空燕side
「陛下…」
募るように潤ませた瞳を向ければ、陛下は気まずそうに視線を逸らした。
「…其方には…空燕には感謝している。今まで少なくない年月の間第一側室としてこの後宮を纏め、行事の際には力になってもらった。…それが…空燕の願いだと言うのなら叶えなくてはならないな」
陛下がゆっくりと私の髪を撫で、涙の跡を拭った。
名を呼ばれたこと、こうして触れてくださっていること、どこか恥ずかしそうに、けれどしっかりと私を見つめていること、共に過ごしてくださる栄誉を得られたこと、その全てが私を歓喜に震えさせる。
チュッ…陛下からの小さな頬への口付けの音は、早鐘のように打つ自身の鼓動よりも大きく聞こえた。
「陛下…」
逃がさないと言うように陛下を腕の中に閉じ込めて、どうして私が望むところに口付けをしてくださらないのかと恨めしげに見つめた。
「…そんな顔をするな。悪いが、それはできない」
「陛下は、先程夜を共に過ごしてくださると、私の願いを叶えてくださると仰ったではありませんか…私は、陛下との口付け無くして願いは叶いきれません。それとも、陛下は約束を反故にし、私の願いを叶えてくださらないと、そう仰せなのですか…?」
それもあの男の為なのかと思うと、とても冷静ではいられない。望んでいた久方ぶりの陛下との閨事を、この様な形で水を差されるとは…
するりと陛下の首筋に額を寄せて、さらに陛下を引き寄せる。
しばらく間が空いた後、はぁ…と陛下は諦めたように息を吐いた。
勝った…思わずにやけそうになるのを抑えて、陛下を見つめた。
「全く、空燕、其方は存外涙脆いのだな。知らなかったよ。私はどうやら涙に弱いらしい。もう泣くな」
「陛下をお慕いしているからです…情けない男だとお思いになりましたか?」
「参ったことにその逆だよ。寧ろ親しみを持ってしまった」
そう言ってあやすように髪を撫でられ、漸く望んだ場所に淡い口付けが落とされた。
夜が更け、目の前には愛おしい存在が穏やかに眠っている。僅かに入る月明かりに照らされた陛下のなんと美しいことか。
汗によって身体に張り付いた陛下の髪が、情事の名残を感じさせる。
扇状的なその姿に、先に寝てしまった陛下への熱を空燕は持て余していた。
「陛下……ふふっ…ああ…本当に酷い人」
ただでさえ夜を共にしたことなんて、数える程度だった。あの男が後宮へ来てからというもの、夜を共にしてくださったことは一度としてなかった。
同情でも構わない。泣き落としだろうがなんだって出来る。貴女様のお側にいられるのなら。
今まで害のない、善良な手本のような側室を演じて来たが、それも今後どうするかは明日以降の陛下次第。
残酷なまでに優しくて、愚かなほど真っ直ぐな人。その真っ直ぐな優しさが、時にはどれほど他人を傷付けるのか、ご存じないのでしょう。
蘭家当主からの命とは関係なく、私には貴女様のお側にいられることこそが全てだなんて、思ってもいないのでしょうね。
貴女様は“あの時”私の名を呼んではいけなかった。王配候補筆頭の第一側室に、私の名を挙げてはいけなかった。どうして手離すことができましょう。貴女様のお側は私のもの。これだけは、誰にも譲れない。
時を見計らっていたのか、知った存在が音もなく部屋に入り傅いた。
「…若様、準備は整っております。」
「ああ、実行しろ。」
私は、気をやって眠ってしまった陛下を見つめながら、陛下のその髪を、その指通りの良さを楽しむようにうっとりと梳いていた。
もともと陛下は、その意思とは裏腹に側室が増えていくことを陰鬱に思われていた。
故に、側室を置いてしばらく経った頃、陛下は入室してくる側室に離縁の話を持ちかけていたが、その動きもここ最近より積極的になっていた。
世継ぎを望まないのも、王配をお選びにならないのも、あの男の為だと思うと腸が煮え繰り返る。出自の卑しい者が王配につくことなど誰も認めはしない。ましてやその子供が時代の王になど、到底あり得ない。
陛下は、王家末端の男に王位を譲ろうとしていることから考えても「王家の血」に興味がないようだった。直系こそが尊い血であり、最も王位に相応しいと考えるこの国に、疑問を持っているようだった。
陛下に仕える、臣下それぞれの家門も同様に直系が当主になる。他国の血を入れることを忌避し、血筋の分からない平民は眉を顰められ、ましてや奴隷の血を混ぜることなどもっての外。
そんな神聖な王国の血に、他国の血を入れた黎家は何かと陛下に反発し、陛下もお困りだったはず。
何かしらの取引があった可能性が高い。
陛下至上主義である他の家門から眉を顰められながらも黎家が失脚しないのは、偏に外交を担う家門であるからだ。他国との繋がりが深く、貿易を積極的に行うことで、もたらされた品をもとにこの国一、二を争う商団として莫大な富を築いている。
その商団の力は大きく、則ち黎家に楯突くことは、普段の生活を送ることさえも困難になることを意味していた。
その黎家はどこまで陛下を、王家を、延いては我々を侮辱するつもりなのか。
王家の血に、卑しい奴隷の血を混ぜようと後宮に送るとは。
陛下はご存知ではないだろう。家門のためだけでなく、ただ純粋に貴方様を想う者も少なからず居るということに。
そんな彼等の中には、あの男の暗殺を企てている者もいる。実際に何人かが送られているようだが、まだ上手くはいっていない。
私が手を下さなくても事が進むのは時間の問題だが、それが達成するのはいつになるのかわからない。
もうこれ以上は我慢ならない。幸いにも少し細工をすれば、私には害が及ばぬだろう。
そう、あの男に疎ましく思う者は少なく無いのだから。
「ふふ、陛下…明日が楽しみですね。陛下はあれに寵を注ぎ過ぎたのです。
上手く隠していた、と思われていたのかもしれませんが、陛下をよく見ている者ならすぐにわかりますよ」
いくら他の者達が陛下の前で表に出さずとも、どれほどあの男に対して嫉妬に駆られ、殺してしまいたいほど疎んでいるのか、陛下はご存知でない。
陛下をお慕いしている者達が、離縁をと言われて、そう大人しく引き下がるはずがないでしょう?今まで静観していた者達さえも、動かずにはいられない。
「今はゆっくりお休みください、私の愛しい人」
男はふふ…と上品に笑いながら、自身の腕の中で眠る愛おしい存在に、ゆっくりと口付けた。
拙い文章ですが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました!