泥の知らせ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おっと、つぶらや。そこで止まってくれ。
よーく、見てみろよ。足元にアリの行列ができてんだろ? ぜんぜん気づいていないようだったし、踏んづけやしないかと心配になってな。
――そんなこと、いちいち気にしていたら生きていけない?
ああ、たいていは気にする奴はそういないだろうし、実際に問題がなく済むことが大半だろう。
でも、万が一。億が一は俺たちのすぐそばに転がっているもの。身近にある変化の兆しについて、俺が体験した話、聞いてみないか?
俺が一人暮らしをしていたときのことだ。
その日、たまたま風呂に湯を張ろうとして、ボイラーをつけたんだよ。ところが、ごろっと横になっているうちに、うとうとしちまってさ。はっと気づいて風呂へ駆けつけたら、風呂桶は大洪水。そればかりか、中のお湯はすっかり水になっちまっている始末。それに巻き込まれていたとおぼしき小さい蜘蛛が一匹、排水口に引っかかってじたばたしていたけれど、ほどなく動かなくなっちまった。
ガスを止められたんだ。ケータイを見るとご丁寧に、契約しているガス会社から留守電が入っていて、ガスの復旧方法を吹き込んでくれている。
ガスの元栓は、アパートの一階。部屋が二階にある俺は、軽く舌打ちしながら一階のガスメーター前へ向かった。
はじめての経験じゃない。しきりに赤く点滅するボタンを長押しして、復旧するかどうか確かめれば、それでしまいだ。
だが、メーターへ近寄ってみて、俺は「おや?」と思った。
点滅する光に照らされて、メーターとボタンの間に、とろりと足を伸ばす、泥のかたまりらしきものがくっついている。親指と人差し指でつまめそうな小さいものだが、その垂れ具合といったら、何本も足が生えたイカやタコのような、姿を思わせる。
「きたねえな」と思いながらも、その場はいったん無視。ボタンを押して部屋へと馳せ戻った。お湯が出始めてくれたのを確かめ、今度は眠るまいと部屋の中をうろうろする。
お湯が沸くまでの間、ゴミ袋の近くでちっこいゴキブリを見つけたから、始末しておいた。放っておくと、ろくなことになりそうにないからな。
それから一週間ほど経って。
土曜日の午前中だからと、ゴロゴロしていたら不意にドアのインターホンがなる。
「はい」と返事はしたものの、俺は自分からドアを開けはしない。俺に用がある奴なら、自分から名乗ってくるはず。もしくは宅配便で、差出人の名などを告げてくるはずだ。
しかし、今回はそれがない。「どちらさまですか?」と聞いても返事をしてくれなかった。
訪問販売のたぐいにしても、威勢がない。そのまま引っ込もうとしたところで、またもピンポン。今度はトントントン、とノックのおまけつき。
「はい、どちらさまですか?」
内心、むかむかしながらも、声は平静を装っている。
二回目に対しても、相手はだんまりを決め込むうえに、立ち去る気配も見せない。
――おいおい、居留守で腹が立つんならまだ分かるけど、声かけて居座られるなんぞ、考えられんのだが。
俺は聞き耳を立てつつ、わざとらしくドア近くのコンロのスイッチを入れる。
水をたっぷり入れたやかんを火にかけ、生活音丸出しだ。「あんたなんぞ、眼中にないよ」と言外に、戸の向こうにいるであろう相手にぶつけてやる。
それでも、外の奴は去る気配を見せず、結局俺が外を確かめたのは、それから二時間後のことだった。
そこには、誰もいなかったよ。だがドアを振り返ってみると、のぞき穴のすぐ下に泥がこびりつけてあった。湿り気を帯び、かすかに臭うそれは、張り付けてからいくばくも経っていないだろう。
あの、ガスメーターのものと同じだ。つまめそうな小さなかたまりで、その下部からいくつもの水の筋が、くらげの足のように伸びている。
俺はそことドアメーターの泥を落としたよ。何かしらのマーキングがされているんじゃないかと思ったからな。訪問販売は、このたぐいの目印を使うことがある、と聞くし。
それから毎日、ドアとガスメーターを気にするようになった俺を挑発するかのように、このマーキングはしばしば姿を現した。
初めは気まぐれだと思っていたが、何度も目にするうちに法則性に気づき出したんだ。
一番、目立ったのが俺が自転車で、ハトを轢いちまったとき。下り坂を駆け下りる俺の前に、突然ハトが一羽降り立ったのさ。
こけない程度に、ハンドルをわずかにそらすのが精いっぱいだった。ハトも、胴体でもろにタイヤを受けてないはずだ。だが、タイヤを中心に巻き起こった羽の幕が、一瞬、俺の視界を塞ぎにかかる。
長い長いブレーキ音。それでもなかなか止まらず、危うくバス停に激突しそうになって、ようやく俺は後ろを振り返った。
もう10メートルくらい離れちまっただろうか。そこにはまだアスファルトにこびりつくいくつもの羽たちと血痕。そして、足の片割れと思しきものの影が残っていたんだ。
ざわつき収まらない気持ちのまま、その道から遠回りして家へ戻った俺は、ドアの前で「うっ」と声を漏らした。
ドッジボールをぶつけたかと思う、大きな泥のかたまりがドアにはっきりと残っていたのさ。
――殺生に関わると、その証がここに残る。
そう察した俺は、いまお前に注意したように、あっちゃこっちゃの生き物たちの動向に気を配るようにしたのさ。だが、そこを引っ越す直前に、とうとう俺はやっちまった。
自転車に乗ることを自粛するようになった俺は、徒歩で外出していたところ、後ろから盛大にベルを鳴らされた。狭い歩道でどうにか横によけると、ハンドルをわずかにかすめながら、猛スピードの自転車が通り過ぎていったんだ。
「気をつけろよ……」って愚痴は、すぐさま現実のものとなる。ほんの数十メートル先、点滅信号を渡ろうとした自転車は、信号無視した大型車に激突したんだ。相当の勢いでぶつかられた自転車の運転手は、ここから見えない建物の影へと吹っ飛ばされた。
目撃者として事情聴取をされたくない俺は、すぐさまその場を立ち去る。だが、自分の家が近づくと、ある懸念がぐんぐん湧き上がり、これもまた現実となった。
ベージュ色の俺の部屋のドアは、もうすっかり全体が泥で覆われていたんだ。真新しい、湿ったものでな。