第十五話『夢を追う者』
発射された銃弾はおよそ秒速300メートルの速度で標的に着弾する。それは音速と同程度のスピードだ。つまり、発射音が鳴り響いた時には既に銃弾は標的に命中している。それを回避しようと思えば、音速を超える他に方法はない。
つまる所、発射された銃弾を回避する事など不可能なのだ。ならば、どうして大輝は石田が撃った銃の弾丸を避ける事が出来たのか? その答えは単純明快だ。そもそも、大輝は発射された銃弾を回避していたわけではなく、銃口の向きから推測した弾道から発射される前に身を逸らしていただけだ。
発射された銃弾が軌道を変える事は決してない。だからこそ、大輝には当たらない。けれど、石田の拳は自在に変化しながら大輝に襲い掛かる。避けたと思った先に拳が来る。避けた先に拳がある。
「シッ! ハッ! ハァ!」
決定打には至らない。けれど、大輝は反撃に転じる事が出来ずにいた。
強引に拳を振るっても、当たらないのだ。
その理由は石田の歩法にある。まるでふらついているかのようでありながら、重心は動かず、前後左右に自在にステップを踏み、石田は大輝の拳や蹴りを尽く回避している。
その卓越した技巧に大輝は舌を巻いた。
「……やるじゃねぇか、石田ァァァ!」
喜悦を浮かべる大輝に対して、石田に油断はない。
あまりにも一方的に攻め続ける事が出来ている為だ。それは彼にとって、あり得ない事だった。
なにしろ、彼が憧れた蘭堂は大輝に為す術なく敗れたからだ。
武器を持った大人に対して、一歩も引かずに暴れ回り、常に勝利し続けた伝説の総長。彼を下した男に自分の技など通じる筈がない。にも関わらず、通じているかのように感じるのは大輝の罠に違いない。
石田は本気でそう信じていた。だからこそ、一切の油断を見せない。
「ドラァ!」
「ッシャァ!」
石田は蘭堂に憧れていた。その力は天下無双だと信じて疑わず、少しでも近づきたいとボクシングを始めた。並々ならぬ努力によって、所属していたクラブではトップの実力者になっていたが、それでも彼は自分が蘭堂に遠く及ばぬ存在だと確信していた。
対して、大輝は彼が既に蘭堂を超えている事を確信していた。
「オラァ!」
直線的な攻撃が当たらないのならばと回し蹴りを繰り出しても、石田は軽やかにバックステップを踏んで躱し、直後に接近すると共に大輝の急所へ拳を打ち込んで来る。
攻撃が当たらない。大輝の額からは一筋の汗が流れ落ちて来た。
さしもの大輝も徐々にダメージが蓄積して来ている。持久戦でも分が悪い。
「シャァ!」
大輝は向かってくる石田の腕を掴もうとした。その挙動を見抜かれ、掴もうとした手は空を切り、直後に後頭部へ衝撃が走った。
「ハッ!」
石田の口元に笑みが浮かぶ。最高の一撃がクリティカルヒットした。
大輝が崩れ落ち、石田は選択を迫られた。
これは勝機だ。追撃を繰り出せば勝てる。けれど、相手はあの竜河大輝だ。倒れ込んだのはブラフであり、追撃を加えた所に反撃が来るのではないか? その迷いは刹那のもの。反撃が来た所で避ければ良いと考え、追撃を決意して石田は踏み込んだ。けれど、刹那の迷いは次の思考を単純化させてしまった。
必殺の一撃。それは渾身の左ストレート。石田がこれまでに対峙して来たボクシングの対戦相手や喧嘩の相手の中で、この一撃に耐えられた者は一人としていない。
相手がガードを固めていても正面から食い破り、意識を刈り取る石田の必殺技は彼が嘗て纏っていた特攻服に描かれていた白虎にちなみ、二の打ち要らずの『白虎の一撃』と恐れられた。
だが、相手は竜河大輝。これまで石田が対峙して来た男達とは違う。彼が銃弾を避けた事実を石田は失念していた。変幻自在だったからこそ、石田の拳は大輝の急所に当たっていたのだ。最後の一撃として繰り出された直線的な左ストレートを大輝は回避して、渾身故に回避行動へ移れない石田のボディにカウンターを叩き込んだ。
「ガハッ!?」
その一撃は信じ難い威力をもっていた。それこそ、石田の『白虎の一撃』を超えている。
ふっ飛ばされ、鞠のように石田の体は地面を弾んだ。
全身を貫く激痛に石田の意識は飛びそうになった。けれど、歯を食い縛り、彼は必死に意識を保った。
ここで意識を失う事は文字通りの死を意味するからだ。
先ほどから手下からの援護が一切ない。耳を澄ませば阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえて来る。恐らくは大輝の仲間が暴れ回っているのだろう。
「……負けん」
石田は血を吐きながら立ち上がった。
恐らくは肋骨が折れているのだろう。内蔵が傷つき、その血が溢れ出している。
それでも彼は大輝を睨みつけている。
「俺は……、阿覇煉暴の総長! 石田松陽! 貴様を滅殺し、必ずや阿覇煉暴が天下を取る!」
そうすれば、帰って来てくれる筈だと信じている。
己に夢を見させてくれた偉大なる先代総長。蘭堂が帰って来るまで、阿覇煉暴を守る。
蘭堂が大輝に敗れた後、阿覇煉暴はメンバーが次々に抜けていき、自然消滅しかけていた。天下を目指したのは阿覇煉暴を残す為だ。夢がある限り、阿覇煉暴は終わらない。だから、追い続ける。その為に、旗頭である己が負けるわけにはいかない。
ここで己が負ければ、今度こそ阿覇煉暴は終わってしまう。
「終わらないんだ……。終わらせられないんだ! 終わらせたくねぇんだよ! 夢を! だから、テメェを滅殺する!」
阿覇煉暴を終わらせない。彼のその生き様に大輝は笑みを浮かべた。
「来いよ、石田。テメェが背負ってるもん、全部篭めて!」
「オォォォォォォォ!」
石田が繰り出したのは左ストレートだった。大輝にとって、それは躱そうと思えば躱せる一撃だ。けれど、大輝は迎え撃つ事を選んだ。
石田松陽という男の全身全霊を懸けた一撃だ。ならば、此方も全身全霊を懸けた一撃で迎え撃たねば男が廃る。
大輝が繰り出したのもまた、左ストレート。見様見真似の一撃だ。
「バカが!」
石田は嗤った。
左ストレートを見た目通りの単純な技だと思い込んでいるのならば愚の骨頂だと。
ボクシングにおいて、左ストレートは基本であり、要の技だ。足の開き方が少しズレただけでも威力は大きく変わる。最適なスタンスで、最適な拳の握り方で、最適な動作をもって繰り出した一撃と、見様見真似で適当に繰り出した一撃では威力に雲泥の差が生じる。
遥かなる高みへ至る為に積み重ねてきた研鑽の日々。それは素人が簡単に真似られる程、軽いものではない。
激突する拳と拳。
「……何故だ」
軍配は大輝に上がった。皮が破れ、肉が裂け、骨が砕けた己の拳に目を見開きながら石田はよろめき、大輝の追撃をまともに喰らってしまった。
「殴り合いの回数なら、俺もテメェにゃ負けてねぇってこった」
単なる見様見真似ではなかった。喧嘩に明け暮れる日々を送り続けて来た正真正銘の不良の拳にも、積み重ねられて来たものがあったという事だ。
「ちく……、しょう……」
「……強かったぜ、石田。蘭堂以上によぉ」
「……馬鹿を言うな。総長は俺などよりもずっと……」
そうして、石田は意識を失った。
「ダーリン!」
「大輝殿!」
途中から覗いていたらしい幸音と進ノ介が駆け寄ってくると、その背後で繰り広げられている地獄絵図に大輝は肩を竦めた。ゾンビが阿覇煉暴を襲っている。
「ちょっと待ってろ。まだまだ、暴れたりねぇからよぉ」
「ダ、ダーリン!?」
「大輝殿……!」
大輝は倒れている石田を横目に言った。
「そいつにはトドメを差すなよ。また、喧嘩してぇからよぉ」
「……ダーリン。しょうがないなぁ……」
素直に石田へ向けていた銃口を下げる幸音に大輝は笑みを浮かべた。
「さーて、暴れさせてもらうぜ、ゾンビ共! 雑魚が退いてな!」
夢を追い続ける限り、石田は更に強くなる。
だから、アイツの夢はまだ終わらせない。大輝は阿覇煉暴を襲うゾンビを一体残らず蹴散らし、幸音達と共に六本木を後にした。




