第030号室 蜘蛛未亡人
真っ赤に焼けた火箸を背中に押し当てられたかのような、耐え難い痛みによってシスターは覚醒した。
全身の筋肉が限界を超えて萎縮し、筋繊維の千切れる音と毛細血管の弾ける音が聞こえる程に聴覚は鋭敏に、両目は充血し血涙を流す。絹肌は鮮血が透けたような深紅に染まり、躰の底から沸き立つ程の灼熱が音を立てて血管を駆け巡り鼻腔から歯茎から薄い粘膜を突き破って噴火する。
身体を隈なく焼き尽くす炎獄の責め苦に気を失い、落ちたそばから打ち寄せる氷獄の激痛に呼び起こされ声にならない悲鳴を上げる。
(ここは!?なぜ私は!?何が!!?痛い!!熱い!!!背中が焼ける!?腕が!届かない!動かない!!体が鉛のよう?そうだ、毒だ!あいつに撃たれた!!逃げなくては!!!クモは!?クモの親子はどうした!!?)
走馬灯のように駆け巡る思考に突き動かされ、肺を酷使し吐息のような渾身の絶叫を上げて全身を鼓舞する。
歯を喰い縛って脚を踏ん張り拳を握る。聖職者に到底相応しくない奇声を上げて身を捩る。端々の些細な動作にさえ逐一、気合を入れなければ指一本動かせない。
正常とは程遠い状態のシスターがすでに脱出を完了し、自分の身体がこの世のどんな絹よりも美しい輝きを放つ、生糸に吊るされていることに気付くまではこの後、多く長い時間を要した。
―――
シスターは朦朧とする意識の中、自分の置かれた状況を正しく理解していき、ここが広い屋内である事、今のところ危険な場所では無い事、何者かに怪我の手当てをされている事、糸に拘束され身動きが取れ無い事、拘束された状態が最も身体に負担が掛からない事、そして拘束を解けたとしても、今吊るされている位置は非常に高く、落下すれば無事では済まないことを認識した。
仰向けに吊るされたシスターの身体に巻き付いた生糸は、生体工学に基づきながらも壮麗、緻密に織り上げられ、飾り立てるように肉を縛って荷重を分散させ、特に酷い側頭部と背中、左脚の損傷には一片の負担も掛からないようにされていた。
疼く痛みに心と身体が慣れていき落ち着きを取り戻したシスターは、首の回る範囲で辺りの様子を窺うと、自身が裸で肌に生糸を直接巻き付けられている事に気付き、ただでさえ熱いのに顔から火を噴き上げ真っ赤に紅潮する。
「………ぃゃぁぁぁ~」
小さな悲鳴上げて瞳を潤ませ、生糸を引き千切り、無理やり身体を引き起こして下腹部に手をやる。数々の淫魔を封じ屠ってきた十字架を鋳つぶし、聖火によって鍛えられ、歴代最強と謳われる教皇直々の祝福を受けた純銀製の貞操帯が、機能を失っていない事を確かめ安堵したのもつかの間、無理に動いた為シスターの重量を支え切れなくなった生糸が甲高い悲鳴を上げて千切れ飛び、右脚に巻かれた生糸を支点に振り子のように落下した。
「はっ………!」
シスターはエアリアルシルク(※サーカスやエクササイズで見られる天井から吊り下げた長い布を用いた曲芸)の心得があったので、生糸の束に素早く足を絡めて速度を落とすと、身体を入れ替え基本のスタンディングポジションを取り床へ落下し切る前に停止する。
寄り集まった生糸に掴まり、自然に回転するのに合わせて辺りを見渡してみる。透き通った薄く繊細なレースのカーテンが、凪いだ空気を可視化するかのように、空間を埋め尽くし遠くがまるで見通せない。煙のようにそよぐレースのカーテンは、吹けばほどけるかのように揺らめいて、木漏れ日をシスターに注いだ。
身体に絡み付いた生糸を爪でほぐし、少しずつ千切り床へと降りたが、脚に力が入らずその場にへたり込んむ。
竜に抉られた左脚の傷口が開いて、ドス黒く粘度の濃い血液が滴り落ち、血生臭い空気が一帯に立ち込める。肩で息をするたび背中が引きつり鈍痛が襲う。手を背中に回し傷を確かめる。人の肌とは思えないほど熱く熱を帯び、放射状に腫れ上がった皮膚をなぞると、刺すような痛みが駆け巡り思わず身体が硬直する。
傷口に触れた指先を見れば、琥珀色のハチミツのような体液と、練乳に似た粘り気を持った膿に、イチゴのシロップ宜しく血が混ざり、病的なまでに蒼白く生気の抜けた指を汚していた。
「うん………?」
絵も言われぬ胸騒ぎを覚えて手のひらを返し、爪と指の境に纏わり付いた膿の塊が、小さく胎動を繰り返すことの意味を理解し、気をやりそうになる。
「蛆が沸いてるぅううう………」
今すぐ振り払いたくなる衝動を抑え込み、何かの拍子に押し潰してしまわないように気を付けて床へ逃してやる。ふと何処からともなく投げかけられる視線を感じ頭を起こす。
『………フフフ』
気付かれたのならしょうがないとでも言うかのように不気味な含み笑いが微かに聴こえ、幾重にも続く透かしの入ったカーテンが風もなく左右に分かれると、四つ目のドミノマスクをかけ、深紅と漆黒のレースで背徳的に仕立てられたドレスを纏った貴婦人が、いぶし銀の骨組みにクリスタルをはめ込んだ玉座に腰掛けたままシスターを見詰め、何やら思案するように自身の顎先を擦っていた。
両脇に従えた従者は薄く透けるレースの面紗で素顔を隠し、鮮血色の蝋で固められた甲冑のようなドレスとも、ドレスのような甲冑ともとれる衣服で身体を覆い、その身の丈を超える長鎚矛を二本の片腕で支え、微笑む主人とは相反して冷ややかに寡黙を貫く。
並み人間と比べ二回りは大きな体躯、さらに骨格の節々に形容しがたい違和感が衣服の上からでも見て取れ、何より奇形の類とは到底思えないほど洗練された6本の腕が、夫人と二人の従者が人外の異形であることを物語っていた。
「………」『………』「………………」『………………』「………………………」『………………………』
「………あ『お』はぁあああ!!!!!???」『………む?』
沈黙に耐えかねたシスターが声を上げるのと同時に、夫人の言葉が被り互いに沈黙、再び静寂が訪れる。
「………………………………ど~~も初めまして、ガブリエル・バンデラスと申しますぅ~~~………
話し出すタイミングを完璧に計算し尽くし大袈裟な身振り手振りで、今から喋ることを最大限相手に伝わるように努力したシスターが自己紹介をすると、異形の夫人は舐め回すようにシスターを見詰め込み物珍しそうに身を乗り出した。
………本日はおひ『私はデスパイダ』はぁあああ!!!!!???」
シスターの金切り声を疎むように顔を顰め背けた夫人が、手の平を突き出し黙らせると錆びたナイフを取り出し、その刃先を指で撫でる。
『ダゴンの牙も鈍らでした。貴女の帷子を貫けずに薄皮一枚削いだだけで止まったようです。おかげで貰った毒の量が少なかったのでしょう。………しかしまだ、完全に傷が癒え毒が抜けた訳ではないのです。そう大きな声を上げていては、傷口が開いてしまいますわよ?』
そう言うと夫人が従者に合図を出し、従者は長鎚矛の柄を床へ軽く打ち付け、響いた音を合図に家猫程度の大きさをした蜘蛛が大きなお腹を揺らしながら集まってきた。
『貴女はダゴンの横暴から身を挺してこの子等を救ったそうですね?』
「いえ………あの時は、思わず体が………」
『変わった人の子もいたものです。貴女のような変態を知らない訳では無いですが、そういう者は大抵………まあ………貴女も何やら内に秘めたモノでもあるのでしょう?』
薄ら笑い好奇の眼差しを隠さない相手に、嫌な事を言う異形だと思いながらもシスターは、今、相手の機嫌を損なわせては敵わないと苦笑いで返し、無邪気に懐く大きすぎる子蜘蛛の頭を触らないように手を浮かして撫で、ふと親蜘蛛はどうなったのだろうと思い出した。
「あの………この子たちの親は………?」
『ええ、あの子は私の娘なのですが臓腑を全て失っていたのでもう助かりません。ああなっては飲食を取っても消化出来ないので、あと百年いや二百年、ん~や、もって五百年といったところでしょうか』
人間と寿命の規模に差があり過ぎてどう思えばいいのか迷うシスターの前へ、よく磨かれ光輝く銀食器に飾り付けられた、緑の原色鮮やかなバッタと蝶々のサラダ、丸々と肥え太った芋虫のステーキとタガメのソテー、ボウフラが浮かぶホタルの出汁で玉虫色に発光するスープ、黄味がかり白濁した粘り気のある液体で満たされた二つの杯………等々、おおよそ人の美的感性からかけ離れた品々が、子蜘蛛達によって並べられていく。直後の展開が容易に予想出来た為、シスターの脳はそれをどう回避しようかと高速回転を始め、それ以外の生命活動を停止した。
『お腹が空いているでしょう?シェフが腕によりをかけ、人の味覚に合わせて造ったフルコースです。遠慮は要りません、平らげてどうぞ』
束の間の思考時間が終了、予測可能、回避不可能、思い通りの展開に何ら対策を講じる事の出来なかったシスターが俯き何とか言葉を絞り出す。
「いえそんな!こんなごちそう、とてもとても!いただけませんわぁ………」
『ダゴンの毒で貴女の内臓は、貴女が思う以上に衰弱しているでしょう。もし、まだ生きて成すべきことがあるのなら、まずは体力を取り戻さなくてはなりません。………さあ、平らげなさい』
機嫌を損ねたか夫人が背もたれに身体を押し付けるように反らし、肘掛けを掴む手に圧力が掛かり、装飾のクリスタルが短く音を立ててひび割れる。シスターは小さく悲鳴を上げると、考えるより先に身体が昆虫食のフルコースから、唯一虫の姿が見えない杯を掴んでいた。
震える腕と連動して杯の中の白く半液体状の物体が揺れ、ほんのりと酸味が香る。従者の面紗の奥から遠慮のない舌なめずりが聞こえ、夫人が嗜めるように人差し指で肘掛けを数回叩き脚を組み替える。見た目は、ほとんどヨーグルトに思えたのでシスターは覚悟を決めると、薄い目をさらに細めて杯に口をつけゆっくりと傾け、上唇に生温かい半液体が微かに付着すると同時に口を離し、舌先でほんの少しだけ舐め取り味を確かめた。
口をへの字に曲げて忙しく唇を動かす。強い酸味とミルクのような風味、乳白色でいて半液体状の食べ物をシスターは、ヨーグルトしか思い当たらなかったのでこれをヨーグルトと断定すると、今度は口に軽く含む程度に流し込んだ。
『美味しいでしょう?私もそれだけは飲んでもらおうと思っていたのです』
夫人が一言話す内に飲み干したシスターが声を弾ませる。
「こんなにおいしいヨーグルト初めて食べました!一体どこのブランド何ですか!?」
『私、よーぐると、なんてモノ存じませんわ。これは従者達の体内より精製せしめし、生命の根源たる真珠の雫です』
「………体内より精製せしめし、生命の根源たる………?ミルク、ミルクでしょう??………………えっ!!!?」
別の可能性が頭を過ったシスターは、混乱の眼差しで夫人を仰ぎ見る。
『いや、そんなモノは知らん。人の子は、何と呼んでいたかしら………?』
シスターの瞳に恐怖の色が浮かび、絶望に唇が震える。手で動揺を抑え込むように顔を押さえ喉へ首筋、胸から胃のある辺りへと撫でていく。
『セイ、違う、ほら、すぺ、スぺ…ザーめっ?………ん!ろーやるぜりー!』
「ローヤルゼリー!!!」
喉のつっかえが取れたかのように夫人が膝を叩き、予想を大きく外したシスターが安堵しガッツポーズ!
『ちなみにその隣の杯は蜂の精嚢』
シスターはセイノウが何を指しているのか、夫人の一言だけでは正確に理解できていなかったが、次こそは予想通りだろうという確信と、ローヤルゼリーと全く見分けのつかないビジュアルに、取り違えていたかもしれないという、もしもの可能性に冷や汗を流し震えた。
「ローヤルゼリーだけで結構です………」
一連のやり取りで極度に張り詰めた緊張が、風船を針で突かれたかのようにはじけ飛んだシスターは、集中を切らすとゆっくり硬く冷たい床へ沈んでいき、身体を横たえると抗い難い睡魔に誘われ再び眠りについた。
『………眠ったか』
夫人が床に伏せるシスターにとも、今にも長鎚矛を振り下ろさんとする従者にとも、はたまた自分自身に語り掛けるとでも言うように言葉を呟く。
『貴女は私の娘の子等を助けました。然らば私も人の子である貴女を助けましょう。今は傷を癒す、それだけでよいのです。………しかし、我らと貴方達とは相容れぬが運命、努々お忘れなきよう………』
唯一にして至高の麗しき蟲の母、森羅万象に蔓延る蟲毒の女王、曖昧模糊たる団地の未亡人、賢帝夫人のデスパイダは、もし彼女が同じ種族であったなら、気の置けない友人になれただろうかと思いを巡らせ四つの複眼を細めた。




