愚かな思考ーストワル視点ー
包帯を半分ほど巻き終えたあと、隣の部屋との扉の向こう側に気配を感じた。そして、マントを手にする前に扉は音もなく開いた。
「見るなっ!」
威嚇する意志を持ってとっさに声を張り上げた。顔を見られるわけにはいかない、そう思ったが彼女の視線は俺を真っ直ぐに捉えていた。彼女の目が見開かれる。俺はとっさに顔をそむけ、体の向きを変える。叫ばれるか、と思ったが、それはなかった。彼女の体は怯えているのか固まっていた。彼女は俺を罵りはしないかもしれない。けれど、その目に嫌悪感を浮かべることは仕方ないだろう。神経の細い者には失神されたことも、嘔吐されたこともある。
「あ、の、ノックもせずにすみません。実は、この液体があなたの役に立つんじゃないかと思って…」
返ってきた反応は、想像した中では最良だった。言葉の意味を理解する余裕はなかった。彼女は、きっと本当に優しい人間なのだろう。人を容姿で判断するべきではない、それは当然のこととされているが、普段そう思っている者でさえ俺を見れば、顔をそむけ嫌悪感を向けるのだから。
…いや、そもそもこの暗さだ俺の顔は見えていなかったのではないか。夜目がきく俺と彼女では視界は違うだろう。そう思い至り、すぐにマントを羽織らなかったことを深く後悔した。今更隠しても遅い。そろそろこの暗闇に視界は慣れてきていることだろう。窓の外から降り注ぐ淡い月の光は俺の姿を浮かび上がらせる。諦めた俺は彼女に向き合う。それでも視線を合わせることは出来なかった。彼女の目に浮かぶ嫌悪など見たくなかった。
「……驚かせた。すまない」
「ち、がうんです。私が悪くて」
彼女は怯えた様子のまま、なぜか一歩俺に近づいてきた。なんだ、化け物の姿に興味を惹かれたとでも言うのか。
「これ、あなたの傷に効きませんか?」
眼の前までやってきた彼女は、俺に向けて液体の入った小瓶を手渡そうとする。その声はわずかに震えているにも関わらず、だ。
「これを俺に?」
化け物じみた俺に一体何を渡そうというのか。ひどく自虐的な、それでいて嗜虐的な思考が俺を動かした。抑えの利かない体は、俺を見る漆黒の瞳に凶悪な顔面を近づけた。後ずさろうとした女の細く白い手を逃れられないよう掴む。彼女はひっと小さく悲鳴をあげた。
だが、それだけだった。
俺からがむしゃらに逃げようとするでもなく、俺を罵るわけでもない。失神することも、嫌悪に顔を歪めることすらなかった。その様に驚く。
俺が何もしてこないと判断してか、彼女はほっと息を吐いた。そして、なぜか彼女は俺に小さく笑いかけた。とっさに手から力が抜ける。はじめからさほど力は入れていなかったため簡単に彼女の手は離れていったが、その後、緑色の液体の入った小瓶を渡された。
まさかとそれを見る、そして中身を確かめるため嗅いだ匂いは以前一度だけ使用したことのある回復薬と同じものだ。一般人が買えるようなものではない。全ての怪我や疲労を癒やし、魔力を全回復させる。死んでさえいなければ、どのような人間も救うとされる秘薬。身体の損傷さえも回復させてしまうそれは、その存在を国が管理し高値で取引されている。
「回復薬、か」
彼女は俺の言葉に嬉しそうに声を弾ませた。心臓が高らかに拍動を刻み、彼女から目が離せない。
「わ、予想があたってよかった」
彼女がなぜこのようなものを持っているのか。そして、なぜ俺に渡そうとしているのか。信じられなかった。
「ああ、……本当に俺が使ってもいいのか」
「そのために持ってきたんですよ」
彼女はいともたやすくそんな言葉を吐く。彼女の真意がはかれず困惑する。俺はただの客で、彼女はあくまで宿の主人だ。今日知り合ったばかりであり、いくら俺が怪我をしていると言っても彼女がこれを俺に渡すことに益も無ければ、俺に対する情もないはずだ。
「いくら、支払えばいい。あんたの言い値で買わせてくれ」
金が必要なのか。とにかく相応の値段を支払わねばと口を開く。それに対して、彼女は本当に困ったように言葉を続けた。
「私には相場がわからないので、お客さんが支払ってもいいと思える値段でいいですよ」
これの価値を知らないというのか。そんなことがあり得るのか。見た目からして世間知らずの金持ちの娘なのだろうが。それにしては、なぜこんなところで一人で宿なんてものをやっているんだ。
「…わかった。今は手持ちが少ない。後日支払いに来る」
疑問は数限りないが、俺は何も聞くことが出来なかった。彼女が、俺の素性について尋ねることは今まで一度もなかったから。
「え、そこまではいいですよ。今支払える金額内で大丈夫なので」
その言葉に、頭が痛くなる。手持ちの金額で良いなど馬鹿げてる。それこそ一般人が一生働いて買えるかどうかの金額が妥当な代物だ。
「これは、はっきり言って高い。一般の人間が持っているものじゃない。そんなことを言っていたら悪人に騙されるぞ」
「ふふ、お客さんは悪人じゃないんでしょ?なら問題ないですよ」
「問題、あるだろ。現に今俺に安く買い叩かれそうになってる」
俺の言葉にも彼女は楽しそうに笑うばかり。なぜ。俺を目の前にしてそんなふうに笑える。
「私、本当にここに来たばかりで、今まで商売なんてしたこともないんです。だから本当は宿代だっていくらにしたらいいかわからないし」
「そんな状況で店を開くな…」
金銭感覚の欠如。どこぞの金持ちの令嬢が、遊び半分で宿を開いた、そのあたりだろうか。その予想は彼女によって否定される。
「無一文なのでとりあえずお金が欲しくて」
言葉の中に嘘はなさそうだ。だが、ならば彼女はなぜここまで世間に疎い。少し前まで金持ちだったが、没落でもしたというのだろうか。もしくは、彼女は娼婦でこれを貢いだ人間がいるとでもいうのか。無闇矢鱈に想像したところで詮無きことだ。
俺はなぜ彼女を娼婦だなどと…。ああ、そうか。心の中でそれを望んでいるのか俺は。もし、そうであれば、彼女に触れられる。彼女は俺を姿形で判断しない者だから。もしかしたら、と。
「だから、そういうことを言うな。良からぬ考えの奴を集める」
「お客さんっていい人ですね」
そして、俺は自らの考えを嘲笑う。たとえ彼女が娼婦でも客を選ぶ権利はある。化け物のような俺に触れられたいと思うはずがなかった。
「どうしても気になると言うなら、宿屋の値段を一緒に考えてくれませんか?」
「だから、客の俺にそんなことを決めさせるな」
「でも、今頼れるのお客さんしかいないし」
世間を知らない彼女があまりに危うく見え、俺は何度も苦言を呈す。彼女はどこ吹く風というように俺に笑いかける。俺が醜い顔を更にしかめてもその笑みが歪むことはない。出会ったばかりの俺のどこに彼女は信頼を寄せているのか、全くわからなかった。
「そもそも…若い女一人で宿を開くなんて危険すぎる」
「私、この家しか持ってないし、何も出来ないので宿くらいしか思いつかなくて」
「危険だとは思わないのか」
「でも生きていくためには仕方ないですよ」
彼女のあっけらかんとした物言いに俺はとうとう何も言えなくなった。生きていくため、ならば、身を売ることも仕方ないと言っているように聞こえてくる。とっくに限界を超えている俺の頭は馬鹿なことばかり巡っては消える。
「…なら、宿泊費はできるだけ高く設定するべきだ。馬鹿な奴らが不用意に入ってこれない程度に」
「そうですね」
俺は悩みながら高級宿屋並みの金額を提示した。素泊まりでこの値段はもはやぼったくりだろう。
「これくらいでどうだ?」
「はい。それにします」
「あ、んたなぁ。だから、そう簡単に人間を信じるな」
彼女は俺の言葉に疑うこともせず迷う素振りもない。本当に何も知らないように見えた。今までどれほど守られて生きてきたのだろうか。その稀有な無垢さはきっとこれから汚い人間によって簡単に汚されてしまうだろう。その時、彼女はどれほど傷つくのだろうか。疑うことを知らず、信じて裏切られた経験のない彼女には、今俺の言う言葉は理解できないのかもしれない。
「でも、お客さんは信頼できそうですし。それよりも早くお薬飲んでください」
彼女に促され、俺は回復薬をあおった。強烈な苦味に顔をしかめる。そして、数秒後には俺に付けられていた傷は跡形もなく消えていた。傷つけられた臓器も恐らく修復されているだろう。全身にみなぎる魔力、疲労感は跡形もなく消失していた。
「助かった。礼を言う」
「いいですよ。私の初めてのお客さんがあなたでよかった」
彼女はふわりと笑って、もう休みましょうと告げる。俺が、初めての客で良かったと、そう言ってくれた。彼女の今は柔らかな眼差しが、これから俺を写して嫌悪に歪むようになるかもしれない。人は変わる。汚いものに晒されて、彼女の優しい心が傷つくのは目に見えている。
「俺は、ストワル。あんたの為なら何でもする。だから…」
「じゃあ、私のお友達になってくれませんか?」
彼女は再び俺の近くに寄ってきて握手を求めた。小さく柔らかい手に触れる。僅かな罪悪感とともに俺は頷いた。




