霧の中の手
「ハル。引っ越すわよ!」
かあさんのそんなに大きな声を、ぼくは彼女が怒るとき以外で聞いたことが無かった。
かあさんは同時に、ダイニングキッチンの机をたたいて、今にも立ち上がらんとする勢いで少し腰をうかした。
「うん」
ぼくは、おじいちゃんがくれた『子供 日本書紀』の本から視線を外すことなく、小さく答えた。
「おばあちゃんの家に行くわよ」
かあさんは、腰をすとん、と椅子に下ろしながら、少し声を小さくして言った。
「うん」
ぼくはもう一度答えた。
「……ごめん」
かあさんは、最後に消え入りそうな声で言った。
「ぼくこそ……ごめん」
ぼくはやっぱり、かあさんに背中を向けたままだった。
小学三年生の6月、ぼくは引っ越すことになった。とうさんと、かあさんが、すくない荷物を、それでも大変に苦労して少しずつ段ボール箱におさめていく。ぼくのゲームも、マンガも、そして、まだたったの三回しか腕を通したことの無いピカピカのランドセルも、少し視線を残すようにして、しまわれていった。
ぼく達の新居は、田舎だ。都内の小さなアパートを捨てて、自然あふれるだだっ広い平屋に住むのだ。平屋っていうのは二階の無い家のことだって、とうさんが教えてくれた。おばあちゃんは、とうさんのお母さんで、とうさんのお父さんと、この平屋に住んでいる。ぼく達三人が加わって五人になっても、家がだだっ広いことにはちっとも変わりが無かった。
「良いところだよ。ハル。父さんが育ったところだ。」
いつも寡黙なとうさんが、ぼくの頭をなでながらそう言った。それは、あたたかい風がひっきりなしに吹く、草原のようだった。いつの季節でも春をはらんで逃さない、田んぼのようだった。
おばあちゃんちは、気持ちが良かった。
とうさんは、相変わらず言葉がすくなかったけれど、それでも短くなった通勤時間に喜んでいるようだった。昔の友達と会ったんだ、と菜の花色の空気をふりまきながら語ったりして、そう、少しは口数が増えたかもしれない。かあさんは、毎日、歌を歌った。アパートに住んでいたときもそうだったけれど、かあさんはずっと歌っている。なんでも、昔、せいがく科に通っていたらしい。早くに両親を失くしたかあさんは、おばあちゃんと一緒の生活が楽しくて仕方ない。きらきらきらきら、ラムネにはいってるビー球みたいに輝く。
ぼくは、毎日を縁側で過ごしていた。雨の日が続いていたし、雨に打たれる庭の緑がとてもきれいだったからだ。寝転がって、雨の音だけを聞く。かすんだ世界は、ぼくにはあたりまえだったけれど、雨の日は、皆も世界がかすんで見えるのだという。ぼくにはそれが嬉しかった。ぼくが、皆と世界を共有できる機会は、限りなく少ないのだから。
ある日、雨がぱたりと止んだ。樹は、ぼくの気持ちなどわからないのだろう。だから、彼らはこんなに手放しで太陽を喜ぶことが出来る。ぼくのかすんだ世界は、青空のかなたにふっとんでしまった。
「ハルくん。今日は良い日だねぇ」
おばあちゃんが、相変わらず縁側に転がっているぼくに言った。
おばあちゃんはマシュマロみたいでつかみ所が無い。姿をとらえようとすると、真っ白に光るし、触ろうとするとすうっと透ける。
「良い日?誰にとって?」
ぼくは、おばあちゃんを好きになって良いのかどうか、まだ悩んでいた。
「そう。おばあちゃんにとっても良い日だし、庭の樹にとっても、土にとっても、虫にとっても、鳥にとっても、空にとっても、……雨にとっても良い日だよ」
おばあちゃんは、ぼくと視線を合わせることなく言った。
「雨にとっても?」
うん、と彼女はうなずいた。
「誰にだって、お休みは必要さ。ハルくん。あんたにもね」
言って、おばあちゃんはぼくに、紙切れをわたした。
それは、地図だった。いや、ぼくは最初、それが地図だとは気がつかなかった。ただの、子供の落書きだと思った。でも、良く見ると“ぼくのうち”を中心に道があって、学校があって、川があった。
「なに?これ」
「ハルくんのお父さんに必要でなくなったもの。でも、今のハルくんには必要かもしれないもの。」
ぼくは、地図をじっと見た。どうやら、昔にとうさんが書いたものらしい。“ぼくのうち”はおばあちゃんちだ。つまり、今のぼくのうちでもあるわけだけど。
「川が……」
「少し行ったところに小川があるのさ」
地図には、家、学校、川の他には、駄菓子やが一つ、書いてあるだけだった。ずっと昔の、子供だったとうさんの、それが全てだ。
「川に行きたいな」
ぼくは、独り言のつもりで言った。
「行っておいで。ついては行かないよ」
そう言うおばあちゃんは、やっぱり光っていて良く見えなかった。それは、ある意味神々しくて、ぼくは少し、怖かった。
ぼくは、紙切れ一枚をにぎりしめて、川を探すはめになった。地図は、当然のごとく何の役にも立たなかった。しかし、ぼくは田舎のあぜ道を行く。ぼくには、確信があったのだ。
川は見つかる。だって、川だ。水だ。しかも、流れる水だ。
水の流れる場所は空気が違う。そのくらい、都会育ちのぼくでも知っていた。幸い、道のどちら側に川が流れているのかは、とうさんの地図が教えてくれている。案の定、すぐに水の流れる音が聞こえてきた。ぼくの足は、思わず速くなる。水の近くに行きたい、と思った。田舎のあぜ道を横にそれて、小さな木々の集落のなかにそれはあった。
川は、小さかった。細かった。それでも、力強かった。ごおごおと水が流れることは無くても、岩と緑に囲まれて、ピンと背筋をのばして立っていた。そして、ぼくをちら、と見る。
ぼくは、音のある水が好きだった。音のある水が、とても好きだった。ぼくにとって、目は、信用のできないものだ。見えている景色の、どこまでが本当なのか、自分で判断することがぼくには出来ないのだった。その点、耳は信用できた。ぼくの耳と、それを通して伝わってくる全ての音に、ぼくは絶対の信頼をよせていた。自然は、多くの場合、ぼくに本当の姿を見せてくれるけれど、継続的に音を発している自然は、よりはっきりと姿を捉えることが出来た。そしてそれは、たいていの場合、美しかった。自然界に無いはずの、青、という色を、そこかしこにはらんでいるのだった。
ぼくは、かわべりに下りて行って、手を少し、水に触れてみた。ちゃぽちゃぽという新しい音が加わった。ぼくは、満足した。
平らなところを見つけて、草のふさふさしているところを見つけて、ゆっくりと横になる。水の音だけに集中する。かすかに、鳥の声が混じる。さらさら、と流れる。ぼくは、誰もいないプールで背浮きをしている。ユラユラと揺れた。ぼくは、幸せだった。
ふと、自然のものではない水音が聞こえた。人の気配に、ゆっくり目をあけた。透明に流れ続ける水に、墨をたっぷり含んだ筆をといたようだった。また、かすんだ世界がぼくを包み込んでしまうのだ。
しかし、実際、ぼくの世界がかすむことは無かった。五十センチくらい離れたところに、女の子がしゃがみこんでいた。ぼくが上半身を起こすと、その気配を感じてか、振り返って微笑んだ。そう、微笑んだのだ。ぼくは、それをはっきりと見ることができた。大きくて、パッチリした二重の目も、スッと延びた鼻筋も、栗色で長く、二つに結ばれている髪もはっきりと見える。彼女は、ぼくと同じ年くらいに見えた。
「こ、こんにちは」
あまりに驚いて、ぼくは普段では絶対にしないことをした。つまり、自分から話しかけたのだった。彼女はただ、微笑むだけだ。
「あの、ここらへんの子? 名前は?」
ぼくは、ばくばくいう心臓をごまかそうと、さらに口を開いた。彼女が大きく一歩、近づいた。そして、ぼくの顔を懸命にのぞきこむ。きれいな、顔だ。
「えっと……ツル……チズルかな? 違う?」
ぼくは言って、足元にあった平らな石へ、とがった石をガリガリと押し付けて“チズル”と書いた。彼女は、少し目を大きくして、ぼくと石に書かれた文字を交互にみてから、すぐに、きょろきょろしだした。ぼくは、黙って自分の手の中のとがった石を渡してやる。すると彼女は、ぼくの字の下に“チヅル”と書いた。なるほど、たしかにたくさんの鶴ならその通りかもしれない。
「ぼくはね、ミハルだよ。ミ・ハ・ル」
ぼくは、チヅルから再び石を受け取って書いた。ぼくの名前が、音になって発せたれたのは、実に三年ぶりだった。かあさんも、とうさんもぼくのことを決してミハルとは呼ばなかった。なぜなら、かあさんはその名前をぼくにつけたことを何より後悔していたからだ。チヅルはぼくの名前をそっとなぞった。そして、ぼくの手をとった。遊ぼう、と言っているのだ。
ぼくの世界は輝いた。透明なゼリーをスプーンでかき混ぜて細かくして、青空に投げたみたいだった。楽しくて、楽しくて、夕方になったのも気付かないくらいだった。
チヅルと出会った次の日は、雨だった。その次の日も、そのまた次の日も雨だった。けれどぼくは、縁側に寝転がることをやめた。代わりに、派手な黄色のアマガッパを着て、毎日川に通った。
三日目の朝に、おばあちゃんに止められた。
「ぼく、学校に行こうかなぁ」
その日の夕食は、すきやきだった。ぼくは、大好きだ。
「……え? なんて言ったの? ハル」
かあさんが、箸でつまんだ豆腐をわすれてぼくを見た。
「この間、川で女の子に会ったんだ」
ぼくは言った。
「髪の毛を二つに結った子だよ。ぼくと同じ年くらいなんだ。チヅルって言って……」
ぼくは、すき焼き鍋の中に肉を探した。色々な感情が押し寄せてきて、鍋の中は見えにくかった。
「あれまぁ。それ、ちぃちゃんだよ。村長のとこの娘さんだ」
おばあちゃんがしいたけを食べる。
「あの子は確か、耳が駄目なんじゃなかったか」
おじいちゃんが言った。
おじいちゃんは炎の柱だ。空まで届く、ごうごうと燃える柱だ。かあさんは、おじいちゃんが炎? あんなにおっとりした人が。と笑うけれど、本当に炎なんだ。しかも、木とか紙とか、燃えているものが無いのに燃え続けているんだ。ぼくは、おじいちゃんが大好きだ。
「耳が不自由なの?」
かあさんは、やっと豆腐を口に入れた。
「言葉もしゃべれないんだよ。確か」
おじいちゃんは、テーブルのすみにあるたくあんをつまんだ。
「ハルには、あまり関係ないかもね」
かあさんは、とうさんのほうを、少し見た。
「行きなさい」
とうさんは言った。
「行く気が出たのなら、行けばいい。嫌になったら、帰ってくればいい」
これで、この話はたぶん、決定だ。とうさんは、いつだって一枚の紙みたいで、簡単に姿を変えないから、ぼくは安心できる。
ぼくは、学校に行くことになった。
学校の全校生徒は十五人だと、おばあちゃんが教えてくれた。ということは、一学年三人いないのだ。全然学校に行っていないぼくでも、割り算くらいは出来る。今は、家にいながら勉強をする方法なんていくらでもあるのだ。
ぼくは、かあさんに連れられて学校に行った。相変わらずの雨だった。でも、お陰でぼくは、少し安心していた。ぼくの、おかしな間違いは、雨の日ほど少ない。
学校は、とても風変わりだった。少なくとも、ぼくの知っている学校とは、少し違うみたいだった。校舎の色は、白ではなくて茶色で、木で出来ているように見える。ぼくは、建物までぼくを裏切ったのかと不安になり、かあさんの方を見た。
「すごぉい。今どき木造校舎よ」
かあさんは、ぼくの言いたいことを読んだ。
「あれ、木だよね」
「そうよ。コンクリートより、優しいね」
かあさんは言った。
「でも、死んじゃってるんでしょ」
「生きてるわよ。子供が大好きよ。きっと」
かあさんは、また、うたを歌っている。うたは、いつも、ぼくの周りの空気にとけて、ぼくを守ってくれている。
学校に着くと、ぼくの担任だと言う女の先生が迎えてくれた。かあさんは少しだけ話をして、帰ってしまった。ぼくを包んでいた音符のバリアが少しずつ減っていく。
ぼくは、どきどきしていた。木が優しいのが、唯一の救いだけれど、それ以外は、みんな薄暗く見える。けれど、その薄暗さは、東京と少し違う。東京にいたときは、全部の絵の具を混ぜた薄暗さだった。ここの薄暗さは、ただ、黒に水をいっぱい混ぜただけの墨の色だ。
「はじめまして。カス ミハルです」
ぼくは、みんなの前で挨拶をした。教室には、全部で十五人の生徒と、五人の先生がいた。
「あの、あの、これって……」
ぼくはびっくりして、先生に聞いた。
「あなた、東京からきたんだって?それなら、当然驚くでしょうけど、ここは、全部の学年が同じ教室でべんきょうしているのよ」
先生は、にこりと笑った。ような感じがした。ぼくは、初めて会う人の顔をはっきりと見わけることが苦手だった。
「カスミハル君よ。みんな、仲良くして」
言って先生は、黒板に漢字を書いた。塩田海晴。それがぼくの名前だった。
「カズ。立って」
先生が一人の生徒に声をかけた。はぁい、といって立ち上がった生徒は、ぼくよりもずっと年上に見えた。彼は、狼だった。けれど、全然怖くない。
「はじめまして。並木一矢。六年。一応、生徒会長。よろしくミハル」
彼は短く言った。それから順々に、皆が自己紹介をしていく。チヅルの番になった。
「あ、この子はしゃべれないの。だから、代わりに……」
「ううん、知ってる。チヅルでしょ。会ったことあるんだ」
ぼくは、先生に言った。チヅルがぼくに手を振っている。ぼくは手を振り替えした。
「そっか。ちぃちゃんはね、ミハル君と同い年だよ。三年生は、2人だけ」
先生が教えてくれる。よって、ぼくの席はチヅルの隣になった。この教室は、窓際から学年ごとに、席が並んでいるのだった。
「ミハル。色々、案内してやるよ」
放課後、生徒会長が呼びかけてきた。ぼくは、意外に簡単な授業にほっとしているところだった。というより、ほとんど家庭教師に習っているみたいな授業なので、分からなくてもあまり心配は無い。
「えっと、並木君、だっけ。ありがとう」
ぼくは、立派な狼にすこしみとれた。ぷっ、と狼から笑い声がもれる。
「カズヤで良いよ。それか、カズ。この辺り、並木って名字がいっぱいいるから、基本的に名前で呼ぶんだ。年は関係ないよ」
そういえば、自己紹介の時、やたらと並木がいた気がする。チヅルの名字も並木だった。
「じゃあ、カズ」
「そう、ミハルは、ミハルで良いよね。同じ名前の奴、いないし」
ぼくののどに、錠剤の薬が引っかかる。
「家族とかは、ハルって呼ぶよ」
「ハル? 駄目だよ、それは。春って言うのは、一年に一回くるので充分」
目の前に、青々とした田んぼが広がった。
「分かった。ミハルで良いよ」
これは、ぼくにとって、勇気のある決断だった。けれども、意外とすんなりその決断ができたのは、きっとチヅルが近くにいるからだろう。
「よし、ミハル。まずは校内を案内しよう。と言っても、そんなに紹介が必要なわけじゃないけど……」
そういって、狼は獲物を探すみたいに教室を見回した。
「――そうだ。ちぃと知り合いなら、一緒に回ろう。ちょうど同い年だし」
ちぃというのは、チヅルのことだろう。たしか、おばぁちゃんもそう呼んでいた。
ぼくは、黙って頷いた。帰りかけていたチヅルと視線をあわせる。チヅルはそそくさと、ぼくの方に近づいてきた。
「一緒にまわってくれる?」
ぼくは聞いた。チヅルが頷く。それから、何かを言いたそうに視線を泳がせた。ぼくは、意識を集中する。
「ランドセルを……持って行ったほうがいい? そうだね。そのほうが、直接帰れる」
ぼくは、ランドセルを机から持ち上げた。ぴりり、と狼の空気を感じた。
「ミハル。お前、チヅルの言ってることがわかるの?」
雷雲の間に、ちらりとカズの顔を見た。
「言っている事?」
ぼくは、意味がわからない。
「チヅルは何もしゃべってないじゃないか。言っていることなんてない」
ぼくは、ランドセルを背負った。
「あぁ……。そうじゃない。言わんとしている事が、って意味。わかる?」
ぼくは首を振った。
「ええと……つまり、心の中がわかるのかって聞いてるんだ。チヅルの考えていること、当てただろ」
ぼくは、ぼくの周りに急に氷がはりだしたのに気付いて、泣きそうになった。
「心の中なんて、わかるわけない」
ぼくは、必死になって言った。
「そりゃ、当然だ」
狼がゆったりと首を縦に振る。
「でも、考えていることならわかる。だって、見えるんだから」
「見える?」
カズは、ぼくの科白を繰り返した。
「見える。だから、わかる」
ぼくは、言った。でも多分、皆にはわからない。かあさんにも、わからなかった。そんな時ぼくは、言葉が足りない、と思う。たくさん本を読んで、たくさんの言葉を覚えるけど、それでも足りない。だから、通じない。
「それは何? お前って、寺の子か何か? 不思議な力とか、そういうの?」
カズは、ぼくに顔を近づけた。それで、カズの表情が、ずいぶんはっきりした。
「違う。そんなの、無い」
カズの表情を見ながら、ぼくは言う。カズは、ぼくを気味悪いと思っていない。みたいだった。
「ふぅん。……なんだかよくわからないけど、ミハルってかっこいいな」
それは、突然だった。
「へ?」
ぼくは、思わず変な声を出してしまい、慌ててそれを飲み込もうとした。
「俺なんてさ、ちぃとは長い付き合いだけど、ちっとも言いたいことがわからないもんな。そういうの、わかるってお前、かっこいいよ」
ぼくは、カズが自分のなかで答えを見つけたのだとわかった。それが、何かまでは分からないけど。
「カズも……かっこいいよ」
ぼくは、小さな声で言った。
「俺? そうか?」
「うん、狼みたいだ。かっこいい」
強くて、冷たくて、でも、おせっかいなのだ。
「それ、ほめ言葉か。――まあ、ミハルに言われると悪い気はしないね」
カズは、鼻のあたまをこすった。
雨がふっている。しとしと、と。ずっと、世界は白いもやもやの中にある。
ぼくが学校に通い始めてから、一週間がたった。その間、ほとんど毎日、雨が降った。
「晴れたら、連れて行ってやりたいところがたくさんあるんだけどなぁ」
朝、カズが、ぼくにてるてる坊主を手渡しながら言った。
「どうしたの、これ?」
ぼくは聞いた。
「ちぃが作った」
カズは教室の窓から空を見上げている。
「晴れなくて良いよ。ぼく、雨好きだな」
ぼくは、手の上でてるてる坊主を転がしながら言った。
「ばかだな、ミハルは。晴れの魅力を知らないんだ」
カズはクスクスと笑っている。
ぼくだって、皆が晴れを好きだなんてことは知っている。チヅルがぼくに、てるてる坊主を渡した意味だってわかる。けれど、晴れは怖い。色々なものがはっきりと見えすぎて、ぼくには何も見えなくなる。
だけど、ぼくは少し気になってもいた。晴れの魅力とか、連れて行きたいところとか。ここならば、ぼくに見えるものがあるかもしれない。もしかしたら、あるかもしれないのだ。
そんなぼくの心を読んだのだろうか。その日の放課後には、雨はすっかり上がっていた。太陽が、自信たっぷりにぼく達を照らしている。
「晴れた……」
ぼくは、空を見上げた。学校のかえり道だ。
「さあ、皆で遊びに行こう」
カズが言った。カズは、何かするときに必ず、皆で、と言う。それが癖みたいだった。カズがそう言うと、みんな嬉しそうにカズに着いていく。チヅルも着いていく。この一週間で気付いたのだけれど、チヅルは耳が聞こえない。けれど、それを気にする人は居ない。こっちの言っていることはなんとなく理解する。理解していなさそうな時は、紙を使う。必要なことは、しっかり伝わるまで伝えるのが、ここのやり方だ。
「ミハル。どこがいい?どこでも連れて行ってやる」
カズがぼくに近づいてきた。
「あの、ぼく……」
ぼくはまだ、行くとは言っていない。皆で行くのは、不安だ。
「川が良い!水が増えてておもしろい。きっとミハルはよろこぶぞぉ」
一年生の信吾が言った。シンゴはカズの弟だ。でも、カズとはちがって色とりどりの紙吹雪だった。
「川かぁ。良いぞ。でも、水には入らないこと」
カズが、シンゴの目をまっすぐに見れるよう、少し腰をかがめて言った。どうやら、行き先は決定したようだった。川ならば、行っても大丈夫な気がした。
「ミハル。行くだろ」
ぼくが決める前にカズが決めてしまっている。チヅルもぼくの服の袖をつんつんと引っぱる。
「うん……行く」
ぼくは思わず言ってしまった。カズの顔が、本当の狼みたいに笑ったのを見た気がする。でも、狼って笑わないんだっけ。ぼくには、笑って見える。
ぼく達は、そのまま川に行くことになった。ランドセルを背負ったまま、洋服のまま、安全帽もかぶったまま、ぼくらは川に行く。水の音が聞こえ始めると、ランドセルは放り出した。宙にまうランドセル。たくさんのピエロが現れて、草に寝転がる。狼や、紙ふぶきや、たくさんの色とりどりの、きらきら光るぼくの仲間が、ピエロと反対に、ピョンピョン飛び跳ねた。その中には、もちろんチヅルもまじっている。
皆が、思い思いに遊ぶのを、狼だけは、群れを見守るかのようにゆっくりながめている。チヅルがぼくを引っぱった。
「なに? チヅル」
この間のように遊ぼう、とチヅルは言うのだ。ぼくは、石を手に取った。水面で、何回はねるか競うのだ。チヅルは上手い。ぼくの周りの子達も上手い。ぼくは当然、へたくそで。でも、チヅルはバカにしない。熱心にぼくに投げ方を教えてくれる。顔いっぱいに笑顔をうかべていて、本当に楽しそう。もちろん、ぼくも楽しい。へたくそだけど、気持ちが良い。
「ミハル、へったくそだなぁ。俺が、手本を見せてやるよ」
言いながら、カズが近寄ってきた。何となく、皆の視線が集まってくるのを感じる。
「見てろ」
カズが、石を投げた。それは、きれいに水面を滑って、すうっとはねた。昨日、テレビで見たトビウオって、あんな感じだ。それを見て、皆が騒いだ。
「すごい」
ぼくは、言った。
「どうだ。これはな、石を選ぶところから勝負なんだ」
カズがぼくの手をとった。そして、河原にしゃがみこむと、次々と石を手に取っていく。
「平たいのが良いんだ。だからって、平らすぎたり、小さすぎたりするのは駄目だ」
それは、この間、チヅルにも聞いていたことだった。
「あ、蝶々だ」
突然、目の前を、黒い蝶が横切った。
「蝶?」
石選びに夢中になっていたカズが、顔をあげる。
「うん。黒い蝶だ。大きいやつ」
ぼくは言った。
「クロアゲハかな? でも、今の時期にいるかな。見間違えじゃないの? どっちに行った?」
カズが首をかしげた。ぼくは、あわてて水音に意識を集中する。
「わかんない。やっぱり見間違えかも」
ぼくは、石を手に取ろうと腕を伸ばした。と、その手をぐいとつかまれた。チヅルだった。
「チヅルぅ。なんだ。なにか、怒ってる?」
チヅルをみて、カズが言った。チヅルは首をふる。
「カズが、チヅルが教えてくれたのと同じことを、ぼくにもう一回言うからだ」
ぼくは、チヅルの手をとった。
「なんだ。そりゃ、悪かった」
カズは笑って、立ち上がった。
「カズ、今、チヅルが怒ってるのが、わかった」
ぼくは、立ち上がったカズを見上げた。
「うん。だって、ぶぅたれた顔してたから」
パンパン、と手の土をはらう。
「それ、一緒だよ」
「ん?」
「ぼくと、一緒だ。だから、見えるっていっただろ」
あぁ、とカズは小さくつぶやいた。
「何で、チヅルの考えがわかるかって、あれ? そういう事かぁ。確かに見えるけど……」
「けど、何?」
「うん。ミハルのは、ちょっと違う気がするんだよね」
「そんなこと無い。そんなこと、無いよ」
ぼくは、カズから顔をそらして、石を選ぶふりをした。カズは、その様子を少しだけ見てから、他の人の所に歩いていった。チヅルがぼくに、とっかえひっかえ石を持ってくる。ぼくは、それに付き合って、石選びのコツを、少しずつつかんでいった。
チヅルとぼくのおじいちゃんが初めて会ったのは、ぼくとチヅルが初めて会ってから13日目の金曜日だった。ぼくとチヅルは、学校の帰り道だった。僕らはいつも、田んぼの隣の細い道を、出来るだけ手を繋いで帰る。このあたりにはクロって呼ばれている大きな黒い犬がいて、僕はカズに教えられてそれをよく知っていたけれど、水溜りにいる飴ん坊にすっかり気をとられて、クロのことを思い出す暇がなかった。
最初に気がついたのはチヅルだった。僕の手をぎゅうぎゅうと痛いくらいに握り締めて、何かを訴えてくる。ぼくは、すぐにそれがクロだと分かった。
「クロだ」
ぼくが言う。チヅルは何度も何度もうなずいた。いつもより、少しチヅルが赤みがかって見える。きっと、クロのせいだ。
「逃げよう」
ぼくは、チヅルの手を引いて、ちからいっぱい走った。ぼくはあんまり足が速くはないけれど、チヅルのためならいくらでも走る。チヅルは、けっこう足が速かった。
でも、クロはもっと足が速かった。僕の見たことの無い、どろりどろりとした透明な液体が、
僕らを包んで足を遅くする。でもぼくは、負けるわけにはいかない。
チヅルが引っ張られてしまったら、きっとぼくは固まってそこから一歩も動けないどころか、どんどんどんどん引っ張られて、どろどろの底に深く深く沈んでしまうのだ。
けれども、どろどろの量が少しづつ増えて、ぼくはある瞬間に、ぼくがもうだめなんだとわかってしまった。チヅルと一緒にぼくもどろどろになってしまう。それはとても格好の悪いことに思えた――その時だった。
「こぉら、クロ。だめだろう、子供を追っかけまわしちゃあ」
声と共に真っ赤な炎の柱が現れた。それは黒いどろどろを一気に蒸発させる。どろどろは、突然現れた炎の熱さでじたばたと苦しみながら、やがて、黒い炭へと変わってしまった。あとに残ったのは空まで届きそうなごおごおと燃える炎の柱と、その赤さと、明るさと、暖かさだった。
「じいちゃん」
ぼくはそれでも、チヅルの手を放してはいなかった。
「ハル。よく頑張ったじゃないか。えらいえらい」
じいちゃんの炎で、ぼくの顔はかっかと熱くなった。
「見て、チヅル。これ、ぼくのじいちゃんなんだ。炎なんだ。すごいだろ」
ぼくはチヅルが聞こえないことを知っていたし、チヅルもぼくが聞こえないのを知ってしゃべっているのを知っていた。それでもチヅルは、ぼくの言っていることを理解している。聞こえないけど理解してるんだ。
「炎ってさ、暖かいだろ。それにかっこよくて、安心で。ぼくのじいちゃんはすごいんだ」
本当は、チヅルも同じくらいぼくにとってはすごかったけれどチヅルはそれを知っているから、ぼくにはわざわざ、言う必要がなかったのだ。
ぼくが、チヅルの家に遊びに行くようになったのは、それから間もなくだ。おばあちゃんが、チヅルのことを村長の娘と言っていたけど、チヅルの家は、それに似合った立派な家だった。木と紙と草だけでできた、二階の無い家は、いつも、ぼく達を飲み込もうと、暗くて大きな口を開いていた。中に入ると、下のほうにたまるばっかりのはずの赤黒くて重い空気がぼくを包んだ。ぼくは、体中を撫で回されているようで、たまらなかった。だから、ぼくは、チヅルの家に行くことをしょっちゅう嫌がった。チヅルも、無理やりぼくを連れて行こうとはしなかった。けれど、一度家に上がってしまうと駄目だった。五時半を告げるチャイムが鳴っても、チヅルはぼくを引きとめようと必死だった。
「ミハルは、ずいぶんちぃに気に入られちゃったなぁ。今日こそは、俺達と遊ぼうぜ」
カズがぼくを誘ってくれる。ぼくはもちろん、カズ達と遊ぶのも好きだった。そんな時は、チヅルも一緒に遊びに行く。チヅルはいつも、ぼくの憧れ、五色のカキ氷みたいに笑った。そして、夕方になるとやっぱり、ぼくはチヅルの家に行くのだった。あの家で、大きな怪物に追いかけられる夢を見るのだった。
ある日の夕方、カズが手持ち花火とバケツをもって、ぼくの家に来た。
「皆で、花火やろうとおもうんだけど……」
と、カズは言った。最近、すっかり日がのびて、外は過ごしやすかった。せみの声が常に聞こえているので、ぼくの安心できる空間はとても広かった。かあさんに聞くと、良いと言うので、ぼくは参加することにした。少し歩いたじゃり道の真ん中で、カズのとうさんと、かあさんが、ろうそくに火をつけて待っていた。人数は、八人。皆が同じ目的に向かっているせいで、判別しにくかった。ただ、ぼくには一つだけわかることがあった。
「チヅルは、いないんだ?」
ぼくは、カズにそっと訊ねた。
「ちぃは、家に帰っちゃうと誘いにくいんだ。それに、ちぃを誘うと、ミハルを独占されちゃうからね」
カズは、ぼくに花火を一本手渡してくれた。狼は、少しかわいく見えた。
「誘いにくいんだ」
独占されちゃう、っていうのは無視した。だって、それはしょうがないから。それよりぼくは、誘いにくいって方が気になった。
「だって、ちぃの家っておおきいだろ?」
「うん。それに、怖いよね」
ぼくが言うと、カズは笑った。
「別に怖くは無いけど……ミハルには怖く見える?」
ぼくは、頷いた。
「まぁ。俺は、おばさんとおじさんが苦手かな。ちぃのさ」
「ぼく、会った事無い」
え? っと、カズが言った。
「あんなに何度も、ちぃの家に行ってるのに?」
「うん。会わないんだ」
確かに、不思議な話だった。ぼくは、いつもチヅルの家に行くけど、チヅルの両親にあったことは無かった。
「じゃあ……行こうか」
カズが空を見た。
「どこに?」
ぼくは聞いた。
「だから、ちぃの家さ」
「え?」
「ちぃを迎えに行こう。ミハルがいるからきっと大丈夫だ」
いつの間にか、ぼくらの周りを学校のほかの皆が囲んでいた。
「ちぃの家に行くの?」
カズの弟のシンゴが聞いた。
「うん。俺と、ミハルで呼んでくるから、お前ら、先に少し始めてろ。良いか?少しだぞ。絶対だぞ」
カズが念を押した。シンゴと、皆が頷いた。カズが、ぼくの手をとった。
「行こう」
カズは走り出した。カズは狼だから、当然足が速い。でも、ぼくは、一緒に走った。誰かに手を引かれて走るのなんて、初めてだった。周りの景色が、水彩画みたいだった。水をたらしちゃったから、にじんでしまった水彩画。
気付くと、そこはチヅルの家の前だった。カズが、インターホンを押した。ぼくの家に訪ねてきたときは、勝手に庭まで入ってきたのに。
「はい?」
女の人の声が答えた。
「あの……カズヤです。曲がり角の並木の」
カズの家は、曲がり角のつきあたりにある。
「ああ。はい。カズ君ね。どうしたの?」
女の人の声は、別に嫌な人には思えない。
「皆で、花火をやってるんですけど、チヅルも参加しないかと思って……」
けれど、カズの話し方を見ていると、これがカズの苦手なチヅルの母なのだろう。ぼくの、会ったことの無い、チヅルの母なのだろう。
すこし、間があった。
「聞いてみるわ。少し、待っていて」
そう言って、インターホンは切れてしまった。ふぅっと、カズが息をはいた。それからすぐに、チヅルが玄関から顔をだす。ぼくのほうに小走りで近寄ってくると、ぼくの腕を強く握った。薄での長袖の上着は、さっきの人が着せたのだろう。昼間は着ていなかった。ぼくの顔をのぞきこんで、にへらっと笑った。
「夜遊びに行くのがよっぽどうれしいのかな?それとも、ミハルに会えたことが嬉しいのか」
カズが、チヅルを見て言った。ぼくは、それは何か違う気がした。どう違うのかはわからない。でも、チヅルってこんな笑いかたをしたっけ?チヅルはうれしさにはじけすぎていて、その理由まで知ることは出来なかった。
ぼくらが砂利道に戻っていくと、赤い、大きな八の字が見えた。シンゴたちの花火だ。それが、チヅルの目の中に映って、ぱちぱちときれい。チヅルを通すと、ぼくにはきれいなものが本当に増える。人の作ったものがきれいだってことを、ぼくは始めて知った。
「すげぇ。本当にちぃが来た」
シンゴが叫ぶのが聞こえた。カズにもきっと聞こえた。でも、チヅルには聞こえない。
カズは黙ってチヅルに手持ち花火を渡した。ぼくは、チヅルと一緒に花火に火をつけて、二人で、シャーシャー鳴ってる花火を眺めた。色が、白かった。ぼくの知っている火とは違った。チヅルがそれを、ちょっと動かした。白い文字が、空中に浮かぶ。
〈きれい〉とチヅルは言った。〈うん〉と、ぼくは返した。〈たのしい?〉と、カズが加わってくる。チヅルの答えは、ハートだった。花火を使うと、チヅルは皆と会話が出来た。それは、とてもきれいで、楽しかった。細い線で、鋭く白く光るのが、ぼくのせいなのか、チヅルのせいなのか、花火のせいなのか、ぼくにはわからなかった。
線香花火が終わると、皆でゆっくりと片づけをして、最後にろうそくを消した。その時、チヅルが、ろうそくの近くに落ちていたマッチの箱を見つけた。そっと手に取る。それから、少し首をキョロキョロさせた。ぼくは、すぐにチヅルに近づいていった。
「それ、欲しいの?」
ぼくは、チヅルに聞いた。チヅルは、ぼくの顔をじっと見つめ、それからマッチ箱を持つ手に、少しだけ力を込めた。
「あらまぁ、ちぃちゃん。ありがとう」
だから、カズのお母さんがそう言って、後ろから声をかけたとき、チヅルはとても困っていた。
「あのっ。チヅルがマッチが欲しいって」
ぼくは、勇気を出して言ってみた。
「マッチが? でも、ちょっと危なくないかな?」
カズのお母さんが、そう言って手をだす。
「面白そうっていうのはわかるんだけど。ごめんね?」
カズのおかあさんは、ピンクの花みたいだった。だから、ぼくたちにちっとも困っていないのもよくわかったし、でも、マッチを渡す気が無いのもよくわかった。ぼくは、ここでひきさがるわけにはいかなかった。だって、ぼくにはチヅルの探しているものがわかる。火は、とてもあたたかい。ぼくの、おじいちゃんと一緒なんだ。強くて、優しくて、あたたかい。ぼくたちは、大好きになれる。
「マッチ一本で燃やせるものなんて少ないし、絶対、大人の居るとこでしか使わない」
ぼくは、花が大好きなミツバチのつもりになって、言った。一生懸命ってことだ。
「うぅ〜ん」
花は、ぼくとチヅルの顔を追いかけて、それからまた、ぼくとチヅルの顔を追いかけた。
「そう? じゃあ、しょうがないね。約束だよ」
少し考えてから、カズの花は言った。ぼくは、思わずチヅルの顔を見た、チヅルは、なんだか安心したみたいな顔をした。何かが、おかしい。でも、すぐにそれが笑顔に変わったので、ぼくも、すぐ笑顔を返した。
カズが、一人でぼくの家に遊びに来た日があった。すごく晴れていて、少し動くととたんに、体が熱くなるような日だった。その日は学校が休みで、ぼくは太陽と勝負をしなくても負けていることがわかっていたので、縁側にごろごろとしながら、すっかり霞むことの無くなってしまった庭を眺めていた。川に行こうかな、とも思ったが一人で行くのは何となく、裏切り者の気分だ。そんな時に、カズが来た。
実は、カズはしょっちゅうぼくの家に遊びに来る。学校が休みのときは特にそうだった。たくさんの友達を引き連れて、ぼくを誘いに来る。そして、ぼくを誘ってからチヅルの家に行くのが、いつものコースになっていた。おかげで、ぼくは庭を眺めることをすっかり忘れていた。たまには、庭を眺めてあげないと、きっとぼくは薄情だと思われて、見捨てられてしまうのに。
とにかくカズは、しょっちゅう皆の家に行く。でも、その日のカズは一人だった。ぼくは、一人でいるカズを始めてみた。狼は、いつだって一人でカッコいいけど、本当に一人でいたことは、一度もなかったのだ。
「どうしたの?」
ぼくは、ゆっくりと体を起こして聞いた。
「別に」
言ってカズは、縁側に腰を下ろす。
「良い天気だから来たんだ」
カズは、空を見た。カズはよく空を見る。青空が好きみたいだった。
「なんで良い天気だと、ぼくの所に来るの? しかも、一人で」
「ん……だってさ。ミハルは晴れが嫌いと言っていたから。こういうのは、一人の時に話さなきゃ意味が無」
なるほど、とぼくは思った。カズは、とっても心配性だ。いっつも大胆で、でもとっても器用なんだ。
「ぼく、前ほど晴れが嫌いじゃないよ。たぶん」
「そうか。ならいいんだ」
と、カズは笑った。
「ミハルのハルはさ、せっかくお天気なのに、晴れが嫌いなんてもったいないと思ったんだ」
そこまで言うと、腰を浮かそうとした。
「それだけ?」
ぼくはあわてて聞く。
「うん。それだけ」
ちょうどその時、かあさんがお茶とお菓子をもって縁側に現れた。
「ハル、おやつ持ってきたわよ。たしか、カズくんだったわよね。ゆっくりしていってね」
それでカズは、しかたなくもう一度、縁側に腰を下ろした。かあさんが、家に中に消えていくのを見届けてから、
「ミハルって、本当にハルって呼ばれてるんだ。変なの」
と、かあさんがもってきたせんべいをほおばりながら呟いた。
「ぼくの名前を、かあさんが呼ぶのは……すごく難しいんだ」
ぼくも、せんべをかじった。
「ふぅん。そうなんだ」
それから、ふたりはだまってせんべいを食べた。カズはちょっと不思議だった。カズは狼なのに、庭には、鳥が代わる代わる出たり入ったりしている。でも、ぼくとカズを包んでる、このやわらかくで丈夫な膜のなかに入ってくることは、きっと出来ない。それは透明で、ぼくの目でも上手に見れないのに、鳥にははっきりと見えているに違いない。
――突然、庭の鳥達がいっせいに飛び立った。ぼくと、カズのまわりの膜もすうっと、とける。見ると、チヅルがいた。チヅルがぼくの家に自ら来たのは、初めてだった。
「チヅル」
ぼくは、すぐに立ち上がった。チヅルは、なんだか驚いたように、庭の入り口に突っ立って、ぼくとカズをみつめている。
「チヅル? どうしたの? 入りなよ」
ぼくはチヅルに近づいた。後ろで、カズの動いた気配もする。チヅルは、ぼくが前に進むのに合わせて、一歩、二歩、とじりじり後ろに下がっていく。そして、いきなりダン、と足を大きく前に踏み出すと、勢い良くぼくの右手を引っぱった。
「チヅル! なに?」
ぼくは驚いて、反射的にカズのほうを見てしまった。それは、明らかに失敗だった。チヅルは、さらに強くぼくの手を引っぱった。
「痛い。チヅル。痛いよ」
ぼくは、思わず叫んでチヅルの手を振り払った。途端に、ぼくの足元から塩水が湧き出てきて、ぼくをすっかり囲んでしまう。ざぷんざぷんと波だって、白く砕ける泡がチヅルの顔を見えなくさせる。気付くと、チヅルの背中がどんどん遠くなっていく。
「カズ、ごめん。ぼく、チヅルを追いかけるから」
言うや否や、ぼくは走り出した。後ろでカズが何かを言っていた気がしたけれど、そんなのを考えてる余裕は無かった。チヅルは、怒っている。そして、悲しんでいる。なぜだろう。今日は遊ぶ約束をしていたっけ。いいや、していない。カズといたのが気に入らなかった? そんなはずない。チヅルは、ぼくと遊ぶのが好きだったけど、皆と遊ぶのも好きだった。黒い蝶々がちらちらする。わからない、わからない。けど、チヅルの悲鳴がきこえる。ぼくは、チヅルの手を離すことだけは出来ない。絶対にできないんだ。
ぼくは、やっとチヅルに追いついて、さっきとは逆に力いっぱいチヅルの腕をつかんだ。
「チヅル、ごめん」
先手必勝。ぼくは、とりあえず謝った。チヅルは、顔をふせたまま、ふるふると首を左右に振った。
「そのぅ……ぼくが悪いんじゃないよね。でも、たぶんチヅルも悪くないんだ。そうだろ?」
チヅルは、ぼくの言っていることがよくわからないみたいだった。ぼくの顔を、力いっぱい見つめている。
「何か……あった? ぼくに、話したいことがある?」
ぼくは、チヅルの顔をのぞきこんだ。チヅルの目から、いきなり大粒の涙があふれた。ぼくは、誰かが泣いているのをみるのは始めてだった。
「チヅル。大丈夫。ぼく、ちゃんと話をきくから。カズは来ないから」
チヅルは、ぼくの手を自分の腕から外すと、そのまま歩き出した。ぼくはついて行く。その、背中をじっと見る。ぼくにはそれが、チヅルの背中か、自分の背中かわからない。景色がぐるぐる回って、そのなかにきれいにチヅルの家が混じってみえる。家で……きっとなにかあったんだ。
ぼく達は、川に着いた。チヅルが大きめの石を拾って集めるので、ぼくも自然にそれに従った。大きな石で丸を作って、その中に木の枝を集めた。チヅルがマッチを取り出す。そうっと火をつけた。近くに落ちていた新聞紙も使ったので、火はすぐにぼくたちの顔を照らすくらいの大きさになった。
「これ、おじいちゃんに似てるんだ」
その火を見つめながらぼくは言った。チヅルは、なにも返してくれなかった。ぼくが、話しかけたことに気付いていないのかもしれない。ほうっ、とチヅルが息を吐くのがわかった。
「チヅル?」
ぼくは、チヅルの顔を見た。それは、全然はっきりしない顔だった。今まであんなにはっきりと、目も口も見えていたのに、初めて、はっきと見えた顔だったはずなのに、今は全部がぼやけてしまって、まるでのっぺらぼうと同じだった。その顔を、ゆるゆるを炎の赤が照らしている。
「やらなきゃ、いけないことがあるんだ」
それは、ぼくの科白か、チヅルの科白か。ぼくにはわからない。きっと今、ぼくの顔もチヅルと一緒で、ぼんやりしているんだ。
ぼくは、チヅルの家の前にいた。正確には、ほとんど家の中だ。ぼくは、チヅルの家の庭先にいた。大分、日が落ちてきてしまっている。なんだか、暗いのに赤い空間がぼくをつつんでいた。これは……鬼だ。怖い。そうだ、マッチをこすればもっと明るくなる。おじいちゃんが、ぼくを守ってくれる。そう思ってぼくは、手の中のマッチを一本すって……ハッとした。
――チヅルがいない。
そういえば、手もなんだか薄汚れていて、それに変な匂いがする。ぼくは、ゆっくりと視線を下に落とす。なにかでぬらした後。ぼくは、息が詰まるって、このことか、と思った。
「ガソリンだ」
すこし前まで住んでた家のほうでは、よくこんな匂いがしていた。それに、冬になってもこんな匂いがする。
「大変だ」
ぼくは、間抜けにもそんなことを言った。はやく、チヅルを探さなくちゃ、とくるりと体をひねると、ぼんやりとチヅルが立っていた。
「チヅ……ル」
ぼくは、そっと手をのばす。チヅルは、ぼくの手をぎゅっと握り締めた。――途端、ぼくの体は炎に包まれた。そんなに熱くはない、でも……怖い。怖い。
「チヅル。お願いだ。やめて」
ぼくは泣いてしまった。それでチヅルは、もっと強くぼくの手を握った。ぼくはとうとう、我慢できなくなった。涙をぽろぽろ流しながら、小川にむかって一目さんにかけ出した。
「ハル! ハル君! なんてこと。何でこんな所に」
そういうかあさんの声と、暖かい手がほっぺをなでる感覚に、ぼくは目を覚ました。
「か、かあさん」
ぼくは、かあさんに飛びついて、それから急に思い出した。
「かあさん。ぼく、燃えてない? 真っ黒に焦げてない?」
ぼくは、自分の体をぱたぱたと触った。
「何言ってるの。ずぶぬれよ。ここは、川なんだから。早く、温まらなきゃ」
かあさんが話すと、音符がぼくの体を包んだ。それでぼくは、周りをもう一度見ることができた。ここは、小川だった。とうさんの地図が教えてくれた、チヅルと出会った小川だった。
「おーい。カスさん。ミハル君。いたのか」
森のほうから、近所のおじさんの声がした。
「いました。いました。ほんとうにご迷惑おかけして」
かあさんは、目の端を指でこすった。ぼくは、かあさんが泣いているのも始めてみた。
「そうかい。そりゃあ、よかった。ちぃちゃんも一緒か」
おじさんが近づいてくるのを確認しながら、かあさんはきょろきょろした。
「ハル……チヅルちゃんは?」
そう言ったかあさんの声が、ずっと遠くできこえた。ぼくは、自分の手を見た。暗くてよく見えない。そっと顔に近づける。何かの匂い。さっき嗅いだ匂い。
かあさん……と、ぼくは最初、あまりにも声が出ないのに驚いた。これではダメだ、と一度大きく息をすう。そして、叫んだ。
「かあさん! 大変だ。チヅルが、火をつけるんだ。家にも、ぼくにも、自分にも。はやく、とめなくちゃいけないんだ」
目をおっきく開いて固まっているかあさんを、ぼくはひっぱった。何度も、何度も、何度も、早く、と繰り返した。
「ハル……」
かあさんの小さな声が聞こえた。そして、母さんは急にぼくを抱きしめた。
「まさか、チヅルちゃんはあの中にいるの? うそでしょう?」
すこし、斜めになった斜面を登って、全速力で森をぬけると、すぐに空高くあがる、恐ろしい、あかい龍が目に飛び込んできた。ぼくは、苦しくて仕方が無かった。息がとまってしまうのじゃ、ないかと思った。それでも、走った。とにかく走った。ひたすら走った。チヅルの家を、チヅルを目指した。
家の前まで着いて、そのまま中に突っ込もうと思ったら、簡単に消防士さんに体ごとつかまれた。
「離して! チヅルがいるんだ。お願いだ。チヅルを助けて。お願い。お願い。」
ぼくは、泣き叫んだ。本当に、息が出来ない。
「ミハル君。君、無事だったのか。てっきり中に居るものかと」
消防士さんが、ぼくを見つめて言った。
「チヅルがなかにいるんだ」
ぼくは、消防士さんに殴りかかった。いや殴りかかろうと思った。けど、ぼくの目の前は、急に真っ暗になってしまった。
ぼくが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。見たことのない天井にびっくりして、首を横に動かすと、かあさんの顔がとんできた。
「ハル!」
かあさんの目から、ぽろぽろとガラス玉がこぼれだす。
「かあさん……」
ぼくは、ぼんやりしていた。けど、鼻をつくツン、とした嫌なにおいと、こげ茶色と黒をマーブル状に混ぜたみたいな雲だけは、はっきりとわかった。
「よかった、心配したわ、本当に」
かあさんが話すたびに、小さい音符や、大きい音符がぼくを周りをはねる。
「先生を呼んでこなくちゃ、そう、とうさんにも連絡しなきゃいけないわ。それにおじいちゃんとおばあちゃんに電話して」
音符はどんどん増えて、すっかりぼくを囲んでしまった。それでぼくはやっと、かあさんの姿をはっきりととらえることが出来た。
「かあさん……チヅルは?」
ぼくは、ゆっくり言った。
「チヅルはどうなったの?無事だった」
かあさんから、音符がでなくなった。
「どうなの?」
ぼくは、もう一度聞いた。
「チヅルちゃんね。無事だったわ」
かあさんは、ぼくから目をそらした。
「チヅルは……逮捕されるの?」
かあさんのそらされた目が、ぼくを見るために戻ってきた。
「ハル。あなたね、どこまで知っているの?」
「チヅルが火をつけたんだ。自分の家に、ガソリンをまいて……でも……チヅルはたぶん悪くないんだ」
かあさんは、ベッドの上のぼくを抱きしめた。
「チヅルちゃんは警察病院よ。ご両親は……助からなかったわ」
ぼくは、かあさんの肩のむこうの、病院の天井をただ、見ていた。途中、カレンダーに気がついた。日付に×の着いたカレンダー。火事の日は、もう昨日だった。
ぼくの怪我は、全然大したこと無くて、本当なら入院も必要なかった。けれど、川で見つかったぼくは、転げ落ちて頭でも打ったんじゃないかと心配されていたらしい。おまけに気を失ってしまったから、念のために一日入院したのだ、とかあさんが言っていた。
チヅルは、ぼくが駆けつけてすぐに、救出されていた。ぼくは、チヅルが運ばれた救急車の片隅に乗って、ここに着いた。その後、思ったよりも軽症だったチヅルだけが、警察病院へと移されていった。チヅルの体には、火事が原因とはとうてい思えない傷が、そこかしこについていた。
入院中、ぼくのところに刑事さんがきた。ぼくは、チヅルがやったことを、やったことだけを、話した。
「チヅルちゃんの耳……ね。生まれつきじゃなかったみたい」
刑事さんが帰った後、かあさんがぽつりと言った。ぼくは、蝶々を思い出していた。黒くて、大きな蝶々を。
「かあさん」
ぼくは、小さなこえで言った。
「ぼくの名前、ミハルって言うんだ。大丈夫。ミハルって呼んで欲しいんだ」
かあさんはぼくを見て、また、目に涙をうかべた。ここのところ、かあさんは本当によく泣く。
「ミハル」
かあさんが言った。
「なに?」
かあさんは、ただ首を振っただけだった。でも、その目から、こんどは真珠がたくさんこぼれていた。
「よかったなぁ、ミハル。元気になって」
学校の近くの小さな丘の上でカズが立ち上がって伸びをしながら言った。
「ぼくは、もともと元気だったよ」
ぼくは、その横に体育すわりをしている。丘からは、少し離れたチヅルの家の焼け跡が良く見えた。けれど、ぼくは自分のひざばかりを見つめていた。
「ちぃは、逮捕されないんだってさ。未成年だから」
「うん」
「それに、罪も軽くなりそうだって。色々と、事情があったみたいだから」
「うん」
ぼくは、たぶん共犯者なのだと思う。ガソリンは、チヅルが一人でまいたのではないだろう。
「ミハル? 聞いてる?」
カズがしゃがんで、ぼくの顔をのぞきこんできた。
「聞いてるよ」
ぼくは、カズを見ないで言った。カズは、小さく息を吐いた。
「おれさぁ、ずっとちぃと居たのに、何も知らなかったな。ホント、何にもわかってやれなかった。もしかしてさ、ミハルはなにかわかってた? おれ、ミハルに聞きたくて仕方なかった」
ぼくは、今度は自分の両手を見た。それから、それをくんだりほどいたりした。
「カズ。ぼくね、ずっと不思議だったんだ」
「ん?」
「チヅルはさ、ずっと家に帰りたがってた。いつ遊んでても帰りたがってたんだ」
「うん」
「でもさ、チヅルの家って怖いだろ。暗くてどろどろだ」
「うん」
「ぼくの家も、同じように古いのに、チヅルの家だけどろどろなんだ。ぼく、それがどこから来るのか不思議で……」
「それが、ミハルの不思議なこと?」
「そうじゃなくて。それでね、チヅルの帰りたがってる家は、ちょっと違ったんだ。チヅルの家なんだけど、なんか、違うんだ。もうちょっと明るくて……」
「それ、どういう意味?」
「ぼくにも、よくわからないんだ。でも、ぼくはチヅルの両親の姿を見たことが無かった。会ってるはずなのに、見たことが無かったんだ」
そこまで言ってぼくは顔をあげた。
「不思議なんだ。ぼく」
カズを仰ぎ見る。カズは少しの間、何も言わずにぼくと視線を合わせていた。それから
「そう……。俺たち、これからどうしようか」
と、なんとなく笑った。
「どうもしないよ。ぼくは、ここでチヅルを待つ」
「チヅルを? ちぃは、ここに帰ってくる?」
こくん、とぼくは頷いた。
「帰ってくる。だって、ぼくはこの村から出られない。ぼくがここにいるかぎり、チヅルは帰ってくるんだ」
じゃぁ、とカズは遠くの景色を見た。
「じゃあ、ちぃもミハルも、他の皆も心配な俺は、ずっとここに居なくちゃいけない」
カズは、軽く息を吐いた。
「うん。そうかもね」
ぼくはカズの方を見なかった。けど、さっきカズの吐いた空色の息が、ぼくの目の前まで下りてきていたので、ぼくはカズが笑っているのだと分かった。空色は、カズのいちばん好きな色だ。
それを見て、ぼくの顔からも自然と笑顔がこぼれた。
ぼくは、この村で、一生さめない夢を願う。チヅルやカズ、他の皆と一緒に。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
拙い文章を読んでいただいて感謝でいっぱいです。
感謝ついでにお願いを一つさせていただきます。
気が向いたらでいいので……どうか、感想をください!
ほんの一言でも結構です。よろしくおねがいいたします。