2-09 グリモワールの愛し子
三華晶太は、時間があれば本を読んでいるほど本が好きだ。
新刊から古書まで、興味があればどんな本にでも手を出して、家には着々と本が増えている。
ある日、古書店街の路地奥で見つけた店は、どこか怪しい店だった。直ぐに帰ろうとする晶太に、店主が押し付けてきたのは茶色い革表紙の分厚い本。
その本を手にしたことから、晶太は非日常へと巻き込まれていく。
三華晶太は、本が好きだ。受験が始まる前、高校二年の今がチャンスとばかりに、時間があれば読書に費やすか、書店巡りに精を出す。両親が海外出張に行き、二年は帰らないのもいい事に、着々と本が増えている。
そんな彼の最近のお気に入りは、神田神保町界隈。その古書店を見て回る事。朝から気の向くままに見て回り、公園で少し休憩してから帰るのが、休日のルーティーンになっている。
いつもの様にぶらぶらと古書店街を歩いては、気になった店に入って本を物色する。そうしているうちに、ふと目に留まったのは、薄暗い路地。普段ならば近寄らない雰囲気の場所なのだが、酷く興味をそそられ、何かに引き寄せられる様に、晶太は路地へと入っていった。
奥へと進んでいけば、一家の古書店へとたどり着く。扉と看板に書かれていたであろう店名は掠れて読めず、店先まで積まれた本が、古書店であることを指名している。
ふらふら中へと入れば、奥から姿を見せたのは、やたらと顔立ちの整った男性。彼は店内を見回す晶太へ、ニヤニヤと楽しそうな笑みを向けた。
「おやおやおや。此度は随分若い方を呼びましたね」
「呼ぶ……?」
「おっと失礼。こちらは、人ではなく本が読み手を選ぶ店。そして選ばれた者のみが、この店へたどり着くことが出来ます」
そう言って笑う男の笑みは胡散臭い。今更ながら、ここに居るのはよくないのではと思い至った晶太が、一歩後退れば、その分男が一歩前に詰める。
「あ、あの、帰りますんで」
「おやぁ?では、こちらをお持ちください。貴方を呼んでいたのもです」
「でも」
「ああ、お代は結構です。もし手放すというならば、路地を出るまでに」
精々みっともなく生き足掻いてください。
胸元へ一冊押し付けられた勢いのまま、店の外へと出されてしまえば、瞬きの間に店は跡形もなく消え去った。白昼夢だろうかと思ったものの、晶太の腕には押し付けられた本が、しっかりと抱えられている。
茶色い革表紙の本には、装飾もタイトルもない。かなりの厚みがあり、ベルトで止められている。気味は悪くとも、中身は気になると、本を止めるベルトに手を掛けた時だった。
「やめておけ」
「っ!?」
横から伸びてきた黒い革手袋をした手が、晶太の手首をがっちりと掴んでいた。
ぎょっとしながらその手の先に視線を向ければ、グレーのステンカラーコートを着た、背の高い痩せぎすな男が立っている。三十後半から四十代ぐらいであろう彼は、目の下の濃すぎる隈のせいか、草臥れて陰気な雰囲気を漂わせているが、晶太を見据える濃い茶の目だけは、強い光を宿していた。
「な、なんですか!?」
「俺が何者かはどうでもいい。その本を開かずに手放せ。所持していたり読むと碌な目に合わない」
そう言う男に、異様なほど不快感が湧き上がる。
なぜこの本を手放さなければいけないのか。
なぜ、読んではいけないのか。
この本は何があっても、手放してはいけない。
この本を、読まなければいけない。
そんな感情に支配されるまま、晶太は思い切り手を振り払うと、男を睨みつける。
「何で知らない人の言う事を、聞く必要があるんだよ!!」
「その本を持っていると、呪われるぞ」
「そんな話、誰が信じるかバーカ」
「っぐ!?まてこら!!」
男の向う脛を思い切り蹴り飛ばし、本を抱えて路地の出口へと走る。後ろからは男の怒声が聞こえてくるが、知った事ではない。
表通りに出てからもしばらく走って、晶太がたどり着いたのは、良く立ち寄る公園。
「どうしたの?そんな息を切らして」
「あ……お兄さん」
男の気配が無くなり、呼吸を整えていた晶太へ、声を掛けたのは顔見知りの大学生。三つ上の大学二年だという彼も本が好きらしい。この公園で顔を合わせると、買った本や読んだ本の情報交換をする仲だ。
見知った相手と会ったことで、安堵した晶太だったが、相手の視線が抱えている本に注がれている事に気づき、一歩後退る。その視線があまりにも熱がこもっていて、怖かった。
「君!その本はどうしたんだい!!」
「え、えっと、路地裏の本屋で、買ったというか貰ったというか」
「やっぱりか!!!君ならきっと彼の御方からグリモワールを賜ると思っていた!!ああ!前から目を付けていた甲斐があった!!」
興奮気味にまくしたてる相手から、晶太はさらに一歩後退る。いつもの彼は穏やかで、こんな声を出したことはない。その事に、戸惑うと同時に、本能が警鐘を鳴らしてる。
この本の事を知っていて、晶太がそれを持つことを予想していた事。
彼の黒い目がぎらぎらとした金になり、口が少しずつ裂けて、そこから牙が見え隠れしている事。
逃げろ、と脳みそが指示を出しているのに、体が動かない。金色の目に囚われたかの様に、視線を動かす事すらできない。
動け、動けと念じても体は強張ったようになっていて、指先さえ動かず、近づいてくる知り合いから変った狼のような異形から逃げられない。
「な、なん……」
「あぁ、でもまだ読んでいないなら、今すぐ食べるのはもったいないな。持っているというだけで、十分美味いだろうが、もっと美味くなるまで確保しておかないと。足だけなら、逃げなくなって丁度いいな」
食べられる。恐怖に押しつぶされそうになりながら、何もすることが出来ない。
異形の鋭い爪の生えた手が、晶太に触れるかと言う時だった。
「私は投擲武器じゃねぇですわよ!!!!!!」
「な、なんだ!?」
「っ……ね、こ……?」
不意に、丁寧な罵倒と共に真っ白いものが飛んできて異形の顔面へと張り付く。突然の事に頭を振り、暴れる異形の顔に張り付いているのは、白い毛並みの猫。
猫が張り付いたことによって、異形の目が隠れたからか、強張ったようになっていた晶太の身体から力が抜ける。ペタンとその場に座り込んだ晶太と、猫を引きはがそうとする異形の間へ灰色が立ちふさがった。
「だから、手放せと言ったのだが?」
「……さっきの、わぶっ!?」
「被ってろ。動くな」
立っていたのは、先ほど路地裏で振り払った男。晶太を護るように立った彼は、着ていたコートを脱ぐと振り返ることなく、晶太へと投げた。
見ていないにも関わらず、頭からそれを被ることになり、視界が遮られる。取ろうとすれば制され、数拍置いて金属同士がぶつかった様な甲高い音がした。
何が起こっているのかわからず、けれども今度は心理的に動くことが出来ない晶太だったが、被らされているコートの裾の辺りが、ごそごそと動いた。ややあってぴょこりと、コートの中へ入ってきたのは、先ほどの白猫。
毛の長い種類なのか、もこもこもふもふとしているその猫は数度顔を洗うと、『にこりと笑った』。
「不運でしたわね。怪我はないかしら?あのぼんくら、言葉が足りないから困ってしまうわ」
「……ね……」
「どうしたの?」
「猫、が……喋った……???」
ありえない事態の連続で、晶太のキャパシティーがついに限界を超えたらしい。脳が処理を拒否して強制的に意識を落とす。キョトンとした猫を見たのを最後に、晶太は気を失った。
「ぅう……あれ……」
目を覚ますと、自宅のベッドの上。慌てて飛び起きた晶太は、あれは夢だったのかと思いつつ部屋の中を見回し、机の上にあったものに、青褪める。
例の、茶色い革表紙の分厚い本が、そこに鎮座していた。頬を抓ってみれば痛いので、これは現実であると再認識する。
捨ててしまうと本を手に取ると、途端にこれを捨ててはいけないという感覚に侵された。
「起きたか」
「っひ!?」
不気味さと薄ら寒さにフリーズしていれば、後ろから声を掛けられ悲鳴を上げる。錆びついたネジのようなぎこちない動きで振り返れば、例の灰色のステンカラーコートを着た、長身の男が立っていた。
なぜこの場にいるのかと理解の追い付かない晶太に近づくと、手から本を取り上げ、机へと戻す。
「これに目を付けられたのは不運だろうが、路地裏で本を手放していれば、こうならなかったものを」
「何を急に」
「この本はグリモワール、魔導書の一つだ。持ち主を呪い、精神を蝕み死に至らせる。その過程で、人ならざるモノにとっては、最上級の餌として認識される」
一瞬、男の言う事に理解が追い付かない。それでも、自分なりに理解した瞬間、ゾワリと背筋に寒気がはしった。
「な、なんで……」
「これを外へと持ち出した時点で、本に持ち主と認識されている。お前がその本を手放せるのは、呪い殺された時か、人ならざるモノに食われた時だ」
「そんな……!」
ばっさりと、文字通り取り付く島もないといった様子で言い切る男に、晶太は頭を抱えその場にへたり込んだ。どうしたって碌な死に方をしないであろう事実に、心が折れそうになる。
「どうにかならないの……?」
「無理だな」
「そんなばっさり……」
「だが……」
「何とかできる方法があるの!!」
スッ、と視線が逸らした男は何か思案する様に口元へと手を当てる。中々続きを口にしない男に焦れた晶太が、先を促すと、一つため息を吐いてから、しゃがみ込んで晶太と視線を合わせた。
「ある事にはある。が、推奨はできない。特に、お前のような若く、判断材料の乏しい奴には」
「それでも!今のままじゃ死ぬだけなんでしょ!?だったら」
「……いいだろう。今回は特例だ。仮契約としよう」
そう言いながら差し出された手を握った瞬間、周囲に風が渦巻いた。