第069号室 アラクネファイト
不必要なほど深く掘られたマンホールに落ちた闖入者が上がってくる気配は未だ無く、揺らめく夕焼けに照らされた団地の建造物は、その影を伸ばし地面を隠して隣の建造物へ侵蝕し、溶け合っては巨大な一つの闇となり、夜の訪れを雁首揃えて待ちわびる。
額に滲む汗が夕日を受けて茜色に煌めき、肌に張り付いたブラウスはひんやりと体温を奪う。夕日に染まるランドセルを背負った少女、小夜は、気温の下がった夕時にようやく姿を見せた待ち人に対して、不機嫌な態度を隠さなかった。
「うす、お嬢、お疲れ様です。呼び出し恐縮で「気にしないでエイプリルさん、私も今来たところよ?」」
開いた胸元を覆い尽くす煌びやかなハイジュエリー、へそチラのチューブトップに合わせたラグジュアリースーツのジャケットは袖をまくり、レザーのロンググローブに繊細な金細工の時計をはめて、ローライズパンツの裾から覗く素肌に角度のついたハイヒール、アシンメトリーに前髪を撥ね上げ襟足を刈り込んだ、そこはかとなくメンヘラを内包した男性的スタイルの女性、通称エイプリルは、形ばかりに申し訳なさそうな仕草を取ると、世の中の理を見透かしていると言わんばかりの斜めに構えた態度で小夜の神経を撫でつけた。
「早速だけど遅れた分、手早くやってもらうわよ」「うす、早速ですが手付金を頂けませんか?」
小夜がポケットから工業団地1オンスロジウム記念硬貨を取り出し、エイプリルの顔面がだらしなく緩む。
「必要な物は予め用意しておいたわ」「うす、殺虫剤って虫でも湧いたんですか?」
上下の籠一杯に殺虫剤の詰め込まれたショッピングカートを押してひび割れた街路を鳴らす。
「エイプリルさんにはこれから、一戦交えてもらいます」「うす、帰ってもいいですか?」
短く息を吐き前髪を跳ねた小夜がポケットに手を入れ記念硬貨をもう一枚手渡し、エイプリルの理性が目先の利益に負けてしまう。
「うへへ」「欲望に忠実でよろしい」「現物は裏切りませんので、うへへ♡」「煩悩に正直でよろしい」
そこら中に蜘蛛の巣が張り巡らされた手狭なワンルーム物件にカートを押し込み、安い壁紙を引っ掛け破く。一切家具の無い部屋の中心で小夜が振り返って頭上を顎で指し、見上げたエイプリルが天井の隅に蜘蛛の巣を広げ張り付いた、辛うじて修道服の趣を残す紅白の衣装を纏った痴女に見詰められていることに気付いて、小夜にホイホイついて来たことを後悔する。
「紹介するわエイプリル、彼女はシスターエル、デスパイダ夫人に見初められたらしくてね、もうすぐアラクネに成っちゃうの………フフン」
「あ~あ、これ夫人の花嫁衣裳かよ?………クソガキが、お前も大概だよな、こんなになるまでほっといて、さっさと脱ぎ方教えてやればいいのにさあ?」
正気を失いお手てヒラヒラ、お尻フリフリ、リズミカルに身体をくねらせ糸を紡ぎ、繭を編み込むシスターの痴情に嫌悪感を隠さないエイプリルが「痴女かよ………」とつぶやき、耳聡く反応したシスターの顔が苦痛に歪み身体が硬直する。
呼吸は疎か心音さえ響かぬほどに静寂を宿し臨戦態勢に入った二人を他所に、フルフェイスのガスマスクをきつく留め、密閉されていることを確認した小夜が軽く頷き一呼吸、持ち込んだ殺虫剤の散布を開始した。
「ウフフ………逃がしちゃダメだからね?殺しちゃダメだからね?怪我もさせちゃダメだからね???」
「まあ、お前が私なんかを頼る時点でロクな話じゃないと思ってたよ。成功報酬、はずんでもらうからな??」
燻蒸タイプのボタンをカチリと鳴らして床に投げ捨て、スプレータイプのトリガーにはダクトテープを巻いて固定する。次々に吹き上がる殺虫剤の霧が密閉された一室に充満して三人を包み込むと、シスターが怯むように、脅えるように身体を竦ませ、喉を痞えさせて嗚咽に悶え、蜘蛛の巣に縋りつつ天井から転がり落ちる。
「何故あなたを選んだか?男は論外、ドォロミはゾンビだし、ウルスラは………でしょう?心配しないで、消去法なのよ」
「ユーナがいるだろ?」
「………フフン、一番初めに候補から外したわよ」
「なんで?前はカンガルーの赤ちゃんみたいにベッタリだったじゃん?」
「いつの話よ………!」
エイプリルの不用意な発言は小夜の怒りを買い、殺意の籠った踵がワンルームの床に落とされ乾いた音が響いた。
「お~怖い。てかこれ私いる意味ある~?完封でしょ」
「これから暴れるのよ、身体を押さえつける役目、お願いね」
頭の後ろで手を組み余裕をかますエイプリル、対して穏やかではない表情を浮かべ鼻水を垂らし、唾液を吐いて涙を流すシスターは、怒りを露わに空気を吐き出し肺の中を空っぽにすると、硬質化したアラクネの花嫁衣裳を捲り上げ、繊細な刺繍彩るスカートの奥から八脚の毒牙をがむしゃらに振るった。
「ひえっ………!」
エイプリルが反射的に突き出した両腕を切り裂き、鋸と肉切り包丁の合わさった蜘蛛の鉤爪が腹を刳り貫き、顎を捥ぎ取り、脚を削ぎ落す。
「ほら、前に双子ちゃんがやられたでしょう?私は特に絡みなかったけど、今みたいに虫下ししたら暴れ出して逃げ出して、次に会った時にはデスパイダ夫人の両脇に陣取る真っ赤な二体の異形になってたわ」
「あぁ~待ってまって!ジャケットが破けちゃったじゃね~か!パンツも!!ネックレスも!!!」
エイプリルが両脇に抱え込んだ蜘蛛の脚が勢いよく引き戻され、ロンググローブが腕の肉ごとズタズタに引き裂かれる
「何言ってるの?もう一枚あげるから、お腹括りなさいよ!」
「あ、頑張れる気がしてきた」
振り下ろされる蜘蛛の脚を血染めの両腕で受け止め、ハイヒールが砕けて踵を切り裂き踝まで皮が爆ぜる。
「ああ!!ハイブランドのヒールが!!!っぱ無理だわコレ………」
「ほ~ら♡もってけ裏切り者ぉ~~」
小夜が投げて寄こした記念硬貨をノールックでキャッチしたエイプリルが、血塗れの歯で噛み締め判りもしないのに本物かどうか確かめる。片耳に掛けたマスクのように剥がされた顎の皮膚を引き千切り、傷の大きさに対して無いに等しい口元の出血をジャケットの襟元で拭い取る。
「これだけ貰えば、服の元は取れたかな?」
剥がされたロンググローブ下から鋼鉄の義手が、顎から鋼鉄の骨格が、下腹部は硬質繊維が埋め尽くし、抉れた太腿から鋼の義肢が現れる。漆黒の魔極光に輝く未知の合金外装、液化金属で満たされた超高圧駆動の人工筋肉、ただの水を燃料とする自然にやさしいエコエンジン、彼女に呼吸などもちろん必要無く、狂気の取材記者エイプリルは、痛いのは嫌なので予め全身機械化しておくほど本末転倒でガチな奴、工業団地の未来技術を惜しげも無く注ぎ込んだ一点物の全身義体は、人の骨格に収まらない可動域に振れの無い滑らかな駆動と、べらぼうな重機の出力を併せ持つ人間戦車と化していた。
シスターの知性の欠片も無いパターン化された打ち込みを受け潰し、再度抱え込んだエイプリルの腕が人外の駆動音を鳴らし、蜘蛛の脚が灌木の弾ける音を鳴らして拉げる。
「蜘蛛の脚は壊しても大丈夫だよな?」
「ええ、多分ね?」
学習無く振るわれる蜘蛛の脚など、ことエイプリルの目では無く、容赦無く打ち込まれる鉄拳の連打が狂い無く関節を砕き、一拍子で無力化した。
全ての脚を砕かれ、ついに息も持たなくなったシスターが部屋に充満する殺虫剤を吸い込み、額を床に擦り付けて嘔吐する。
「うわっ!!」「おおっと!出てる出てる!!」
ウジ虫、イモ虫、ミミズにロイコクロリディウムを多分に含んだシスターの吐瀉物にエイプリルも怯み、タックルをまともに受けるも、まるで動ぜず逆さに抱え込んでパワーボムからの上腹部圧迫法で体内の虫を吐き出させる。
「フフン、すごい、いっぱい出たわねぇえ?」
身体を引き攣らせ床を這いずるシスターの身体から、デスパイダ夫人の花嫁衣装が風化するかのように擦り切れて糸を解し、宙に溶けてキラキラと光り埃となって消え始める。
「おお!効いてる効いてる。とりあえず、こんなもんでしょう」
「そうね、ダメ押しでコレも吸わせときましょう」
そう言って小夜が蚊取り線香とライターを取り出し、一目見たエイプリルが軽く頷いた後、即刻二度見して喚いたのも時既に遅く、着火されたライターの火が部屋に充満する殺虫剤に引火、仲良く三人まとめて吹っ飛んだ。




