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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

弱肉

 ふいに、脇腹をえぐり取られる様な痛みを感じ、身をよじった。けれど、手足に食い込む綿ロープが、その動きを阻んでいた。

 頭を上げると、テーブルの上で(はりつけ)にされている自分の肢体が目に入った。裸の状態で仰向けにされ、両手首と両足首のそれぞれをテーブルの四本の足に縛りつけられている自分の姿が、そこにあった。

 彼女は裸にエプロンを着けただけの格好で、俺の左脇腹あたりを噛んでいた。何度も何度も噛み続けていた。強く弱く強く。深く浅く深く。上下上下左右左右。リズミカルに。時にランダムに。彼女の歯が俺の皮膚の上を這いまわっていた。

 叫ぼうとしたけれど、口の中を圧迫する拘束具のプラスチックのボールに阻まれ、くぐもった唸り声を発する事しか出来なかった。口の中に溜まった涎が溢れ、たらりと、頬から首筋へと垂れ、流れ落ちていった。

 ただ、自分の体が痛めつけられる様を見つめていた。今の自分には、そうする事しか出来なかった。

 非日常的な光景の中、ぼんやりと霞がかった頭の中で、何故、こんな状況になっているのか、考えていた。

 頭部右側に鈍い痛みがあった。ああ、そうだ、さっきまで、俺は彼女に殺されかけていたのだ。そして、そのまま倒れて気を失ったのだ。

 そして、気がついたら、テーブルに縛り付けられていた。その経緯は把握できたけれど、この状況は理解し難いものだった。けれど、脇腹に走る痛感によって、この状況が現実である事を認識した。

 断続的な痛感によって、緩やかに覚醒しつつある意識の中、さっき見た夢の光景が、何故か、思い起こされた。



 長テーブルを前に十三人の人間が横一列に並んでいた。そして、その中央に自分がいた。

 テーブルの上には幾つかのパンが並び、それらと共に、赤ワインのボトルが何本か置かれていた。人々は口々に「カーニバルだ!カーニバルだ!」と叫びながら、酒とパンを貪っていた。

 そして、テーブルの中央、自分の席の前にだけ、メインディッシュらしきものが置かれていた。タンシチューだった。その、とろとろに煮込まれた舌の肉を見た瞬間、唾液で自分の舌がやわらかくふやけていくのを感じた。

 ナイフを入れると、その肉は抵抗なくスッと切れ、繊維に沿ってほぐれた。肉の繊維一本一本に濃厚なスープが絡み、滲み込んでいて、とろけそうだった。唾液を飲み込んだ。

 はやる気持ちを抑え、パンを千切り、タンシチューのスープに浸した。そして、そのパンを掲げながら立ち上がり、言った。

「これは私の肉である」

 その言葉を発した瞬間、自分の体は二十四本の腕によって、テーブルの上に押し倒され、抑え込まれていた。そして、十二の顎は自分の体の至る所を噛みつき始めた。

 ナイフやフォークが擦れる音。床に落ちる音。皿やグラスの割れる音。人々の怒号。それらが不協和音となって、テーブルの周囲を満たした。

 ふいに、脇腹をえぐり取られる様な痛みを感じ、その、あまりの激痛に息を呑んだ。

 叫び声を上げようとした。溢れ出ようとする何かを吐き出そうとした。けれど、口の中にねじ込まれたパンによって、その声は遮られた。

 刃物を刺される痛み。肉が削がれる痛み。切り分けられる痛み。噛みちぎられる痛み。炎に焼かれる様に体中を包む激痛。

 彼らのメインディッシュは俺だったのだ。彼らは俺の体を貪り食っていた。

 両腕と両脚のそれぞれを二つか三つの顎が齧っていた。他の顎は胸や腹や尻に齧りついていた。ふいに、一人の男がスプーンで右の眼球をえぐり取った。そして、卵の黄身をすする様に飲み込んだ。

 女が俺の頭部を抱え、頬の肉を齧り始めた。俺は一つになった目で、ただただ、自分の体が食べられる様を見ていた…。



 ふいに、頭部が落下する様な衝撃を感じ、目覚めた。意識を取り戻した。

 次の駅を告げるアナウンスが響いていた。快速電車の座席に腰かけている自分がそこにいた。

 眠っていた様だ。夢を見ていた様だ。突然、夢の世界から放り出され、ただ茫然としていた。

 電車は停まっていた。我に返った。その駅が乗り換えの駅だと気づき、急いで電車から降りた。目の前には次に乗る電車。駆け出す。乗り込む。席に座る。息を吸い込む。吐き出す。吸い込む。吐き出す。吸い込む。

 新鮮な空気が送り込まれた脳は、緩やかに覚醒し始めた。

 ふいに、さっきまで見ていた夢が断片的に脳内で再生された。なんとなく、その夢が何かを暗示しているのではないかと思った。

 奇妙な夢だった。見知らぬ人々に自分の体を食べられる夢だった。確か、食事する夢は、パワーやエネルギーを手に入れたいという欲求を暗示してた筈だ。逆に自分が食べられる夢は、大きな力に身を委ねたいという欲求を暗示してるのではないかと、なんとなく思った。

 いや、多分、違うだろう。夢に出てきたシチュエーションは、聖書の一場面である『最後の晩餐』を連想させた。

 これから俺は彼女と『最後の晩餐』をするのだ。だから、多分、無意識にその言葉から連想されるものを投影した、奇妙な夢を見てしまったのだろう、そう思った。

 そういえば、不気味な夢や怖い夢は、自らが恐れているもの、つまり、自らが抱えている問題やトラブルを暗示している。

 最後の晩餐か…。そう思うと、気が重くなってきた。今夜、俺は彼女と別れるのだ。きっと、何かしら、波乱や修羅場が待ち受けている筈だ。

 ゆっくりと電車は走り始めた。ふと、窓の外に目をやると、最初の晩餐をした居酒屋が目に入った。

 そういえば、もうすぐ、彼女と付き合い始めて一年になる。



 ハツミと出会ったのは去年の今頃で、悪友のタモツの紹介というか、タモツから彼女を押し付けられた、と言った方が正しいのかもしれない。

 遊びのつもりだったタモツは、真剣に交際を迫ってきていた彼女の存在が重荷になっていたらしく、とりあえず、誰か適当な男を彼女に宛がって、自分は逃げようとしていた様だ。

 その頃、俺はバンドでギタリストをしていた。バンドと言ってもプロではなく、金が稼げる訳でもなかったから、いつも貧窮していた。かと言って、定職に就いていた訳でもなかったから、ずっと、スポンサーとなる女性を見つけては、その人に生活費とかの面倒を見てもらうという、いわゆる『ヒモ』の様な生活をしていた。まあ、そのバンドがなくなった今でも、そんな生活が続いていたりするのだが。

 タモツはハツミを捨てようとしていた。ちょうど、前の彼女と別れたばかりだった俺は金づるが必要だった。利害が一致した二人は、その日、その居酒屋で呑んでいた。そして、そこに呼び出され、現れたのがハツミだった。

 ハツミはタモツの姿を見つけると、顔をほころばせながら、歩みを速め、俺達二人が座っている席の方に近づいてきた。

「あ、この子、俺の女友達のハツミ」

 自分の事を『女友達』と紹介するタモツの声に、彼女の表情が少し曇った。

「どーも、ヒカルです」

 俺は微笑みつつ、名乗った。

「どーも、ハツミです」

 彼女も少し微笑みながら、そう答えた。

 彼女の第一印象は『少し暑苦しい格好をした女』といった感じだった。

 まだまだ蒸し暑い日々が続いているというのに、彼女は少し厚手のデニムジャケットを身に着けていた。この場所に急いで来たのだろう、彼女の顔は少し汗ばんでいる様に見え、暑そうにしていたけれど、彼女は席に着いても、ジャケットを脱ごうとしなかった。なんとなく、彼女は何かしらのコンプレックスの様なものを隠しているのではないかと思った。

 そして、ふと、タモツから聞かされていた彼女の奇妙な『癖』の事を思い出し、なんとなく納得した。

 軽く酒を飲み、食事をしながら、三人で世間話をしていた。そして、小一時間が過ぎた頃、タモツの携帯電話が鳴った。

「ゴメン、ちょっと、急用が…」

 そう言うと、タモツはテーブルの上に千円札を何枚か置いた。

「これ、俺の分ね

 ごめんね、あとは二人でゆっくりしててよ」

 予定通りの言葉を残して、タモツはそそくさとその場を立ち去って行った。

 沈黙…。

「ぜったい、女のところに行ったね…」

 そう呟くと、彼女は再び曇った表情を浮かべると、グラスに三分の一ほど残っていたビールを一気に飲み干した。俺は彼女のグラスにビールを注ぎつつ、言った、

「なんか、アイツ、恋人出来たらしいよ、最近」

 一瞬、愕然とした表情を浮かべた彼女は、再びグラスの中のビールを一気に飲み干した。

 アルコールによって、滑りの良くなった彼女の口からは、タモツへの愚痴ばかりが吐き出された。

 それから、彼女は、早くに父親を亡くしたとか、充分な愛情を受けられずに育ったとか、母親の再婚相手との確執とか、そういった過去の話を語り出した。

 何故か、昔から、そういった話やトラウマに関する話を打ち明けられる事が多かった。どうやら、俺は、そういう話をし易いキャラクターらしい。タモツはそれを『包容力』と言っていたけど、多分、違うだろう。俺にとって、他人の心なんて、どうでもいい事だから。

「だからなのかなぁ…

 なんか、いつも、満たされてなくて、身のまわりにあるのものとか、自分の腕に、かみつくクセがあって…」

 彼女は自分の『癖』について語り始めた。

「本当は、そういう自分、きらいなんだ

 腕にある歯がたとか、キズあとを見るたび、自己嫌悪になるんだけど…

 ごめんね、なんか、こんな、しんきくさい話ばかりしちゃって…」

 再び、沈黙。

 彼女は目を伏せ、テーブルの下に潜り込ませた腕の辺りを見つめていた。隠している傷跡を袖越しに確認するかの様に。

 俺はビールを一口飲み、言った、

「辛気臭いとか思ってないし、別に、気にしなくていいよ

 でも、そんな風に、自分自身の事を悪く思わなくてもいいんじゃない?

 でも、そうやって、自分の体を傷つけたりする事で、自分の中にある『虚しさ』みたいなものを満たしたりするのって、人から見たら、悪い事なのかもしれないし、その行為自体、現実から逃げる事なのかもしれない

 でも、逃げ道とか、逃げる場所とかなくして、潰されちゃったりして、どうにかなっちゃうよりか、マシだと思うから、あんまり、自分の事を責めない方がいいと思うよ

 それに、極論かもしれないけど、その行為を無理にヤメる必要はないと思う

 後ろめたい気持ちのまま、無理にヤメようとしたら、余計に自分自身を抑圧して、逆に、その行為がエスカレートする可能性が高いと思うし」

 彼女は少し戸惑いながら、答えた、

「そうなのかなぁ…

 うん、でも、そうなのかもしれない…

 ありがとう、なんか、うれしい…

 今まで、そんな風に考えてくれて、言ってくれる人、いなかったから…」

 彼女は大きな瞳で、まっすぐ俺を見つめていた。見つめ返した。俺は話を続けた、

「でも、自分を噛んだりするのって、ストレスとか、外的な影響が要因なのかもしれないけれど、もしかしたら、自分自身を抑圧している事に由来してるかもしれないから、そういった自分自身を受け入れて、向き合っていく事も必要かもしれないよ」

 正直、そんな事は、どうでもよかった。その行為の根本が、外的なストレスによるものだろうが、欲求不満に由来するヒステリックな衝動だろうが、歪んだナルシシズムだろうが、表面化した幼児性だろうが。

 でも、一つだけ分かる事がある。彼女は寂しいのだ。彼女は心の中にある『空虚』を埋める為に、『噛む』という行為に依存している。

 だから、俺はその『空虚』を埋める事によって、彼女の心を手に入れようとしていた。俺は彼女を支配し、彼女は俺に依存する(そして、金づるになる)…それが俺のシナリオだった。

 再び、沈黙。

 彼女は少し考え込む様な表情をしながら、右手の人差し指で自分の髪の毛をくるくると巻き取っていた。まるで、自分の中にある漠然とした観念を絡め取って集め、確認しているかの様に。

「そっかぁ、無意識に抑圧しているかもしれない、か…

 そういえば、そういうところ、あるかもしれない…

 でも、すごいね、わたしの心の中、なんでも、わかってるみたい!」

 そう言うと彼女は、にっこりと笑った。俺の言葉を受け止め、彼女は段々と明るい表情を浮かべ始めていた。さっきまでの、ただ愚痴ばかり零していた時とは違って。

 そして、その瞳は俺だけをじっと見つめていた。射抜く様な視線でじっと見つめていた。彼女は俺の存在に惹かれ始めている…そう思いながら、再び、口を開いた、

「でも、『無意識』って、心の中の『意識していない部分』の事なんだけど、『意識しなくてもいい部分』でもあって、生きる為には『意識しない方がいい部分』だったりもするから、あんまり一人で深入りしない方がいいみたいだよ

 心の中の、そういった部分に執着しすぎると、戻れなくなるって言うし」

 彼女は俺の目を黙って見続けていた。そして、その視線を逸らさないまま、微笑みながら、俺に問いかけた、

「じゃあ、わたしといっしょに、わたしの心の中を探ってくれる?」

 単なる相談相手にでもなって、徐々に依存される様な関係になれたらいいとは思っていたけれど、正直、初対面で、こんなに上手くいくとは思っていなかった。心の中で、ほくそ笑みながら、答えた、

「もちろんだよ

 ハツミちゃんが自分自身と向き合って、癒されたり、成長する事によって、なんか、自分も成長できる気がするし」

「ありがとう

 今日、ヒカル君に出会えて、ホント、よかった」

 そう言いながら、ずっと、俺の目を見つめ続けていた。一瞬、身が竦む様な気がした。

「俺もハツミちゃんと会えて、よかったと思ってるよ

 まあ、とりあえず、タモツの事は、これでも食って、忘れようぜ

 浮気男なんて、ことこと煮込んで、食っちゃえばいいんだよ」

 俺はモツ煮込みの小鉢を差し出した。

「タモツ煮込み~、くだらなすぎる~

 でも、わたしは、こっちの方がいいな

 カルビ炒め?いや、ヒカルビ炒めかな?」

 彼女は笑いながら、そう答えた。

「くだらねぇ~」

 俺も笑った。

「ヒカル君に出会えて、ホント、よかった…」

 彼女は、もう一度、呟いた。


 その夜から、俺達は付き合い始めた。恋人の関係ではあったが、彼女には依存的な傾向が強く、その関係はカウンセラーと患者に近い様にも思えた。

 彼女の依存対象になるのは簡単な事だった。元々、彼女は自分の体を傷つける行為に依存していた。軽度の依存症の場合、その対象となるものや行為を止めさせなくとも、それらに対する後ろめたさや罪悪感を取り除く事によって、症状が緩和されたり、改善されたりする事があるらしい。

 後ろめたい気持ちを取り除く為には、依存するもの、もしくは、その一部か一側面を正当化する事が必要だ。けれど、それを自らの言葉で行えば、ただの言い訳になってしまう。だから、俺が彼女を正当化した。彼女の言い訳を代弁した。それはカウンセリングというより、ディベートの手法に近いものだったけれど。

 他者から否定されるのではなく、逆に肯定されるディベート。必ず勝利する出来レースの様なディベート。

 他者に代弁される事によって正当性を増す言い訳と、後ろめたさを正当化される共犯者意識の様な共感と安心感を与え続け、俺は彼女にとって、必要不可欠な存在になっていた。

 そして、俺は彼女を支配していた。心も体もお金も。

 そんな奇妙な関係も今日で終わる。終わらせる。



 電車は彼女の住む町に辿り着いた。無情にも電車のドアは開き、何かに背中を押される様に、俺は彼女の住むアパートへと向かった。

 駅を出ると、強い風が頬を叩いた。風が強くなり始めていた。明日あたり、台風が最接近するらしい。

 どんよりとした分厚い雲が圧し掛かる、湿気の増した重く薄暗い日暮れ前の空の下、ビニール傘でガードレールを叩きながら歩いていた。雨が降り出しそうだった。

 車道を空き缶が所在無さげに、右往左往していた。強風に弄ばれながらも、地面を這い回る事しか出来ないその物体が、なんだか哀れに思え、目を逸らし、通り過ぎた。

 背後から車が迫り来る音。金属のひしゃげる音。俺を追い越し、通り過ぎていく車。空き缶は彷徨う事を止め、ただの鉄クズになった様だ。

 振り返らず、歩みを速める。

 駅から歩いて10分ほどの距離にある彼女のアパートには、すぐに辿り着く事が出来た。けれど、しばらくの間、建物の中に入る事に躊躇した。とりあえず、煙草に火を着けた。深く一口吸い込んだその瞬間、大粒の雨が、俺の体や地面を叩き始めた。煙草を投げ捨てた。踏み潰した。ぐりぐりと。

 ぱらぱらと雨粒がアスファルトの上に無数の黒いシミを作り、雨音が徐々に強くなっていった。そして、灰色のアスファルトは黒一色に染め上げられた。地面で弾ける無数の雨の飛沫が、沸騰する湯の泡の様だった。俺は閉じた傘を手にしたまま、雨を避ける様に、彼女の部屋に向かって駆け出した。

 気持ちの整理をつける事が出来ないまま、俺は彼女の部屋のドアの前に立っていた。呼吸を整える。インターフォンを押す。

「あ、俺」

「はーい」

 少し明るめの彼女の声が応えた。いつものハツミの声だった。でも、きっと、彼女は怒っている。

 俺に新しい女が出来たから。

 数日前、別の女と良い雰囲気になっていたところ、訪ねて来たハツミと鉢合わせしてしまった。今までの彼女だったら、取り乱していただろう。これまでも何回か浮気がバレた事があり、その度に、彼女は感情を爆発させていた。

 依存心と独占欲の強い彼女の性格は良く知っているつもりだ。絶対に怒っている筈だ。けれど、今回、彼女は感情を表に出さなかった。だから、それが逆に怖かった。

 今回もいつもの様に、いや、いつも以上の修羅場が待っているのかもしれない。でも、大丈夫、それも今日で終わりだ。今日で彼女と別れるのだ。

 でも、どういう風に別れを切り出そうか。もしかすると、彼女は女の直感で、俺が別れを切り出す事に気づいているのかもしれない。すんなり別れを受け入れるつもりだから、平静でいるのか。

 いや、平静を装っているだけだ。きっと、また波乱が待ち受けている筈だ。

 憂鬱。

 けれど、目の前には、明るい表情の彼女。エプロン姿で迎えてくれた彼女は、普段よりも落ち着いている様に見えた。

 嵐の前の静けさか…そう思うと、さらに憂鬱になってきた。

 部屋に上がると、冷蔵庫から取り出した缶ビールを俺に手渡し、微笑みながら、彼女は言った、

「料理なんて、めったにしないから、なんか、段取りに、手間取っちゃって

 とりあえず、料理ができるまで、ビールでも飲んで待っててよ

 あと、タオルは勝手に出して使っていいから」

 タオルで濡れた髪や体を拭きながら、リビングに入る。彼女から受け取ったビールの缶のリングプルを引く。一口飲む。そして、テーブルの上座側に敷かれた、いつもの座布団に座る。テーブルの上には、丼に盛られた肉じゃがとボウルに盛られたサラダが置かれていた。

 彼女は落ち着いた様子で料理を作っていた。普段、料理を作る事のない彼女が料理を作っているという事は、きっと、二人きりの部屋で食事をしながら、何か真剣な話をしたいという意図があるのだろう。

 さて、どうやって切り出そうか?落ち着かないまま、傍らにあった雑誌のページをパラパラとめくりながら、彼女へ向けるつもりである台詞を、心の中で復唱していた。ビールを飲み干した。

 ただ料理が出来上がるのを待つだけという状況に耐えられず、立ち上がり、とりあえず、トイレに向かった。

 彼女のいるキッチンに差し掛かる時、少し違和感を覚えた。いつものその場所に見慣れないものが、幾つか、そこにあった。ずん胴と呼ばれる大きなナベ。大きな段ボール箱。そして、いつも以上に明るい彼女の笑顔。

 七十センチくらいの深さのずん胴ナベは、買ったばかりであろうか、『業務用アルミ鍋』と記載された名刺大の紙片と共に、ビニール袋で梱包されたまま、キッチンの隅に置かれていた。

 何故、一人暮らしの部屋に、こんな大きなナベがあるのだろうか?そう思いながら、ナベに近づく俺に、彼女はタマネギを刻む手を止め、言った、

「うどんとかソバとかパスタとかは、でっかいナベの方が、おいしく、ゆであがるんだよ」

 いや、一人分とか二人分を作るのに、こんな大きなナベは必要ないだろう…そう言いかけて、やめた。今は無駄な言い争いをしない方がいいだろう。些細な事が引き金となって、彼女が不満を爆発させてしまうかもしれない。 

 ふいに、タマネギの刺激物質が目に沁みた。少し涙目になりながら、トイレの方に向かった。ふと、洗面台にある歯ブラシが目に入り、彼女の癖を思い出して、少し憂鬱な気分になった。

 彼女には『噛み癖』があった。彼女が使っている箸やペンの後ろの部分や、調理器具や歯ブラシの柄の部分には、必ずと言っていい程、彼女の歯形が残っていた。そして、彼女の腕にも無数の歯形や傷跡があり、それらを見る度、痛々しく思っていた。

 また、時折、親しい人の体も噛んだりしていた様だ。俺も彼女と出会ったその日に噛まれた。


 彼女と初めて出会った夜、飲み直す事を口実に、彼女の部屋へと向かった。そして、部屋に入り込むや否や、彼女は唇を重ねてきた。

 そのまま、俺の体はベッドに押し倒されていた。そして、舌を絡め合ったり、舐め合ったりした後、事務的に、ただ入れたり出したりした。

 けれど、自らの腕を噛みながら、漏れ出す声を抑え、恍惚の表情を浮かべる彼女に、欲情を掻き立てられた。そして、その官能を受け入れ、絶頂を迎えた。

 再び、口づけを交わした。紅潮し、荒げた呼吸をする彼女の頭部を抱きかかえながら、微睡んでいた。いつの間にか、眠っていた。けれど、軽い幸福感に包まれていた数分間を、右肩に走る鋭い痛みが遮断した。

 彼女に『噛み癖』があるという事は、タモツから聞かされてはいたけれど、実際に受けたその行為と痛感が少し俺を冷静にさせた。薄明りの中、彼女の腕の傷跡が見え、こんな関係になった事を少し後悔した。けれど、うっとりと、俺の肩に口づけする彼女の事が、何故だか、愛おしく感じ始めていた。

 彼女はまっすぐに、俺の目を見つめながら、言った、

「ごめん…痛かった?

 なんか、変な癖だよね…

 しかも、Hした後に、かんだりしたら、カマキリのメスみたいで、こわいよね?」

 少し潤んだ彼女の瞳に、何故だか、俺はドキッとした。

「いや、俺なら、だいじょうぶ

 昔から、体だけは丈夫だし

 それに、わりと、筋肉ついてるから、噛み応えあったでしょ?

 あっ、そういえば、カマキリのメスって、交尾の後、というか、最中に、オスの体を頭から食べちゃうから、なんか、悪いヤツのイメージがあるけど、実際は、オスの方から、頭を差し出すって、知ってた?」

「へぇー、そうなんだー、初めて知った」

「ほら、カマキリって、他の虫とか食べる生き物だから、属する生態系のピラミッドの、割と上の方にいるから、絶対数が少ないんだよ

 だから、オスとメスが出会う確率も低いらしい

 普通の生き物のオスだったら、自分の遺伝子をより多く残す為に、より多くのメスと交尾したりするんだろうけど、カマキリのオスの場合、やっと出会えたメスと結ばれた後、メスと自分の子供達の栄養分になる事によって、自分の遺伝子を、より多く、次の世代に残そうとするらしいよ

 …て、なんか、変な事、熱く語ったりして、俺も変なヤツだよね」

 彼女は俺の目をじっと見つめながら、俺の話を聞いていた。なんだか、彼女の瞳には不思議な力が宿っている様に思えた。見た者を石に変えてしまうメデューサの目の様な…と言ったらオーバーな表現になってしまうけれど、その凛とした視線に、なんだか、身が竦む様な感覚を覚えた。

 その、照れ臭くもあり、なんだか恐ろしくもある視線から逃れる様に、俺は視線を逸らしながら、言った、

「俺、ハツミちゃんにだったら、食べられてもいいかな

 …なーんてね」

 そんな冗談を言った俺を、いきなりギュッと抱きしめ、彼女は呟いた、

「ありがとう、うれしい…」

 なんだか、厄介な女を押し付けられたな…などと思いながらも、俺の体に抱きつく彼女に、なんだかわからない愛おしさを感じ、俺も彼女を抱きしめた。そして、彼女は俺の左肩を甘噛みしていた。

 そして、そのまま二人、寄り添って、眠った。


 あの夜から一年くらい、彼女と付き合ってきたけれど、あの夜に感じた、彼女に対して抱いた感情がなんだったのか、今でも、よく分からない。

 俺は彼女を金づるにするつもりだったけれど、あの夜に見た彼女の腕にある無数の傷では、腕をあらわにする水商売や風俗といった仕事に就かせる事は難しい、いや、無理だろうという事は分かっていた筈だった。

 けれど、別れられなかった。この一年間、彼女とは別に何人か、稼ぎのいい女性とも同時進行で付き合ったりした事もあったけれど、何故か、その関係がバレる度、ハツミの方を選んでいた。経済的に考えたら、もう一方の女性を選んでいた方がよかった筈なのだけれど、何故か、ハツミとの関係を今まで続けてきた。

 多分、居心地がよかったのだろう。精神的にも肉体的にも。彼女が俺に依存していたのと同じ様に、俺も彼女に依存していたのかもしれない。

 でも、その関係も今日で終わらせるつもりだ。最近、仲良くなったミノリを逃す訳にはいかない。中小企業のOLであるハツミに比べて、有名企業の重役令嬢で、大手企業で働いているミノリの方が遥かに利用価値がある事は明らかだった。万が一、上手くいけば将来は安泰だし、上手くいかなくても、それなりの金が手に入る筈だから、このチャンスを逃す訳にはいかない、そう思っていた。

 数日前、その逢瀬をハツミに目撃された時、ハツミとはもう潮時だな、と思った。二人の関係を終わりにするいいきっかけになったと思った。

 ハツミも二人の関係が終わりに近づきつつある事を感じていたのだろう。だから、珍しく食事を作るからと言って、俺を呼び出したのだ。二人きりで話し合う為に。もしかしたら、何かしらの復讐をする為に。

 そして、俺はこの部屋を訪れた。別れを告げる為に。そうだ、今日、言わなければならないのだ。覚悟を決めた。別れを切り出す覚悟を。彼女から発せられる負の感情を受け止める覚悟を。

 とりあえず、水を流し、トイレから部屋に戻る事にした。

 キッチンにいる彼女の横を通り過ぎる。まだ台所では彼女がタマネギを刻んでいた。いつの間にか、彼女はゴーグルを装着していた。タマネギの刺激物質が目に沁みない為に着けているのだろうけど、ゴーグルとエプロンを着け、一心不乱にタマネギをザク切りにする様は、とても異様に見えた。

 ボウルに山盛りにされた、十数玉分のタマネギを見ながら、そんなに大量に切り刻む必要があるのかよ、そんなに切っても余って無駄になるだけだろう、そう言いかけて、やめた。今は無駄な言い争いはしない方がいいだろう。

 タマネギを刻み続ける彼女を横目で見つつ、冷蔵庫からビールを取出し、そそくさとテーブルの方に向かった。

 席に着き、目の前にあるテーブルの上に置かれた料理を見て、気づいた。肉じゃがにもマリネ風サラダにも大量のタマネギが入れられていた。サラダにはスライスされた大量のタマネギが使われていたし、肉じゃがには通常のものの倍以上の量のタマネギが入っていた。

 俺はタマネギが嫌いだ。

 俺のタマネギ嫌いを知っている筈なのに、彼女はタマネギを過剰に使った料理を作っている。

 悪意を感じた。やはり、彼女は俺に対して、怒りの感情を抱いている。

 そういえば、キッチンにあった大きな段ボール箱には『くまもと産たまねぎ』と表記されていた。俺が他の女と只ならぬ関係になりつつある事を察知した彼女は、わざと大量のタマネギを用意し、それを食べさせる事によって、俺に苦痛を与え、報復しようとしている。

 けれど、俺はその悪意を無視しなければならない。それらを自らの言動に対する報復と考え、罪悪感を認識してしまったら、自らを劣る立場に置く事になってしまう様に思えた。

 ふいに、苦痛な食卓を前にして、憂鬱になっていた俺の思考を、明るい彼女の声が遮断した。

「ごめん、もうちょっとで、タマネギ切り終わるから、そしたら、メインディッシュのハンバーグ焼くね」

 いや、なんで、そんな大量にタマネギを切る必要があるんだ、と言おうかやめようか、迷っていたその時、

「あ、そうだ」

 彼女は呟き、キッチンへと踵を返す。冷蔵庫のドアを開ける。閉める。

「これ飲む?

 おいしいよ、タマネギの冷たいスープ」

「ああ、うん、いただこうかな…」

 数十分後、俺は別れを切り出すという劣勢な立場になる。だから、その前に、自らの立場を悪くする言動は避けなければならない、彼女が与える試練はできる限り受けなければならない、そう思いながら、答えた。

 彼女の手にはガラス製のポットとスープ皿が握られていた。容器の中、ガーベラの花びらの様なスライスされたタマネギが、琥珀色した液体に浮き沈みし、ゆらゆらと揺らいでいた。そして、容器が傾き、花びらは注ぎ口へと集まり、スープと共に、皿へ。

「タマネギには腸の調子を整える成分がたくさん入ってるから」

 そう言いながら、彼女は皿をテーブルの上に置いて、キッチンに戻っていった。俺はその彼女の後ろ姿を見つめた。そして、目の前にあるスープへと視線を落とし、暫し、茫然としていた。

「あっ、ごめーん、忘れてた

 はい、これ」

 そう言うと、彼女は俺にスプーンを手渡した。そして、彼女はスプーンを受け取った俺を黙って見つめていた、いつもにも増して強く感じられる、その視線でスープを飲む事を強要するかの様に。

 沈黙に耐えられなくなった俺は、スープを一さじ掬い、ゆっくりと口に運んだ。そして、それを口に含むと、味わう事を拒絶する様に、素早く飲み込んだ。

「ね、おいしいでしょ?」

「うん…」

 そう答えた俺の口の中に残るタマネギのスープの味は、それほど不味くはなかった。美味くもなかったけれど。

 なんだか塩辛い冷えたコンソメスープといった感じの、そのスープには、俺が嫌いなタマネギの独特の風味は残ってなかった。生のままや、あまり火の通ってないタマネギの味や歯ざわりが嫌いなだけで、十分に煮込まれているタマネギなら、なんとか食べられる。

 タマネギのスープを味わう俺を見て、満足気に微笑みながら、彼女はキッチンに戻って行った。この場所に、大量のタマネギ料理と憂鬱な気持ちになった俺を残して。

 テーブルの上には大量のタマネギ。そういえば、ハンバーグにもタマネギが入っているな。たぶん、それにも大量のタマネギが入っているのだろう。そう思うと、更に、憂鬱になってきた。

 キッチンから「ジュー」という音が聞こえてきた。ハンバーグを焼く音だろう。

 さて、どうやって別れを切り出そうか。

『ゴメン、好きな人が出来た』

『ずっと、付き合ってきたけど、なんか、最近、ハツミに対する恋愛感情がなくなってきた』

『前から思ってたけど、これ以上、この関係を続けていく事に意味があるのか、わからなくなった』

 なんか、ありきたりな言葉だな。いや、ありきたりな言葉の方が、分かり易く、ストレートに受入れられる筈だ。

 それらの言葉に対して、彼女はどういう態度を示すのだろうか。今までと同じ様に、別れたくないと泣き喚いたりするのだろうか。もしくは、渋々、別れを受け入れてくれるのか。

 ひとつだけ分かっているのは、俺に対して、彼女は悪意を向けているという事だ。彼女は俺が嫌いなタマネギを大量に使った料理を、俺に食べさせようとしている。許すつもりなのか、許さないつもりなのか、わからないけれど、彼女の中に、わだかまりがある事は理解できる。

『これ以上、この関係を続けていく事に意味があるのか?』か…。

 今まで、この関係を続けてきた事に意味があったのか、何故、この関係を続けてきたのか、今でも、よくわからない。いつも、浮気がバレる度に、別れるつもりで、二人で会って話をしてきた。

 けれど、いつも、「お願い、別れるなんて言わないで」とか言いつつ、潤んだ瞳で見つめ、懇願してくる彼女の要求を拒む事が出来ずに、何故か今まで、この関係を終わらせる事が出来なかった。

 だけど、今日で、この関係も終わる筈だ。今日こそ、別れを告げるのだ。

 ガスコンロのスイッチを切る音。皿が擦れ合う音。そして、「できたよ~」という彼女の明るい声。メインディッシュが出来上がった様だ。そして、炊飯器の開けられる音。閉じられる音。

 彼女はハンバーグの乗った皿と、ご飯の盛られた茶碗を一つずつ手に持って、台所から現れた。そして、それらをテーブルの上に置いた。

 何故、一つずつだけなんだろう?そう思っていた俺に、彼女は微笑みながら、言った、

「最近なんだか、食欲なくて、なんか、胃がムカムカするんだよね

 せっかく、『食事しよ』って言って、ヒカルに来てもらったんだけど、私、食べられそうにないから、ヒカル、一人で食べてよ

 私はスープだけ飲んでるから」

 ムカムカしているのは胃よりも感情の方だろう、そんな言葉を飲み込みつつ、目の前にある料理を見ていた。これだけのたくさんのタマネギを一人で食べなければならないのか…。まるで拷問だ。

「いや、こんなに食べられないよ」

 そう答える俺に、彼女は言った、

「ダメ、せっかく私が腕によりをかけて作ったんだから、全部食べてよね」

 彼女は微笑んでいたけれど、冗談を言っている様には見えなかった。

 彼女の機嫌を損なわない様に、与えられる試練は、出来る限り受け入れなければならない。これから行われる交渉の為に、自らの立場を悪くする様な言動は避けなければならない、そう思った。

「そういえば、ヒカル、私に何か話したい事があったんだよね?

 とりあえず、食事した後、お茶でも飲みながら、ゆっくり、お話ししましょ

 私も話したいことがあるし」

 つまり、この料理を平らげたら、俺に発言権が与えられるという事か….

 とりあえず、肉じゃがのジャガイモを箸で割って、タマネギを二切れ貼りつけて、口の中に放り込んだ。大丈夫、食べられない訳ではない。けれど、タマネギを噛んでいるという行為自体が不快に感じ、俺は素早く飲み込んだ。

 そして、ご飯を口に入れながら、マリネ風サラダを見ていた。俺は酢もあまり好きではない。むせる様な風味と酸味と匂いが苦手だ。眉間に皺を寄せながら、息を止め、サラダの中のタマネギを口の中に入れ、その風味と酸味を中和する様に、ビールとタマネギのスープで胃に流し込んだ。

「スープのおかわりは、たくさんあるからね」

 その言葉に頷きながら、少し焦げ目の多いハンバーグを箸で切り、口の中に入れた。噛むと、サクッという嫌な歯ざわりと共に、少し生っぽいタマネギの汁が口の中に広がった。不快に感じ、これもビールとスープで胃に流し込んだ。スープ皿とビールの缶が空になった。スープ皿にタマネギのスープが注ぎ足された。

 俺はテーブルの上に並べられた料理をスープの味で誤魔化しながら食べていった。料理はタマネギのスープの味しかしなかった。大丈夫、これだったら食べられる。

 けれど、やっぱり、サラダのタマネギと酢の風味だけは苦手だったから、先にそれを減らそうと思い、そればかりを食べていた。

「へぇ~、そのサラダ、気に入ったみたいね

 サラダはいっぱいあるから、持ってくるね」

 そう言うと、拒否する間を与えないかの様に、彼女は素早くキッチンへ向かっていった。冷蔵庫を開ける音。閉める音。そして、戻ってきた彼女の手には大きめのタッパーが握られていた。

 ボウル半分以下の量まで減っていたタマネギのサラダは、新たに継ぎ足され、元の量よりも多く盛られた。

 俺はタマネギを胃の中に流し込む作業を黙々と繰り返していた。そして、この拷問の様な食事の時間が終わってくれる事を願っていた。いや、タマネギは我慢すれば食べられる。我慢できないのは、この重苦しい空気と彼女の視線だ。なんだか、気分が悪くなってきた。頭が痛くなってきた。

 作業を繰り返し、ほとんどの器を空にした。多分、その時間は二十分くらいだったと思う。けれど、じっと見つめる彼女の視線に耐えながら、黙々と、嫌いなタマネギを胃の中に詰め込んでいく作業は、その時間を数倍、数十倍に感じさせた。

 俺はタマネギの最後の一切れを口に運び、飲み込んだ。

 彼女は俺の目をじっと見つめていた。いつもにも増して強い視線で。

 食事の後、二人で話し合いをする筈だったけれど、二人の間には沈黙だけがあった。二人共、話を切り出す事に躊躇している、若しくは、相手の出方を探ってる、そんな感じだった。なんだか、本当に気分が悪い。頭が痛い。そして、何よりも、沈黙が痛かった。

 ふいに、その、二人の間にある沈黙の均衡を破って、彼女が呟いた、

「少しは症状が…

 いや、何か変化があると思ったんだけど…」

「えっ、症状って…?」

 まさか、料理に毒が盛られていたとか…。狼狽える俺に、彼女は語り始めた、

「ねぇ、タマネギ中毒って知ってる?

 あの、犬とか猫がなったりする病気

 タマネギの中の成分が赤血球を破壊して、急性の溶血性貧血を起こすってやつだけど

 あれって、実は、人間もなるんだよね

 まぁ、人間の場合、タマネギをキロ単位で食べなきゃ、ならないけどね」

 なんだか、とても頭が痛くなってきた。それがタマネギによる症状なのか、その話を聞いた事による暗示的なものなのか、わからなかったが。

 そういえば、今日、俺は何玉分のタマネギを食べたんだろうか?ところで、タマネギひと玉って何十グラムだ?いや、何百グラム?…そういった疑問が頭の中で渦巻く中、彼女が再び口を開いた、

「でも、やっぱり、ヒカルは体が丈夫だよね

 タマネギ中毒って、命にかかわる事もあるみたいなのに、全然、だいじょうぶそう」

 彼女は俺を殺そうとしている!

 そうか、あの、いつもより鋭い眼差しは、殺意の表れだったのだ!

 胃の中のものを全部吐き出してしまおう。トイレに向かおうとした。殺意から逃れようとした。立ち上がろうとした。頭が痛い。立ちくらみ。脚が縺れる。大きくバランスを崩しテーブルの上に倒れこむ。そして、肉じゃがが入っていた器で、強かに頭を打ちつけ、そのまま、意識が薄れていくのを感じた…



 ふいに、脇腹をえぐり取られる様な痛みを感じ、身をよじった。けれど、手足に食い込む綿ロープが、その動きを阻んでいた。裸の状態で両手首と両足首のそれぞれをテーブルの四本の足に縛りつけられている俺と、俺の左脇腹を噛み続けている彼女がそこに居た。

 声を出そうとしたけれど、口に装着された拘束具によって、その声は遮られた。口の中に溜まった涎が溢れ、たらりと、頬から首筋へと垂れ、流れ落ちていった。

 ただ、自分の体が痛めつけられている様を見つめながら、何故、こんな状況になっているのか考えていた。

 ああ、そうだ、俺は倒れて、気を失ったのだ。そして、俺が気を失っている間に、彼女は俺をこんな風な屈辱的な格好にした様だ。

 さっきまで、彼女に殺される事に恐怖していたけれど、今は、別の恐怖、というか、非現実的な不気味さを感じていた。そして、その、非現実的な状況が、さっきまで感じていた恐怖を消していく様に思えた。

 彼女は裸にエプロンを着けただけの格好をしていた。そして、俺は裸の状態で拘束されていて、股間の部分にだけ白いタオルが掛けられていた。その部分だけが隠されている事に、逆に羞恥心を覚えた。そして、そのタオルがズレて、落ちそうになっている事が、更に羞恥心を増大させていった。

 屈辱的な苦痛を、彼女は俺に与えようとしている。だけど、そう考えたら、逆に安心する事が出来た。彼女は俺を殺そうとはしていない。殺すつもりなら、こんなまどろっこしい事はせずに、気を失っている間に殺していた筈だ。

 いや、殺したいくらいに憎いと思っているからこそ、屈辱的な苦痛を与え、精神的に追い詰め、最終的に絶望と共に死を与えようとしているのかもしれない…そういう風にも考えたりもしたけれど、多分、違うだろう。俺の体を噛み続ける彼女の表情は、とてもうっとりとしていた。倒錯的な、官能的な悦びを湛えていた。

 いつも、彼女は性的な興奮を得ている時、自らの腕を噛んでいた。喘ぎ声が漏れ出ない様に、そうしているのだと思っていたけれど、もしかすると、彼女は噛む事自体に興奮する性癖を持ってるのかもしれない。なんとなく、そう思った。

 彼女は俺の体を噛み続けていた。

 だいじょうぶ、俺は殺されない。だいじょうぶ、この苦痛に耐えれば、元の生活に戻れる。そう考えたら、その苦痛は別のものへと変化していった。

 股間に掛けられていたタオルが、はらり、傍らへ落ちていった。何故か、俺は勃起していた。

 何故、俺の股間のものは硬直しているのだろうか?

 さっきまで俺は殺されかけていた。しかし、こんな格好をさせられてはいるけれど、自分が殺される事はないと確信した事によって、『死の恐怖』は拭い去られ、今、俺は『生の欲求』に満ち溢れている。

 そして、『生の欲求』は『性の欲求』でもある。生物は『死』に接した際、自らの遺伝子を残したいという本能が強く働き、性的な欲求が高まると言われている。だから、俺の自分の意志とは関係なく、本能的に硬直しているだけなのだ。疑似的な『死』である『眠り』の状態に近い時に、自らの意志と関係なく勃起してしまう、いわゆる、『朝立ち』の様に。

 そう自分に言い聞かせ、冷静になろうとしていた。俺は痛めつけられて快楽を得る変態ではない、自分はマゾヒストではない、そう自分に言い聞かせていた。

 彼女は俺の左胸あたりを噛んでいた。俺の体を噛み続けていた。強く噛まれる痛み。甘噛みの歯の感触。優しく舐める舌の感触。繰り返されるその痛感と快感と、彼女の頭越しに見える、はしたない自分の姿に対する羞恥心に、俺の股の間からそそり立つものは、更に硬さを増していった。

 彼女は俺の股間が硬く興奮している事に気づいている筈なのに、それに気づかない振りをするかの様に、一心不乱に俺の体を噛み続けていた。

 早く、この猛りを鎮めて欲しい…。けれど、彼女はそれを無視している。なんだか、焦らされている様に感じ、悶えた。もやもや、もぞもぞする感覚に我慢が出来なくなっていた。

 ふいに、彼女の口の動きが止まった。そして、立ち上がった。恥ずかしい格好をした俺の、恥ずかしい部分を見降ろしていた。時折見せる、あの、鋭く強い眼差しで。それは数秒か十数秒という短い時間だったけれど、とても長い時間の様に感じられた。

 俺の左肩あたりに立っていた彼女は、ゆっくりと俺の頭の方へ移動していった。ゆっくりと時計回りに歩き始めた。そそり立つ部分あたりをじっと見つめながら。

 拘束されたまま、動けない俺は、彼女の一挙手一投足に目を奪われていた。そして、いつの間にか、これから行われる『何か』に期待し、胸が高まっている事に気づいた。

 彼女は俺の足元で立ち止まった。そして、彼女は俺の体を舐め上げる様に、その、強い力を持った視線を、徐々に、俺の下半身から顔の方へと上げていった。俺の目を見つめた。二人、見つめ合っていた。

 その視線に羞恥心を覚え、目を逸らしたくなった。けれど、眼球は金縛りにあった様に、その視線から逃れる事が出来なかった。

 ふいに、俺の目を捕らえていた視線は、再び、下半身の方へ移されていった。そして、彼女は俺の脚の付け根あたりをじっと見つめながら、俺の足元あたりにしゃがみ込んだ。

 テーブルの上、縛り付けられた俺の開かれた両脚の間に、彼女は手を付いた。そして、彼女の顔は俺の脚の付け根の方へ近づいていく。俺は息を呑み込んだ。

 拘束され蓄積された衝動を、自らの欲望も卑しさも何もかも全てを爆発させ、放出したいという欲求を抑えられなくなっていた。けれど、その卑しい期待は、すぐに裏切られた。

 彼女は俺の両ももを交互に噛み始めた。何度も何度も噛み続けた。俺は体を強張らせた。痛みに耐えていた。時折、彼女の髪が、俺の卑しく膨張したものの先端を掠め、その、やさしく撫でられる刺激に身悶えた。けれど、その弱い刺激では絶頂を迎える事が出来ず、俺の中で、衝動が不完全燃焼していた。

 今までずっと黙って俺の体を噛み続けがていた彼女が、急にその行為を止めた。顔を上げた。にこやかに笑っていた。そして、口を開いた、

「いたぶられて、いためつけられてるのに、こんなところをパンパンにしちゃって、はしたない…

 ねぇ、そういえば、なにか、わたしに言いたいことがあったんだよね?

 ねぇ、どうしてほしいの?言ってみてよ、ねぇ!」

 けれど、口に拘束具を装着された俺に発言権は無かった。ただ唸る事しか出来なかった。そして、口の中で掻き消された言葉は、当初、用意していた別れの言葉ではなくて、卑しく膨張した股間のものに絶頂を与えて欲しいというものだった。

 その要求を理解していたのかどうか分からなかったけれど、彼女は言った、

「こんな、はしたない、わるい子には、おしおきが必要よね

 おしおきされるようなことしたんだから、当然よね」

 彼女は立ち上がり、俺の股間の『はしたないわるい子』に右足を宛がった。彼女の目は俺の目をじっと見つめていた。その視線を逸らす事は出来なかった。彼女の足に体重が掛けられる。踏み躙られる。道端に捨てたタバコの吸い殻の火を消す様に、ぐりぐりと。

 その痛感に身を仰け反らした。けれど、彼女の足の裏の感触と圧迫感と痛感と、敏感な先端部分が自らの腹と擦れる感触に、思わず、はしたない粘液を放出した。

 自分の頬に付着する白濁した粘液の不快な感触。だらりと首筋へと垂れていく不快な感触。はぁはぁ、荒く呼吸をしていた。息苦しくて、深く息を吸い込んだ。拘束具のプラスチックのボールに開けられた穴から吸い込んだ唾液に混じった、僅かな苦みと、鼻へ抜ける不快な匂い。思わず咳込んだ。

「あらあら、こんなに汚しちゃって~、はしたな~い」

 そう言うと、彼女は俺の顔と体に付着した粘液をティッシュで拭き始めた。そして、絶頂を迎えた余韻が残る先端部分が拭かれた時、思わず、情けない喘ぎ声が漏れそうになったけれど、その声も口に装着された拘束具によって遮られた。

 そんな自分の状況に、屈辱的な感情を覚えた。そして、それらは現実ではないと思い込もうとしていた。そして、それらから逃避するかの様に、意識が遠のいていった…

 そして、夢うつつの状態の中、何故か、忘れ去られていた、古い遠い記憶のカケラが脳の奥底から呼び起こされ、頭の中で、ある昔の光景が再生され始めた…



「汚~い」

 そう言いながら、少女は俺の目をじっと見つめながら、笑っていた。そして、少女は自分の服に付着した白濁した粘液をウェットティッシュで拭き取っていた。

 そこには、初めての感覚に戸惑う、小学六年生の自分が居た。

 その日、俺は同級生の友人の家を訪れていた。友人は不在だったけれど、そこに居た友人の姉二人に、家に上がって待つ様に言われて、友人の部屋で待つ事にした。

 友人とその姉達が共有する子供部屋の隅の方で、俺は漫画を読んでいた。少女達は少し離れた所で雑誌を読んでいる様だった。

 数分後、二番目の姉の方が近づいてきた。そして、俺の目をじっと見つめながら、言った、

「ねぇ、お医者さんごっこしない?」

 その言葉に戸惑いながらも、湧き上がる好奇心を抑える事が出来ず、そして、自分よりも大人である二人の女性からの要求を拒む事も出来ず、頷いた。その当時、俺はその少女に淡い恋心を抱いていた。

 けれど、その淡い好奇心は、すぐに裏切られた。

 そこには、患者役にされて、下半身を剥き出しにさせられた自分がいた。

 それを見ながら、少女達は『はえてませんねぇ~』とか『むけてませんねぇ~』とか言っていた。今思うと、それは第二次性徴が訪れる前の少年だったら、当たり前の事を言われただけだったのだけれど、その少女達の言葉と視線は、とても屈辱的に感じた。

「消毒しま~す」

 そう言うと、看護婦役をしていた二番目の姉は笑いながら、俺のあそこをウェットティッシュで擦り始めた。その部分は段々と硬くなっていった。その行為と、それに伴う、よく分からない快感を拒む事が出来ず、全てを委ねた。そして、俺は初めての絶頂を迎えた。

 その当時の自分には、射精とかそういった事の知識が全くなく、自分の身に何が起こったのか、全く分かってなかった。けれど、それらの出来事が『いけない事』だと、漠然と認識していた。そして、屈辱的な行為をされたという事も認識できていた。

 だから、その出来事を、誰にも打ち明ける事が出来なかった。そして、そのまま、その出来事は記憶の片隅に追いやられ、十年以上の歳月が流れていた。

 改めて考えてみると、その出来事があった時から、俺は女性と接する事に対して、壁を作ってきた様な気がする。俺のそういったところを『クール』などと言って、好意を寄せてくれる女性も多々いたけれど、あまり興味も持てず、いつも、利害だけを考え、付き合ってきた様に思う。

 俺にとって、その出来事はトラウマだったのかもしれない。だから、その出来事を忘れ去る事で、無意識に自らが傷つかない様にしていたのだろう。けれど、その出来事は『初恋の記憶』でもあったのだ。そして、その少女は『好きな人』のオリジナル的な存在として、ずっと俺の心の奥底に存在していたのだ。

 そして、きっと、無意識に、そういった女性に全てを委ねたいという欲求を抱えていたのだ。

 そういえば、ハツミの強い眼差しは、あの時の、あの少女の眼差しに似ている様な気がする。だから、俺はハツミに惹かれたのだ。彼女に出会ったその日から、その強い眼差しに魅了され、執着してきたのだ。だから、今まで、別れたいと思っても、その強い眼差しと共に突き付けられる『別れたくない』という要求を拒む事が出来ず、受け入れ続けてきたのだ。その瞳に心奪われていたから、彼女の要求に従い続けてきたのだ。

 ずっと、彼女の心も体もお金も支配していたと思っていた。けれど、それは違った。支配されていたのは俺の方だった。彼女の心と体とお金と、そして、その眼差しに、俺は支配され、養われていたのだ。

 俺はマゾヒストだったのだ。今、初めて、その事に気づき、認識した。そして、今、初めて、そういう自分と向き合う事が出来た。

 そして、俺は夢うつつの中、はしたなく欲情する、ただの一匹のオスとしての自分を認識し、その欲求を満たしてくれる存在を、ただただ愛おしく思い始めていた…



 ふいに、脇腹をえぐり取られる様な痛みを感じ、意識を取り戻した。

 けれど、脇腹の肉は本当にえぐり取られていた。

 身を強張らせた。その、あまりの痛さに息を呑んだ。声が出なかった。声を出そうとしても、口に装着された拘束具によって、出せなかったが。

 傍らには、口元を赤く染めた彼女がいた。彼女は掌に赤い小さな塊を吐き出し、呟いた、

「このままじゃ、まずいよね…」

 そりゃそうだろう。ここまでやったら、SM行為の範疇を超えている。これは犯罪行為だ。傷害罪、それに、監禁罪にも相当するだろう。この時点で止めるならば、警察沙汰にするつもりはない。だから、このロープを解いてくれ。…そう言おうとしたけれど、口に装着された拘束具によって、その声は遮られた。

 その、声にならない要求を無視するかの様に、彼女はキッチンの方へ向かっていった。

 一人残された俺は激痛に耐えていた。体を強張らせた。身をよじった。胃からタマネギのスープと胃液が上がってくるのを感じた。不快感。頭を振った。そして、苦痛を誤魔化す様に、漠然と頭の中に浮かんでくるイメージの断片を、走馬灯の様に頭の中をくるくる廻る何かを捕まえようとしていた。けれど、それらは手の平をすり抜ける様に、どこかへ去っていく。走馬灯は廻り続ける。くるくるくるくる。苛立ち。頭を振った。

 部屋の隅にある鏡が目に入った。その鏡に映る自分の姿は、まるで、料理の様だと思った。大量のタマネギを腹に詰め込まれ、テーブルの上に盛り付けられた自分がそこにあった。

 ふと、走馬灯の中の何かが指先に引っかかった様な気がした。

 ああ、そうなんだ、俺は料理なんだ。そう考えたら、全てが理解できた。

 ガチャガチャという音。キッチンから戻ってくる足音。床に何かを置く音。横の方に目をやると、彼女はカセットコンロの上に置いたナベにポットの湯を注いでいた。カセットコンロのスイッチを入れる音。彼女は湯を沸かしていた。

 そして、彼女は手にした箸で摘まんだ肉を湯に潜らせ、小鉢に取り、その肉を口に入れ、噛みしめながら、言った、

「やっぱり、しゃぶしゃぶは、ごまダレだよね~」

 その肉は、さっきえぐり取られた俺の脇腹の肉だ。そして、さっき言っていた『このままじゃまずい』という言葉は、事件性のある、この部屋の状況の事ではなく、俺の脇腹の肉が生のままでは『不味い』という事を意味していたのだ。

 彼女はカニバリストだったのだ。ずっと人間の肉を食べたいという欲求を抱えて生きてきたのだ。だから、多分、その欲求を抑える為に、いつも、自分の腕や身の回りのものを噛み続けていたのだ。

「次は、どの肉をたべようかな…

 よしっ、モモ肉にしよう」

 彼女の手には包丁が握られていた。包丁が俺の太ももに刺さる。激痛。肉が削がれる。空気が沁みる様な痛み。血液が噴き出す。どうやら、動脈が切断されたらしい。彼女の体が俺の血で染まる。血で汚れる事を想定していたから、汚れてもいい様に、彼女は裸にエプロンという格好をしていたのだろう。そう思った。

 口に拘束具が装着され、叫ぶ事も出来ず、身悶える自分の中で、増大し、蓄積される激痛。身を強張らせた。脳の許容量を超えた痛感に、一瞬、意識が飛びそうになった。眩暈がした。

 そして、ふいに、その痛感は薄れ始めた。自らの意識と共に。この、薄れていく意識に身を委ねれば、この激痛から逃れる事が出来るだろう。けれど、それは、死を意味していた。最悪の事態を覚悟した。

 彼女は傍らに置いたまな板で俺のもも肉をスライスしていた。そして、その肉を湯に潜らせ、小鉢のごまダレに浸し、食べた。うっとりとした表情をしていた。

 彼女は二切れ目の俺のもも肉を噛みしめていた。そして、それを飲み込むと、俺の目を、じっと見つめた。ずっと見つめ続けていた。そして、ふいに、彼女は沈黙を破った。

「ヒカルは死んでしまうかもしれない

 でも、わたしたちの中で生き続けるの

 わたしと、わたしたちの子供の生命力となって」

 そう言うと、彼女は自身のお腹をさすった。

 彼女は妊娠していたのだ。俺の子供を身籠っていたのだ。

「本当にカマキリみたいだよね、気持ち悪いよね、人の肉を食べたりして

 でも、ヒカルと出会った夜あの夜に、私にだったら、食べられてもいいって言ってくれた事、すごくうれしかったよ

 なんだか、わたしの心の奥底にある感情や衝動まで理解してくれた様に思えて、とてもうれしかった

 本当なら、あなたを食べたくなかった、あいしてた

 でも、わたしから離れていくあなたをつなぎとめる事はできないと思ったの

 わたしは、小さい頃から、弱かったから、出会った時から、ずっと、ヒカルの精神的な肉体的な力強さに惹かれてて、依存していたから、ヒカルがいなくなってしまう事が、こわかった

 ヒカルがいなくなったら、生きていけない、ひとりで、この子を育てていけないって思ったから、ヒカルの生命力を自分の中に取り込みたかったの」

 きっと、彼女の心の中には『食べたい』という欲求と共に、『食べてはいけない』という理性的な感情が常にあって、板ばさみの状態だったのだろう。そして、俺が離れていく事を確信し、愛憎の念に支配され、欲望のままに、この様な行為に及んでしまったのだろう。そう思った。

 いや、彼女は最後まで、板ばさみの状態のまま、迷っていたのかもしれない。でなければ、タマネギを大量に摂取させるという、確実ではなく、効果もはっきりしない手段は取っていなかった筈だ。体の自由や命を奪いたかったのならば、もっと確実な方法があった筈だ。彼女は俺を食べるか否か、その選択の結果を、確実ではないギャンブルの様な方法に委ねたのかもしれない。迷いながらも、彼女なりに決着を付けようとしたのだろう。そう思った。

 そして、その賭けに負けた俺には死が与えられようとしていた。彼女が与える試練を出来る限り受け入れ、自らを劣勢な立場に置かない様にしなければならないと思った時から、俺は自らを劣勢な立場に置いてしまった様だ。

 彼女は俺の目をじっと見つめていた。俺は彼女の言葉と視線を受け入れる事しか出来なかった。体の自由を奪われたまま、命までも奪われかけながら、その強制的で、破壊的な、歪んだ愛情を受け入れることしか出来なかった。

 ヘビに睨まれたカエルの様だった。彼女は捕食者で、俺はその獲物だった。彼女と出会った時から、彼女の、獲物を捕らえる前の肉食獣の様な眼差しに魅入られてたのだ。

 彼女は俺の右肩に包丁を宛て、肉を削いだ。まな板の上でスライスした。「ど~ん!」と叫びながら、湯の中に全部投入した。箸でナベの中をぐるぐる回しながら、笑いながら、歌い始めた、

「うわきおとこなんて~、ぐつぐつ煮込んで~、食っちゃえばいいんだよ~♪」

 ああ、そうか。煮込まれるのか。キッチンにあった、あの大きなナベで。大量のタマネギと共に。死んだ後に。

 死にたくないと思った。けれど、テーブルの上に縛り付けられ、自由を奪われ、致命傷を与えられた自分には、最早、『生きる』という選択肢すら残されてなかった。楽になりたいと心から思った。

 彼女は俺の目をじっと見つめた。ただ見つめ返した。

「ゴメンね、くるしかったでしょ

 今すぐ、楽にしてあげるからね」

 そう言うと、彼女はテーブルの傍ら、拘束されている俺の左脇あたりに正座した。食卓に着く様に自然に。

 そして、彼女は膝立ちの姿勢になり、両手で持った包丁を頭上に掲げた。俺は彼女を見つめていた。彼女も俺を見つめていた。躊躇しているのか、その刃は、しばらくの間、彼女の頭上で静止していた。

 振り下ろされた。

 激痛が走る。けれど、その刃は肋骨に阻まれ、心臓を捕らえる事が出来なかった様だ。肉が削げた痛み。そして、その内側にも別の痛み。どうやら、肋骨が折れたらしい。それらの痛感に、一瞬、意識を失った。けれど、彼女の声によって、再び、現実に引き戻された。

「ヒカルビ肉だね」

 彼女は包丁を振り下ろした際に削げた肉片を指で摘まんだまま、にこにこと笑っていた。そして、その肉片もナベに放り込んだ。

「次は、うまくやるからね」

 そう呟いた彼女の、祈る様に、指を絡め組み合わせ、胸の前で強く握りしめられた両手には、刃を下にした包丁が生えていた。ゆっくりと下降していく。横たわった体に垂直に突き付けられた包丁。俺の左胸あたりに宛がわれる、刃は肋骨と肋骨の間の溝に沿う様に平行に。彼女は少しだけ斜めに座り直す。刃の角度を調整する。

 力が込められた。肋骨の間に刃が刺さる。ゆっくりと侵入していく。鋭い痛み。息を呑み込み耐える。息苦しい。どうやら、肺が破られた様だ。気管から液体が昇ってくる感覚。喉の奥から液体が湧き上がってくる感覚。口の中を満たす血の味。息が出来ない。口から血が溢れる。自分の血で溺れる。なんとか、呼吸をしようと藻掻く。身を捩り、なんとか、右側の肺に空気を送り込もうとする。咳込む。血を吐き出す。それでも、湧き上がってくる血液。苦しい苦しい苦しい。

 更に、刃に力が込められる。胸の奥へと侵入していく。血が勢いを増して、ごぼごぼと湧き上がってくる。刃が心臓に達した様だ。包丁が引き抜かれる。夥しい量の血液が噴き出す。赤い噴水。赤が飛び散る。赤!赤!赤!赤!赤!俺も彼女もこの部屋も真っ赤に染まっていく。

 薄れていく意識の中、真っ赤な光景を、ただ見つめていた。彼女は俺を抱き締め、俺の左肩を、ひと口かじった。そして、顔を上げ、俺の目を見つめながら、「あいしてる」と呟いた。

 太陽を直視した時に見える、緑色の残像の様なものが視界を埋め尽くしていた。どうやら、脳内の酸素と血液が欠乏してきているらしい。自らの死を確信した。意識が遠のいていく。

 死んでしまう。自分の存在が消えてなくなる。そんな恐怖が膨れあがっていった。

 俺は死んでしまう。けれど、彼女と、そのお腹の中にいる子供は生き続ける。その子供によって、俺の遺伝子は未来へと受け継がれていく。そう考えたら、何故だか、不思議と幸福な気持ちになれた。

 きっと、メスのカマキリに食べられるオスのカマキリは、こんな気持ちなんだろう。そう思った。

「あいしてる」

 ハツミは俺の目を見つめながら、何度も何度も、そう呟いていた。その言葉に応えようとしたけれど、口に装着された拘束具によって、その言葉は遮られた。

「あいしてる」

 そう言いながら、ハツミは俺の手を握りしめた。握り返した。

 繰り返されるその言葉は、死の苦痛を和らげる不思議な呪文の様に感じられた。実際は、感覚と共に、痛感も薄れてきているだけかもしれないけれど。

「あいしてる」

 俺達は愛し合っていた。とても歪んではいたけれど、本当に愛し合っていた。今、そう実感した。なんとか、その言葉に応える為に、微笑もうと、頭を上げようとしたけれど、力尽きた。

「あいしてる」

 最後に聞く事になるだろうと思われる、その言葉に応える為に、最後の力を込め、ハツミの手を握り締めた。握り返された。やわらかな、あたたかい手のひらが全ての苦痛を消し去ってくれる様に感じられた。安らぎに包まれている様に感じられた。

 そして、意識も苦痛も感覚も体を動かす力もなくなっていった。手のひらの感触もなくなっていった。自分の存在が消えてなくなっていった…。

 肉だけになった。


 そして、小走りに急ぐ足音。勢いよくドアを開ける音。胃液と共に肉が吐き出される音。

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[良い点] こえーよ。 女性の独占欲がリアルでした。 出来レースディペートをちょっと病んでる女性にやるという男の発想もリアルだし、女性ははまるだろうなと。 [気になる点] 前半に出てくる13人のおかげ…
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