2-11 鬼神と、その妻 ~滅びゆく王国に忠義を尽くす英雄とその愛妻が非業の死を遂げるまで
都のドレス工房で丁稚奉公をしている16歳のクラーラは、貧しいけれど性根の優しい娘だった。
ある時、心を込めて作り上げたウエディングドレスを納品しに行ったクラーラは、意地悪そうな新婦のエルゼベトに、自分の代わりにそのドレスを着て式場に行くよう厳命されてしまう。
「言う事をきかないとアルテンブルク家の力で貴女の師匠の工房を潰しますわ。造作もない事ですの、ほほ」
気の弱いクラーラは言われるがまま、偽りの花嫁として式場に向かう。じきに戻るというエルゼベトの言葉を信じて。
私はクラーラ。12歳で奉公に出されて4年、ペトラ先生の服飾工房で住み込みの助手として働いています。
今日のお仕事はウエディングドレスの納品です。私は結婚式場となる教会の控室で、花嫁さんが来るのを待っていました。
「ああもう鬱陶しいわね、それで私のドレスはどこ!?」
やがてお付きの人達を連れた花嫁さんがやって来ました。名門アルテンブルク家のお嬢様、エルゼベト様です。
「ペトラ工房のクラーラです、ドレスはこちらでございます」
ドレスは控室のトルソーに既に掛けてありました。これをデザインしたのはペトラ先生ですが、縫製では私も関わらせていただきました。レースも刺繍も、一針一針、心を込めて縫いました。
「アンタの名前なんか聞いてないわ……ふーん、さすがペトラ工房のドレスね、悪くないじゃない」
何故か機嫌の悪そうなエルゼベト様は、そう言いながらドレスではなく私の顔をまじまじと見つめておられました。
「じゃあ着替えをするから皆出てって……ちょっと、アンタは残るのよ」
エルゼベト様はそう言って他の人達を追い出してしまいました。私は着付けをお手伝いしようとしたのですが。
「待ちなさい。アンタ何故すっぴんなの? これは私の結婚式ですのよ?」
「えっ……私はただのドレス工房の助手です、結婚式には参列しませんから」
「私の一生に一度の大事ですの! そういうのは許せませんわ!」
「申し訳ありません、私は貧しい奉公人ですので化粧品を買えないのです」
「おだまり。そこに座りなさい、私の道具で私がやるから」
エルゼベト様はそう言って真剣な顔で、丁寧に私に化粧をなさいました。
「出来ましたわ。次はそのドレスを着てみて」
「えっ……これはエルゼベト様の為のドレスです、私が袖を通す訳には」
「それが安全に着られるかどうか確認するのは貴女の義務ですわ。いいから着なさい」
「あの、このドレスは一人では着る事が出来ません」
「私が手伝いますわ」
本当のことを言うと、私は一度でいいからこのドレスを着てみたいとは思っていました……本当に、素敵なドレスですから。
「あの、このドレスは安全です、針は残っていませんし縫い目も肌に障りません、大丈夫ですエルゼベト様」
「ご覧あそばせ」
エルゼベト様はそこで初めて私に鏡を見せました。私は驚き、息を飲みました。私の顔は、メイクをされたエルゼベト様と瓜二つになっていたのです。
「驚いたかしら? 背格好も一緒ですし婚礼用のエクステもありますもの、これなら誰でもアンタの事を私、エルゼベトだと思いますわ」
「そ……それは御冗談ですよね?」
「冗談ではありませんの。クラーラさんとおっしゃったかしら? 私の代わりに結婚式に出て頂戴。私、その間にやらなくてはいけない事がありますの」
「え……ええええ!? 出来ませんそんな事!」
「おだまり。言う事をきかないとアルテンブルク家の力で貴女の師匠の工房を潰しますわよ。造作もない事ですの、ほほ」
エルゼベト様はそう言う間にも、私が脱いでいた作業着を着て自分のメイクを落としてしまわれました。私達はメイクをした状態ではそっくりですが、素顔は全くの別人でした。
「そんな……これはエルゼベト様の大切な結婚式ではないのですか」
「そうよ。この結婚はアルテンブルク家に必要な事ですの。宜しいかしら? 万が一にも誰かに自分の正体を話したりしたらどんな事になるか……じきに戻りますわ、後は頼んだわよ」
そしてエルゼベト様は本当に、控室の窓から忍び出てどこかに行ってしまいました。
†
私は信じて待ちました。エルゼベト様が戻って来られる事を。
だけどエルゼベト様は戻られず、式の招待客は次々とやって来ました。
新郎は、ヴァルター・フォン・シュタインベルク……高名な武人だそうですが、冷酷非情な殺人鬼だと噂する人も居ます。
そんな新郎側の控室でも、騒ぎが起きていました。
「ヴァルターはどうしたのだ、式が始まってしまうぞ」
「新郎が居ないのに、式など出来るか」
「アルテンブルグ家に何と説明すればいいのだ」
式は正午に始まる予定なのですが、5分前になっても新郎が来ていないのだそうです。新郎側の関係者は大慌てで、式場の周りを走り回っています。
先に式場に連れて来られた私は、ただ黙って震えていました。本当は新婦も来ていないのです、一度は来たのだけれど、偽物の私にすり替わっているのです。
だけどその事は誰にも言えません……やがてそのまま時が過ぎて、式場の塔の鐘が、正午を告げました。
―― ガララーン! ガララーン!
その瞬間。
―― ヒヒーン!
馬のいななく声と、男の人達の叫び声が、門の外の方から聞こえて来ました。
「狼藉者だ! 止めろ!」
「違う、ヴァルターだ、新郎が来たのだ!」
薄暗い式場に慣れていた私の目には最初、その人の顔が見えませんでした。
その人は教会の敷地に騎乗のまま乱入し、式場の入り口の前でひらりと馬を降りると、止めようとする人々を振り払い、真っすぐに祭壇の方にやって来ました。
私は思わず息を飲みました。
背が高く痩せ型だけど肩幅の広いその男の人は、泥だらけの外套を羽織り、返り血の跡のようなまだら模様がある軍服を着ていました。私は人の血なんて料理をしていて指先を切ってしまった時くらいしか見た事がありません、その事はとても恐ろしいのに。
その男の人の顔は、私が想像する事も出来なかった程美しいのです、こんな綺麗な顔の男の人が存在するのでしょうか? だけどそのお顔は軍服同様、点々と飛び散った泥や土埃で汚れていて、そして……
「ヴァルター・フォン・シュタインベルクだ。花嫁とやらはどこに居る」
男の人……ヴァルター様はエルゼベト様よりも機嫌が悪く、その様子はむしろ激怒しているという程のものでした。
「ヴァルター様、何故このように遅れたのですか」
善良そうな司祭様がそう言って間に入るのに構わず、ヴァルター様は私の腕を強く掴みました。
「遅参などしていない、約束通り正午に来ただけだ……さっさと済ませるぞ」
「い、いたい……!」
私は思わず声を出してしまいました。喋ったら入れ替わりがばれると思い、ずっと黙っていたのに。
ヴァルター様は、私の顎を掴みました。
刹那の間に。私はヴァルター様のお顔を間近で見ました。本当に印象的などこまでも整った眉目、男の人とは思えないきめ細かい肌、浅薄な私の魂まで焼き尽くすような美しい瞳、だけどその瞳に映るのは、怒りと……悲しみ?
次の瞬間。その美しさに気を取られていた私はヴァルター様に唇を奪われていました。
私は貧しい奉公人です、恋なんてした事ないしこんな経験はありません、何で、どうして、私に何が起きてるの!? 私はただ工房のお客様のエルゼベト様の命令でここに居ただけで……私、あの美しいヴァルター様にキスされてる!?
「誓いは済んだ。宣告を頼む」
真っ赤になって硬直している私の唇から顔を離し、ヴァルター様は司祭様にそう言いました。
「……神の愛と祝福のもと、新たな夫婦が誕生しました。戦いの中であなたたちは互いに支え合い、困難を乗り越えていくことでしょう。神の祝福があなたたちと共にありますように」
司祭様がそうおっしゃるなり、ヴァルター様は私を軽々と抱え上げると、そのまま大股に祭壇を立ち去り、困惑する列席者を無視し出口へと向かわれました。
そして私を馬の鞍の上に投げ出すと御自身も飛び乗り、そのまま駆けさせてしまいました。
†
一時の興奮から冷め、私の心は凍りついていました。
私は神様を欺いてしまったのです。何も知らないヴァルター様と司祭様に、偽りの宣誓をさせてしまったのです。
†
街中を駆けた馬はやがて、王都近郊の石煉瓦作りの立派な館の厩舎に辿り着きました。ヴァルター様は馬を降りると、私を寝藁の上へと投げ出しました。
「きゃあっ……」
馬の背に揺られ、気持ちの上でも弱っていた私は、すぐには起き上がれませんでした。ヴァルター様は外套と軍服の上着を乱暴に脱ぎ捨てると、怒った顔で私の両手首を、大きな手でまとめて掴みました。
「あ、あの、何を……」
「夫婦の勤めとやらだ! 手短に済ませるぞ」
突然の事に抵抗しようとした私は、寝藁の上で両腕を磔にされ、ヴァルター様に押し倒されていました。
「だ、駄目です、やめて下さい!」
「……そういうのが望みか」
ヴァルター様の力はとても強く、私は少しも動けませんでした。次の瞬間、ヴァルター様の手が、エルゼベト様の為のドレスの胸元を掴んで、引き裂きました……!
―― ビリッ! ビリリッ!
私は。どんな事でも我慢しなくちゃと思っていたのに。
「ふえっ……ふええっ……ぐすっ……うえっ……」
堪えきれなくなり、泣き出してしまいました。
このドレスは私と先生が何日もかけて一生懸命縫ったのです。花嫁さんの幸せの為に、花婿さんに見て貰う為に。それなのに。
偽りの結婚式に使われて、偽の花嫁に着られて、引き裂かれて……こんなの、ドレスが可哀相です。
「くすっ、ぐすん……ふえっ……えっ……」
ヴァルター様は驚いた表情で手を離し、泣きじゃくる私をしばらく見つめていましたが。
「意味が解らん。シュタインベルグ家を陥れこの婚姻を結ばせたのは誰だ! ……好きにしろ。どのみち俺の命は長くはない、お前もすぐに未亡人になるだろう」
やがてそう言って上着を羽織ると、馬に飛び乗り、姿を消してしまいました。