現代の子供は至高の思考を失ったのか
人が手にした「思考」を、現代の子供は失ってしまったように感じるわ。それは「考える能力」ではなく、それ以上に「当てる能力」が発達してしまったからだと私は思うの。つまり、正解を求めるあまり、自分の意見を考えることが苦手になったということ。
例えば、先生が言った考えてもらうテーマは「日々の行動の質が低下しているため、改善する方法を考える」だった。なぜこのテーマになったのかというと、この時の私のクラスは授業中に寝たり、手紙を回したりして伝言を伝えあったりと「してはいけないことをしてもよい」という雰囲気になっていたからなの。
その時ね、十分ほど自分で考える時間が与えられたが、既にみんなの答えは決まっているような雰囲気だったわ。もちろん私も、ね。でも、私は「意識」の話とは全く違う新しい答えも用意していたの。少し、嫌な予感がしてね。
なぜなら、先生は「これを意識すればいい」と言えば、その後にいくら怒られようと、最終的には「じゃあ、次からはみんなしっかり意識するように」という締めの言葉でこの時間が終わる。
――いつもならばそうなのだけど、あの日は違ったの。しかし、それをこの時のクラスメートが知らなかった。もちろん私も。
いつものことだけど、三十人ほどのクラスで、一人ずつ立って自分の思う「正解」を発表する時間が来たわ。クラスメートは、やはり「意識」の話をする。一人ずつ言葉のチョイスは違えども、ニュアンスは同じ。
しかし、同じ意見しか出ないことに腹を立てたのか、半分ほどが言い終わると、質問を急に変えたの。
「意識する、とは具体的に何ですか」
こういう話し合いの時。は、口をそろえて「意識」「意識」と言うので、先生はその「意識」について切り込んだ質問をすると予測していたんだ。
だから、私は、その質問に対応する答えを考えていたの。
それが私のもう一つの答え。だから、一番最後に発表する私は余裕だった。むしろ、さっさと終わってほしいから早く言って欲しいと思っていたくらい。
でも、変化球にみんな黙るの。次に話す人も考えが出てこなくて、黙った。先生が睨みつけて、その子は下を向いたわね。
そして、先生の説教が始まったの。最初に言った言葉は「大体、アンタたちの言う『みんな』が信頼できない。悪いことをした人はみんなじゃない。一部の人たち――」だった。また振出しに戻った。
いつも使っていた「正解」が通用しない質問に、みんなは終始黙っていた。その後、徐々に答えて行き、先生は答えられなかった子を後回しにして、他の子に順番を回し、そして私は堂々と答え、結局は黙っていた子も何とか言い終えることができた。
いつも使っている正解が使えなくなったら「黙ってしまう子」がほとんど。考えられないわけでもないだろう、ただただフリーズしているだけだ。
なぜこのようなことが起こるのかな?
そもそも、何で先生の満足する答えを言わないといけないの。
先生自身が考えた「模範解答」と比べて不足のある回答だったとしても、真っ直ぐな意見を認めればいいのにね?
今回書いた私の記憶の場合では、機嫌を損ねた原因は児童にあったけど、ただの学級活動での話し合いでもそうだったわ。
自分の意見を求められているのに、いつも同じ答えになる。
そんな時、先生はこう言うの。
「どの班でも『○○』という意見が出てるけど――」
子供は考えることを放棄したの? 「当たり前」とは一体何?
君が持った。君の。自分自身の意見なの。誰がどう言おうと自分の考えた「大切な意見」だからね。それが間違った方向に行っていようとも、自分で考えた「大切な意見」だよ。
今の子供は、まるで、先生が納得する意見を見つけるための「試験」みたい。大量のデータから最適解を探す「AI」だよね。
誰もこれに疑問を持っていない。何でこうなるの。
たった一つのクラスだとしても、色んな人がいる……というのに。
――この国に生まれてきた子供は、そういう人間のご機嫌を取るための道具か。
貴方は違うと言うわね。いつの日の感想か、貴方は「過去の自分を救ってもらっている」と。きっと、そう思える理由は今でも学校の世界が変わっていないからだ。貴方が生きた学生時代と今の現実。全く変わっていないの。
だからこそ、これはいつか「昔のお話」になって、私の作品を見つけてくれたずっと未来の子供に「こんな感じだったんだな、今とは全然違うや」と思ってもらえる世界になってほしいなと思うわ。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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