精緻な美貌
ノックもせずに扉に手をかけたことを、あ、と思ったときには既に遅く扉を開いてしまったあとだった。
「見るなっ!」
突き刺すような低く鋭い声にビクリと肩が震える。扉を開けた瞬間視界に入ったのは黒衣を脱いだ男の姿。驚きに目を見開いた先。そのお客さんは私から顔を背けるように体の向きを変えた。
「あ、の、ノックもせずにすみません。実は、この液体があなたの役に立つんじゃないかと思って…」
お客さんは上半身は裸で、その素肌に包帯を巻き付けている。その端はまだいくらか残っており、包帯を巻いている途中であったことがわかる。きっと怪我の手当をしていたのだろう。
勝手にお客さんの部屋に入った私が全面的に悪い、それは当然のことで、それを咎めて声を荒げた彼は決して悪くない。なのに先程の彼の声があまりに恐ろしくて私は立ちすくんでしまった。早く小瓶を渡したいのに足が前に出ない。
わずかな沈黙の後、顔をうつむかせたまま彼はこちらに向き直った。
「……驚かせた。すまない」
「ち、がうんです。私が悪くて」
彼に私に対する敵意が全くないことはわかっていても、本能的に感じた恐怖はなかなか消えてくれなかった。しかし、いつまでもそうしているわけには行かない。私は腹をくくると彼のそばへと歩みだした。彼が半裸だとかはもう今さらだ。
「これ、あなたの傷に効きませんか?」
私は目線をそらしたままの彼の前に小瓶を差し出す。薄暗くてよく見えなかった彼の姿は近づくことではっきりと確認できた。その美しさに私の声はわずかに上ずる。完璧なパーツを完璧な位置に配置したから完成したようなそんな計算しつくされた美。無駄のない筋肉がしっかりとついた美しい肉体、その精巧で緻密な美貌、誰もが見惚れるだろう容姿だ。濃い銀色に輝く髪、ブルーグレーの瞳、頼りない月の光のもとでさえ映える色彩。見惚れずになんとか話を戻した私を誰か褒めてほしい。
「これを俺に?」
自嘲気味の声が聞こえて私はどうして?とお客さんを見た。次の瞬間、冷徹な美貌が私の目の前に迫っていた。思わず後ずさろうとした私の手をお客さんが掴む。私は喉の奥だけで小さく悲鳴をあげた。恐ろしいほどの美形というのは目の前にするだけでこんなにも緊張してしまうのか。
しかし、手首を掴む彼の力は決して強くはなくほっと息を吐いた。ようやく視線があったことにも安堵して私は小さく笑って小瓶を彼に手渡した。私の手首を握っていた手はすぐに離れていった。
「回復薬、か」
瓶の蓋を開けて中の香りを嗅いだお客さんがまさか、というようにつぶやいた。
「わ、予想があたってよかった」
「ああ、……本当に俺が使ってもいいのか」
「そのために持ってきたんですよ」
「いくら、支払えばいい。あんたの言い値で買わせてくれ」
言い値と言われても正直まったく価値がわからない。
それにどうせ家に置かれていたものだ。タダであげてもいいけれど、無一文な今はお金はもらえるだけもらっておくべきだろう。
「私には相場がわからないので、お客さんが支払ってもいいと思える値段でいいですよ」
「…わかった。今は手持ちが少ない。後日支払いに来る」
「え、そこまではいいですよ。今支払える金額内で大丈夫なので」
「これは、はっきり言って高い。一般の人間が持っているものじゃない。そんなことを言っていたら悪人に騙されるぞ」
「ふふ、お客さんは悪人じゃないんでしょ?なら問題ないですよ」
「問題、あるだろ。現に今俺に安く買い叩かれそうになってる」
「私、本当にここに来たばかりで、今まで商売なんてしたこともないんです。だから本当は宿代だっていくらにしたらいいかわからないし」
「そんな状況で店を開くな…」
「無一文なのでとりあえずお金が欲しくて」
「だから、そういうことを言うな。良からぬ考えの奴を集める」
「お客さんっていい人ですね」
顔も良くて、性格までいいとか、できれば仲良くしていきたい。私は、そんな気持ちのままお客さんにひとつお願いをした。
「どうしても気になると言うなら、宿屋の値段を一緒に考えてくれませんか?」
「だから、客の俺にそんなことを決めさせるな」
「でも、今頼れるのお客さんしかいないし」
お客さんは顔をしかめている。そんな表情すら芸術作品のように美しい。
「そもそも…若い女一人で宿を開くなんて危険すぎる」
「私、この家しか持ってないし、何も出来ないので宿くらいしか思いつかなくて」
「危険だとは思わないのか」
「でも生きていくためには仕方ないですよ」
実際はこの家にいれば危険は限りなく低いので、私の警戒心なんてあってないようなものなわけだが、良識人なお客さんにはそれが危うく見えるらしい。
「…なら、宿泊費はできるだけ高く設定するべきだ。馬鹿な奴らが不用意に入ってこれない程度に」
「そうですね」
確かに、ここには一部屋しかないし、私を害する意志のあるものは入ってこれないことを考えると、客単価は高めに設定しないとな気はする。
「これくらいでどうだ?」
「はい。それにします」
「あ、んたなぁ。だから、そう簡単に人間を信じるな」
「でも、お客さんは信頼できそうですし。それよりも早くお薬飲んでください」
お客さんの胴体に巻かれた包帯が徐々に赤く色づいてきているのが見えて私はあわててそう促した。