2-02 公爵令嬢はバックレる
いまやすっかり斜陽の公爵家は、ひとえに長女セラティーナの努力でなんとか体裁を保っていた。
しかし、両親、弟妹が納税のために捻出した有り金全部持って豪遊の旅に出てしまったことを知ったセラティーナは残った使用人達に向かって宣言した。
「レディース・アンド・ジェントルマン! 我が家は没落します!!」
れでぃーすえーんどじぇんとるまん。
我が公爵家は没落します。
貴族の起床時間は平民よりずっと遅い。とりわけ王都在住であれば、出仕や鍛錬というものに縁がない者達には早起きという概念さえないかもしれない。
そんな生態の階級のなかで、比較的少数派である公爵家の長女セラティーナが珍しく寝坊した朝、この家の運命 ―― 末路とも言う ―― は決まった。
ここ最近、連日のように深夜まで仕事をしていた彼女は、それがようやく終わったのをうけて、やっと思う様爆睡していたのだ。
そうして昼前に目覚めたセラティーナは、まだ寝足りないとグラつく頭をゆっくりともたげ、起き上がり大きく伸びをした。
―― 途端、攣った足に悶絶してマットレスに沈む。
「ああもう … おかげで目が覚めたわ」
ひとしきり痛みに耐え、ようやく治まったそれに文句を言いつつ寝台から降りたセラティーナは、身支度を調えるべくサイドテーブルの呼び鈴を鳴らした。
朝食というより昼食を済ませ、セラティーナは執務室に向かった。もはや定位置となっているこの部屋の主人の席は、本来は当主である父親のものだが、執務が何よりの苦行、という怠惰な性格だったため、長女セラティーナがその才を示すや否や、領政を彼女に丸投げした。
当時セラティーナは10歳。立派な虐待である。
だが親に似ず真面目で勤勉な彼女は、執事達の手を借りてコツコツと仕事をこなし、先代の頃から実は傾きかけていたこの公爵家をギリギリのところで支え続け、遂には多少なりと蓄えができる程にまで盛り返したのである。
たとえ両親に守銭奴と馬鹿にされようと。
たとえ弟妹にドケチと罵られようと。
家の存続と領民のためにそりゃあ頑張ったのである。
貴族の義務、とまで言われる学園だって、ちゃんと入学し、正しくスキップしてさっさと一年で卒業した。着飾りもせず、婚約者もいないため、国王主催の夜会以外は社交界にも顔を出さないセラティーナは幻の令嬢と少々美化されていたが、実際はワンピースや乗馬服を常用し、飛び回る自転車操業領主代理でしかない。
だって功績はすべて父のものになっているからだ。
もっとも、社交界で酒かっくらって遊び呆けている当主夫婦など、見る者が見ればお飾りでしかないとバレているが。
ともあれ、領政に携わるようになって早5年。昨夜遅くまで頑張って作成した帳簿を、最終チェックを頼んでいた老執事から受け取ったセラティーナは、深々と安堵の息を吐いた。
「なんとか今年も無事に満額納税できそうね」
「左様でございますねぇ」
と老執事は目元を緩ませながら、そっとティーカップをサーブした。
その芳しい香りを存分に愉しんでから口をつけ、セラティーナもまた表情を緩めた。
「その上少し余剰金もできたし、この調子で行けばあの子達のデビュタント準備も大丈夫そうね」
「ですが、お嬢様のご衣裳は …」
セラティーナは、痛ましげに言葉を濁した老執事に微笑みかけた。
「あら、私はお婆様のあのドレスが大好きよ。大体デビュタントドレスのデザインに流行はあまり関係ないし、そうなれば後は質の問題だわ。知ってるでしょ? あのドレスは今じゃ手に入らないスパイダーシルク糸のボビンレースがたっぷりあしらわれているし、ドレス生地も超が付く一級品だわ。我が家が名実共に名家だった頃のものよ。それに」
と、愛しげに手元のティーカップに目を落とす。
「皆がとても大切に手入れをしれくれていたから状態も最高。ホント、皆のおかげだわ」
件のドレスばかりか、家屋に家具、細々とした品々まで、使用人達が心を込めて手入れをしてくれているからこそ、この家はなんとか体裁を保てている。
しんみりとまったりと大仕事を終えた達成感に浸っていたセラティーナだが、ふと、邸内の空気がいつもと違う事に気がついた。
「そういえば今日は随分と静かね。まだ寝てるのかしら?」
なんだかんだと騒々しい家族を思い出したセラティーナに、老執事が渋面を浮かべた。
「いえ、それが … 他の皆様は今朝早く旅行に出立されました」
「旅行?」
「はい。セラティーナお嬢様を置いて行かれるなど、なんと酷い事かと使用人一同憤慨しております」
「いや別にそれはいいんだけど、どこにそんなお金が …」
ハッ!!
最悪の推測に顔を見合わせた2人は、疾く執務室を飛び出し、金庫室へ向かった。
金庫室といっても、せいぜいが一番奥まっていて頑丈な外鍵が取り付けられている部屋というものだが、それでもこの家では最も重要な場所である。その扉の鍵が ―― 。
「あ、開いている …!」
それでも一縷の望みをかけて力なく開いた扉の中は、ただ、空の棚が虚しく並んでいた。
へたりっと床に座り込んでしまったセラティーナを誰が責められようか。
常ならば行儀が悪いと苦言を呈す老執事すら、ぐらりと上体が傾ぐのを御せない。
2人が血相変えて廊下を走っていくのを見て唖然としていた侍女達が恐る恐る近づいて声を掛けるまで、セラティーナと老執事は石像と化していた。
「… ぜ …!」
へたり込み俯いていたセラティーナの口からポツリ、と言葉が洩れた、と思った次の瞬間、少女は天井を仰いで叫んだ。そりゃあもう、生まれてこの方出した事もない大音声で。
「全員エントランスに集合ぉぉぉっ!」
瞬く間にエントランスに集合した使用人達を前に、セラティーナはキリリと声を張り上げた。
「レディース・アンド・ジェントルマン! 我が家は没落します!!」
その後はもう怒涛の一言に尽きた。
まず、有り金全部持ち去った家族の帰宅予定を確認し、家中のワードロープから無駄なドレスや礼装、宝飾品をかき集め、呼びつけた出入り業者に売り払った。その際に、質をこき下ろして買い叩こうとしてきた商会には、当のお前が高額で売りつけたもンだろうがと請求書を突きつけ、詐欺で出るトコ出るか、先代商会主を呼んでくるか選べと総出で凄んで適正価格に訂正させ、他の業者まで震え上がらせた。
次いで、すべての使用人の紹介状を書き上げて、諸々を売っぱらって得た金を皆の退職金として分配する。
「と言っても、今月のお給金にほんのちょっと色を付けるのが精一杯だったの。ごめんなさいね」
とセラティーナ手ずから紹介状と小さな皮袋を渡された使用人達は皆涙にくれた。
そして侍女達は、セラティーナの髪を切る、という拷問にも等しい仕事に号泣したのであった。
公爵家の面々の帰宅予定日3日前、邸内の人間が玄関エントランスに集合していた。
旅立つセラティーナと、見送る使用人達である。
「皆、本当にありがとう。元気でね」
そう言って笑ったセラティーナは、下町のどこにでも居そうな少年の格好をしていた。長くまっすぐで美しかった金髪は、うなじで軽く結べる程の短さになっており、ほっそりとした体格はダボついた上着で覆い隠している。
令嬢どころか、市井の少女ですら一人旅が危険なための変装である。とはいっても、その傍らには隣国までの護衛として雇った一級冒険者チームが控えていたが。
「―― お嬢様、こちらをお持ち下さい」
と、老執事が背負い袋にセラティーナが首を傾げると、彼は手馴れた仕草で彼女にそれを背負わせる。
「中に必要な物を入れてございます。お使い下さい」
「―― ありがとう。最後まで世話をかけたわね」
「とんでもございません。後の事はすべてこの爺にお任せ下さい。どうぞ、ご無事で …!」
深く深く頭を下げる老執事に倣って全使用人が頭を下げる姿にこみ上げる何かをグッとこらえ、セラティーナは遂に踵を返した。
「皆! ―― 行ってきます!」