第006号室 焼死体
一歩一歩と進むごとにガスの粘度は濃く、より冷たくなって行く。ガスの比重が空気より重いため、ボンベ代りのゴミ袋が風船のように浮き上がり、天井から垂れ下がった吊り電球にぶつかって揺らし煤を落とす。
低所得者層向け木造ワンルームの物件が、中廊下を挟んで向かい合うように並んでいたが、火事によるものか階層全体が焼け落ち、部屋と部屋の仕切りが無くなり一つの大きな空間になっていた。
奥に進むほど酷くなる火事の痕跡、原型のなくなった雑貨が足下に散らばり、砕けた陶器や溶けたガラス、積み重なった電化製品の外装がケロイド状に爛れて溶け落ち、その影が何処となく苦悶に満ちた人間の顔を想わせた。
炭と化した柱や崩れた天井、光の届かない薄暗い空間、足元に目を凝らし大きな瓦礫と障害物を避け、壁と共に焼けて倒れたドアの上に乗る。2歩目を踏み出した時、下敷きになっていたドアノブがズレ動き、バランスを崩して尻餅を付く、ボンベ代わりのゴミ袋は意地でも離さない。破れていないか確認して立ち上がり、また歩き出したところで、焼けた柱から飛び出した釘に引っ掛け予備のゴミ袋が破ける。
「あら?」
比重の異なるガスと空気が混ざり合って光を屈折させ、暗闇に揺らめく陽炎を創り出す。ライフが半分になってしまったわと先を急ぐと、また、釘に引っ掛けて使用中のゴミ袋も破いた。
「あらら⤵︎」
ダッシュ!である。今更戻れる距離でもないので、息の続く間にこの階層を渡り切ろうと走り出す。
多少の障害物は飛び越える。木組みの丸い座卓を踏み台にするが、勢いよく踏み抜いて一回転、ランドセル受け身、がはっ!と空気を肺から全て吐き出す。
床に雪のように積もった灰を掻き分け立ち上がる。消毒液を鼻に流し込まれたような刺激に、咽返りそうになるのを真っ黒になった両掌でマスクごと抑え込みまた走る。
一室を突き破り爆発炎上して骨組みだけになった軽自動車のヘッドライトが輝き、漂う煤や塵と共に小夜を照らして対面の床に大きな影を映し出す。ガサガサに炭化し痩せ細った焼死体が関節を軋ませ追いすがる。
何処から湧いて来たの?さっきまでこんなの居なかったでしょ?ピンチになったとたんコレよ!心の中で悪態を付き、廊下を塞ぎ正面から這いずり迫る焼死体に靴を舐めさせる。松の木の皮のように炭化した皮膚が刮げ取られて宙を舞い、ピンク色にローストされた皮下組織の表面をつま先が滑る。
どうにか反対側の階段に辿り着き無い息を更に吐き出す。ますます粘度を増すガスを掻き分け絶え絶えで階段を降る。階段の中程から身を乗り出し下の段へ頭から落ちる。最早液体と同等の密度をもったガスに包まれゆっくりと下降する。もう一度手摺から飛び降り、重力の裏返った階段の裏側へ回り込む。
ランドセルを逆さまにして胸に抱き、今度シスターのお姉さん?と一緒に使おうと思っていた炭酸入浴剤の梱包を震える手で破き、逆さまのランドセルに突っ込む。我慢できずに息を吸い込もうとするが、液体がマスクのカートリッジに詰まり、数滴のガソリンが口腔内に吹き付けられただけでだった。
炭酸入浴剤がブクブクと発泡し、二酸化炭素で逆さまになったランドセルを満たしていく。小夜の意識は朦朧とし、すでに指一つまともに動かせない状態であったが、二酸化炭素により浮力を得たランドセルによって引き上げられ、階段へ並々と注がれたガソリンの液面から顔を出した。
マスクを剥ぎ取り荒く呼吸をする。鼻を突き刺す気化したガソリンの臭いは、吹きすさぶ風のお陰か死ぬほどの濃度では無かったが、それでも肋骨が軋むほど咳き込んだ。
階段とガソリンの岸辺で息を整え、ランドセルからラップに包まれた、たまごサンドウィッチを取り出し齧り付く。ねっとりと舌に纏わり付きチクチクするガソリンを、パンで吸着して吐き出す。SM女王様の母から習ったご褒美を応用し、えげつない距離を飛ばして肺を酷使したのでまた咽る。
普段から濡れてもいいように、スクール水着を制服の下に着こんでいる為、ガソリンを吸って危険物と化した制服を脱ぎ捨て、革靴からガソリンを流す。
息も落ち着いてきたので壁に手を添え立ち上がる。全身が紅潮し眼球も血走っていたが構うことはない。前にウィスキーボンボンを、ただのチョコレートと思って食べてしまった時に似た、内側から脳みそを圧迫されるような頭痛に悩まされながら、中廊下を千鳥足でゆっくりと進み出す。
ガソリン階段から十分離れると、ランドセルからポケットサイズの釣り竿を取り出して糸を外し、ガソリンに濡れた給食袋を先端に巻き付け伸ばす。コンタクトレンズケースから爆竹を取り出し床に置くと、釣り竿でしばき安全に着火、小規模に爆発して心臓が止まるかと思う。
燃える給食袋を天井のスプリンクラーに押し付けて作動させ、乾いた配管をボコボコと液体の流れる音が聞こえたかと思うと、直ぐに腐った血液のように赤錆びた水が頭上から降り注ぎだした。ガソリンよりはましねと身体を洗いながら、これでもし、硫酸が降ってきたらどうするつもりだったのかしら?と気付いて身震いした。




