那様!
どうか顔を上げてくださいまし!
何を野暮な事をおっしゃられますか。
旦那様は私どもの主で、私どもは奉公人でございます。
口幅ったい事を言うわけではありませんが、
ご当家には先代の頃から奉公させていただいているんですよ?
主従の間柄というのは、そんな冷たいものじゃないはずです。
俗に言うでございましょう。
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世、間男はよせ、と。
私は旦那様の為、お店の為とあればたとえ火の中水の中、
飛び込む覚悟はいつでもできております。
旦那様はただ私どもに、ああしろ!こうしろ!と命じて下されば
良いのです。
徳三郎:番頭さん…よく言ってくれたね。
私はその一言を聞いてほっとひと安心しました。
お前さんみたいな忠義者をもって、幸せ者だよ。
それならね、番頭さん、私はお前さんに命令します。
番頭:はいっ、承ります。
徳三郎:ここのところ、毎晩真夜中すぎになると表の戸をバタバタ叩いて
、うちのおすわの名を呼ぶ者がいる。
すまないけどね、今晩その正体を見極めてくれないかい?
番頭:……長々、お世話になりました。
本日ただいま限りで、お暇を頂戴いたしとうございます。
徳三郎:な、なんだい、だしぬけにお暇を頂戴するって。
番頭:旦那様の前でございますが、私は昔から化物と茄子が大嫌いな性分
でして。
徳三郎:茄子なんかと一緒にするんじゃないよ。
だいいち番頭さん、お前さんさっきなんて言ったんだい?
たとえ火の中水の中でも飛び込む覚悟がある、そう言ったろう。
番頭:火の中水の中に飛び込む覚悟はできておりますが、まだ化物の中に
飛び込む覚悟はできておりませんで…。
徳三郎:何を薄情な事を言っているんだ。
まったく…なら、どうすればいいんだい…。
番頭:あの…旦那様、それでしたら同じ町内に住んでおります、あの、
だいぶお年は召してらっしゃいますが、
やぎゅうの流れを汲んでいる一刀流の使い手、荒木又ずれ先生に
お頼みしてはいかがでしょう?
徳三郎:荒木先生にかい?
でもたしか、やぎゅうと言っても柳生但馬守の新陰流ではなくて
、野の牛と書く方の野牛だそうじゃないか。
たいそう荒っぽい剣術だそうだね。
番頭:はい。
ですが、荒木又ずれ先生はかの荒木又右衛門の子孫にあたる方で、
腕は二段も三段も上だとか。
ただ、名前が悪かったために世に出られなかったと聞き及んでいま
す。
徳三郎:ふ、ふうむ…そう、なのかい…?
まあこの際だ、藁にもすがる思いだよ。
番頭さん、荒木先生を呼んできてくれるかい?
番頭:承知しました、さっそく行って参ります。
【二拍】
たしか先生の道場は…ここだな。
頼もう!
荒木:むっ、道場破りか!?
当道場の看板は渡さんぞ、そこを動くなッ!!
番頭:あわわわ、しまった、挨拶を間違えた!
荒木先生、上州屋の番頭でございます!!
荒木:なにッ!?
なぁんじゃ、番頭さんではないか。
何ぞ、ご用かの?
番頭:じ、寿命が縮んだ…。
あ、そ、それで今日こちらに参ったのは、お頼みしたいことがありまして。
荒木:なに、わしに頼みたい事とな?
番頭:はい、詳しくは主・徳三郎に会っていただければと…。
荒木:ふうむ…何やら深刻なわけがあるようじゃな。
相分かった!共に参ろう。
語り:気軽に引き受けてくれた荒木先生、番頭さんと共にお店に戻ると、
徳三郎から事の次第を事細かに説明を受けます。
旦那:…というわけでして、家内は床に伏せってしまうし、奉公人どもも
夜も眠れず怯えているせいで昼の商いにも影響が出ているしで、
困り果てている次第です。
荒木:なるほどの。拙者も武士の端くれ、
心得た、拙者がその化物の正体を暴き、退治てくれよう!
旦那:おお、お引き受けくださいますか!
ありがとうございます!
荒木:夜になったら、皆は奥の一間に集まっておるがよい。
わしは例の化物の声が聞こえ次第、いつでも飛び出せるように
表玄関で待ち受けよう。
旦那:よろしくお願い致します!
先生がお力を貸して下さるなら百人力です!
荒木:では、支度をして参る。
語り:やがて日が暮れまして、すっかり支度を整えた荒木先生が上州屋に
現れます。
店の者すべてが奥へ引っ込んだ後、刀の下げ緒を外し、たすき十字
に綾なしまして、店の上がり框にどっかと腰を下ろします。
今か今かと待つうちに、東叡山寛永寺で打ち出す八つの鐘が、
ごぉ~ん…ごぉ~んと鳴ります。
草木も眠る丑三つの、矢の胸三寸下がり、
川の流れもピタリと止まる。
世間がまるで死んだように、針を落としても音が聞こえるような。
荒木:そろそろ真夜中だな…。
さぁ化物め、いつでもござんなれ!
野牛流は荒木又ずれが、相手つかまつる…!
【二拍】
むぅ…、まだ現れぬか…?
いかん、上の瞼と下の瞼がそろそろ仲良うし始めたわ…。
おそめ:ぉすわ~ど~~~ん、ぉすわ~ど~~~ん。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
番頭:ひ、ひいい、せ、先代様、わ、わたしどもは決して先代様を邪魔に
思っていたりなんかしてません…!
なんまいだ、なんまいだぁ…!!
旦那:お、おそめ…
い、いったいなにがそんなに未練があるというんだ…!?
おそめ:ぉすわ~ど~~~ん、ぉすわ~ど~~~ん。
【バタバタと戸を叩くような音のSEあれば】
荒木:現れたな!
化物め、そこを動くなッッ!!
【表の戸を勢いよく開け放つSEあれば】
蕎麦屋:!!?ひッ!!
な、なんですかいったい?
あぁ驚いた…!
荒木:その方かッ!
毎晩毎夜、ここのご家内の名を呼ぶのは!
蕎麦屋:え…?
いや、あっしはここのおかみさんの名前なんざ、
呼んだ覚えはございませんで。
ただ毎晩、この時間帯にここへ参りまして、
商いをさせていただいておりますが…。
荒木:商いじゃと?
ではその方、何者だ!
蕎麦屋:何者もなにも、ご覧になる通りの蕎麦屋でございまして、
毎晩ここへ来て、お蕎麦うどんと触れておりやすが…。
荒木:………、なに?
蕎麦屋:お蕎麦うどん、と触れておりやすが。
荒木:お蕎麦、うどん…?
おすわどん…。
おそばうどん…。
や、表の戸をバタバタ叩いておったであろう!
蕎麦屋:いいえぇ、バタバタ言わしておりますなァ、この渋団扇でもって
七輪のケツを扇いでるんでございますが。
荒木:そうか…「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」、
蕎麦屋であったか…。
世の中というのは不思議なもの、聞いてみれば他愛のないものよ。
怖い怖いと思えば白帚が鬼、やかんが天狗に見えるというが、
なるほど、そんなものか。
いや、実はこれこれこういうわけで、拙者はここの店の主に頼まれて、
化物退治に出張って参った。
武士たるもの、頼まれてこのまま手ぶらで帰るわけには参らん。
証のために、その方の首を手土産に持って帰る!
そこになおれィ! 撃ち落としてくれよう!
蕎麦屋:ちょちょちょっと待っておくんなせェ! 言う事が乱暴だな。
…いくら手ぶらで帰れねえのは分かりやすが、
いちいち蕎麦売ってて首が胴から離れてたんじゃあ、
江戸じゅうの蕎麦屋みぃんな首無しで商いしなくちゃならねェ。
お侍様が手ぶらで帰れねえわけは分かりやすが、
かと言ってあっしも、
【首の根を叩く】
一つしかねえこの首はさしあげられやせん。
荒木:ならばその方、なんと致す!
蕎麦屋:…いかがでございやしょう、身代わりを立てますので、
それでお許しのほどを。
荒木:なに、身代わりじゃと?
蕎麦屋:へい、あっしの倅を差し出しますので、
ちょいとお待ちになってくだせえ。
荒木:なんじゃと!?
蕎麦屋、その方、倅を身代わりに差し出すと申すか!?
蕎麦屋:ええと…こっちだ。
へい、これでございやす。
荒木:引き出しから何か取り出したの…。
なんじゃこれは!?
蕎麦屋:そば粉でございやす。
荒木:そば粉がなにゆえその方の倅になる!
蕎麦屋:へい、蕎麦屋の子ですから、そば粉、
倅になりやすな。
荒木:何ィ…蕎麦屋の子でそば粉でその方の倅…たわけた事を申すな!
してこれを何とするのだ!
蕎麦屋:へぇ、手打ち(手討ち)になさいまし。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
桂歌丸
三遊亭圓楽(五代目)