第017号室 八目溜り
スタンダードなセーラー服に真っ赤なランドセル背負って、揃いの真っ赤な長靴履いて、撥ねるヘドロも気にせず走り抜く。ペース配分を全く考えない死に物狂いの全力疾走、呼吸も疎かに可能な限り加速する。遥か後方から野獣じみた怒号が響き、反響して地下廊下を震わせ、地鳴りのような足音が近づく。手を伸ばせば触れて仕舞えそうな暗闇を引き裂いて、小夜の背後からボブが現れると、有無を言わせず乱暴に抱き上げ、さらに速度を上げて爆走する。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、っと、ととと………!!」
狭く薄暗い通路を疾風のごとく駆け抜ける世界最高峰の肉体を持った軍人の小脇に抱えられ、台風の只中に干されるボロ雑巾のように振動する小夜。ピントの定まらない視線で後ろを覗き込み、真夜中に星明りを反射する水面に似た輝きが徐々に迫り来るのを見て焦る。
「ボブ~~!!来てる!追いつかれる!もっと速~~~っく!!う゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
ワールドクラスのアスリートを軽く凌駕するボブの引き締まったお尻を、狂ったように平手打つ小夜、『人の男は家畜と同じ、いい乗り手が跨りムチ打たなければ、ただの無能』そう言っていた母親の言葉を思い出し忠実に遂行する。
「ワォオ!!俺のケツに何かぶつかってやがる!!」
小夜の身体が小枝のように宙を舞い反転、ボブの背中から内巻くチョモランマ越えの僧帽筋に足を載せ、無添加ボンレス大胸筋にお腹を貼り付け、予約必須半年待ちの窯焼き食パン6Packの腹筋に顔を埋める。走る速さに比例して粘度を増す空気抵抗によって、ぴったり引っ付いて全く身動きの取れない小夜、鼻がボブの上着と擦れて真っ赤になる。
「熱っつ………!」
腕を交互に振り廻し推進力を捻り出す。杭打ち機の如く打ち下ろされる剛脚が、多少の障害を粉砕して道を開く。それでも体表を高粘度の粘液に覆われ、群れ成し、蛇のようにのたうち、堰を切って流れる側溝の汚水を思わせるヤツメウナギの大軍は、僅かに流れるヘドロを糧に吸盤のような口に生え揃った牙を剝き出し、着実に追いせまってくる。
「クッソ!こんな事になるんなら、ネット動画の真似事なんてするんじゃ無かった!!」
―――
それは、ほんの少し前、矢印の描かれた壁と母娘の骨塚の傍で休憩を取っていた時の事である。
「んっ………!!不っ味い、なによこれ!?」
常温のペットボトルから炭酸弾ける黒色の液体を、コーラと信じて疑わず口に含んだ小夜が霧状に吹き出し散布した。
「どれ?………うっ!!不味い!コーヒーだこれ」
どうせ、ドクペだろうと察して憚らなかったボブが、小夜からペットボトルを受け取り一口含むと即刻、弾丸のように吐き捨てる。二人で一緒に舌が金魚にでもなったかのようにピチピチ動かし、鯉になって口をパクパク開けたり閉じたり。
「炭酸とコーヒー?頭、おかしんじゃないの?」
「ああ、もし拷問でこれを飲まされたら、俺は迷わず国を売るね!」
舌を出したままペットボトルを振り上げ、床のちょうどボトルの口が挟まりそうなひび割れに突き立てる。ボコボコと音を立て、ひび割れに吸い込まれていくコカ・コーヒーを見詰めながら、ポケットに手を突っ込みタブレットケースをボブが取り出した。
「前にネットで見たんだけどな?亜熱帯では川辺の穴に炭酸と錠菓子、突っ込んで魚をいぶり出すの漁があるんだって」
ボブはそう言うと、数粒の錠菓子をコカ・コーヒーの注がれた穴へ落とし込んだ。
「フフン、こんな所に魚なんているの?」
水分子の強烈に引き付け合う力によって網目状に囲まれ、目に見えないほど細かく溶け込んだ二酸化炭素の混合液に錠菓子が接触する。
「動画ではナマズが出て来てたな。ナマズの中には乾季の間、また雨季になるまで地面に潜って、やり過ごすような根性ある奴も居るみたいだから、案外いるんじゃないか?」
瞬時に溶けだした錠菓子の成分が、界面活性剤の役割を果たし、表面張力を崩壊させ、その極細かな凹凸を持つ表面を、泡を生み出す最適の環境として提供しながら、ひび割れの深淵へと降っていく。
「ふぅん⤴︎じゃあ、もし捕れたら、今夜はナマズの蒲焼きにしましょう」
突発的に発生した二酸化炭素の泡沫が、床のひび割れいっぱいに広がり圧力を高めていく。
「確かテリヤキソースがあったはずよ」
「イイネ!」
ひび割れの奥底、寝床をコカ・コーヒーの泡沫に浸食され、飢えに狂った毒蛇のようなヤツメウナギが長い休眠状態から目覚める。
「「わっはっは!!」」
呑気に笑う二人の首筋目掛け、ヤツメウナギが円環状の鋸歯を突き立てようと、数匹纏まってひび割れから飛び掛かったが、ボブの制空権侵害すること叶わず、ヌメリも物ともされず全て掴み取られると、遠心力で一本の真っ直ぐな棒になったかのように打ち振るわれ、哀れボブの手の内にその内臓だけを残して明後日の方向へ飛んで行った。
「なんだこれ?ウナギか!?」
次々に飛び出してくるヤツメウナギを片手間に払うボブ、延々と続く群れをシバキ倒す。徒然に連なるヤツメ、ヤツメ、ヤツメウナギの本流!ボブが今夜は蒲焼どころじゃないな、お祭りだな、と気付いた時には、床のひび割れは大きく広がり、地震のような揺れと地鳴りと共にヤツメウナギを噴き出す間欠泉と化していた。
「さすがにこれは敵わん!小夜、走るぞ!!………おや?」
そう言って傍らにいるはずの少女に向き直ったボブが見た物は、アスリート顔負けのガチ走りで遠ざかって行く小夜の背中が、地下道の暗闇に溶けて行くところだった。




