第034号室 ダム 牧場
年齢を感じさせない足取りでダムの外壁に近づいて来た教授は、そのダムのあまりにもお粗末な出来栄えに乾いた笑い声をもらした。
「大きさに圧倒されて遠目には分からなかったけれど、いや酷い。ガタガタでヒビ割れだらけ、色の変わっている所は材料から違う物を使ってそうだな、老朽化も進んでいるし遠からず決壊してしまうだろうね。」
乾燥した海藻とウニやヒトデの死骸がへばり付き、風化して角の丸くなった手摺りのない階段を滑らないよう気を付けて登り、ダムとしては全く不必要な用途不明の通行口をくぐりダムの内側へ入る。
じっとりと生温かく湿気に満ちた風が、呼吸するかのように規則的な音を立てゆっくりと吹き抜ける。磯独特のプラクトンの腐った悪臭が立ち込め鼻を歪ませる。石材やコンクリート等で囲まれた屋内でありながら、本当に何処からともなく木漏れ日が差し込み、お陰で照明器具を用いる事なく探索する事が出来たが、人工の光でも自然の光でも無い不自然な光の照明は、時折り影を差し、何かが奥で光源の前を横切ったらしい事を伝えて来た。
足を進めるうち教授の知的好奇心も落ち着きを取り戻し、団地への恐怖が蘇り始め、自身の軽率な単独行動に後悔の念が溢れて踵を返す。既に夕暮れだったはず、夜になる前に外に出て、みんなと合流しておくべきだろうと来た道を戻り、戻ろうとし、戻れなくなっている事に気付き、その場で一回転、天井を見上げてため息をつく。
「しまった。迷ってしまった。一度も分かれ道を通った覚えは無いのだが………改めて見れば、ここ割りと入り組んでるんじゃないか?………おや?」
壁の亀裂から染み出した水で出来た水溜りの中に、ブーメランのような頭にサンショウウオの身体を繋げたような見た目の生物を見つけ、教授のテンションがV字回復する。
「これは!石炭紀後期からペルム紀に生息していたとされる、空椎亜綱ネクトリド目に属する両生類!ディプロカウルス!!!………?」
残像を残し一足飛びで飛びかかり獲物を捕獲する教授、すぐ違和感に気付く。
「!?………の!おもちゃじゃないかぁああ!!!」
勢いに任せて床に叩き付けるとディプロカウルスのゴム人形は、ぴゅうっと情けない音を立て、教授に塗装のケチられて白いままのお腹を向けて転がった。
「ん〜〜しかし、良い出来だね、特徴をしっかりと、とらえている。………やっぱり、拾っておこうかな?」
一度は教授の怒りを買い投げ捨てられたディプロカウルスだったが、手持ち無沙汰に丁度いいと腹を押される度ぴゅう、ぴゅ〜と鳴く賑やかしとして同行を許された。
壁の配色や亀裂と同化し気付き難かった分かれ道も、次第に目が慣れ見分けがつくようになり、右へ曲がった次の分かれ道は左へ、左へ曲がったその次の分岐は右へと繰り返し、見つけた階段は全て登る。
「こんな迷路じみた場所を歩く時は、ダンゴムシになったつもりで交替性転向反応を実践して、ジグザグに進んで行けば外に出られるはず………」
最短距離では無いながらも時間を掛けつつ確実に歩を進め、教授は比較的最近、作られたであろう階層へたどり着くと、先程までとは比べ物にならない悪臭に目を瞬たかせた。恐る恐る物陰からディプロカウルスの頭を覗かせ、その上から教授も頭を出し、あまりにも異様な光景を観て言葉を失う。
天井をくり抜かれ広く取られた歪な空間には、豚や牛、馬に羊、大型犬といった比較的大きな動物が無秩序に囲われ、その動物達一頭、一頭の全てには、口と鼻、耳や目、局部に至るまでの穴という穴に、粘度の高い半液体を纏わせテラテラと嫌らしくギラつく、人の腕ほどの縄状に寄り集まった触手の集合体が深々と穿たれていた。
半数以上の動物達の腹部は床に着いてしまうほど膨れ上がっており、中には皮膚が床との摩擦で擦り剥け苺のジャムと練乳を塗りたくったようなケロイド状になってしまった物や、縞模様に皮膚が張り裂け桃色の真皮層が痛々しく剥き出しになった物がひしめき合い、時折り跳ねるように身体を震わせると、それに合わせて触手がのたうち僅かに開いた口の隙間から、耳を塞ぎたくなるほどに嫌らしい咆哮が途切れ途切れに響き反響した。
「いや、酷い!………牧場のつもりか?これは?一体………何をやってるんだ!?」
暫く呆然とその場に立ち尽くし意味のない思考を繰り返していた教授だったが、口の塞がれた動物達が一斉に狂ったように喘ぎ出し、地獄の様相で足を踏み鳴らすさまを見て、動物達が畏怖する牧場主の到来を悟り、我に帰っての上階からベランダのように迫り出した物陰に身を潜めると同時に息を殺し様子を伺う。
何処か人間の足音にも似た、生肉にたっぷりとローションを絡めて床に押し付けるような音が、教授の耳にも聞こえ出す。粘液の糸を引いて弾ける音と共に、隠れていた教授の肩に半透明の粘液が滴り落ちる。叫び声を上げてしまいそうな本能を押さえ込み、両手で口を塞ぎ、目玉をひん剥いて頭上の隙間から上階の様子を伺うと、触手を筋骨隆々のボディビルダーのシルエットに編み上げ、頭に巨大なタコを被せた風貌の異形が、子供に似せて束ねたような触手を従え、教授の丁度真上で手摺りにもたれ掛かるところであった。
全く身動きの取れなくなった教授は、ここが彼等の牧場である事、牧場主から家畜への扱いに慈悲は無い事、家畜舎の隅に蹴りやられ、踏み砕かれた新鮮な白骨の中に人骨があり、家畜の中には人間も含まれている事、そして、はじめにこの場所へ足を踏み入れた時、この場から即刻立ち去らなければならなかった事をようやく理解した。




