エピローグ
そして、僕らは三週間の後、ひっそりと神に告げ正式な夫婦となった。
この証がこの先、誰にも手の出せない、二度と奪われる心配のない確かもので、僕らを守ってくれる。
僕がキスできたのはその時が初めてで、理由を知っているライアは、文句を言わずに待っていてくれた。
本当は、汽車の中でそんな雰囲気になった流れでしても良かったんだけど、やっぱりしっかりしておきたくて、正式に認められてからにしたかった。笑ってしまうような、つまらないケジメ。
だけど、ライアはそれをちゃんと受け止めてくれた。
そのせいなのか、待たせ続けた僕がやっとキスをした瞬間、ライアはボロボロ泣き出したのを、僕はいつまでも忘れられそうにない。今までどのくらい、我慢をさせてきただろう。
「もう、気持ちを止めなくても良いだよね」
ライアの瞳からは、止めどなく涙は流れ続けた。
僕らが夫婦になれることを、誰が想像できただろう?
少なくても逃げ続けた僕には、そんな未来、来るなんて到底思えなかった。
それが今、確かにライアの唇に重ねることができた。
それから、空き家を使わしてもらえる村をなんとか探して、根を下ろす場所を見つけた。喧騒も無く静かで、あるのは羊の鳴き声くらいだろう。空は、別荘へ家族で行った時に見た、澄んだ青が空いっぱいに広がる村だった。ライアの瞳の色と同じだ。
野菜作りなんて、孤児院の小さな庭先でしかやったことがないから、本格的な農業は思ったよりも難しかった。隣近所に教えてもらいながら、農業や羊の育て方を見様見真似で覚え、嵐のように過ぎた一年。
知識や身体が慣れ、さらに畑仕事に精を出した二年。
こうして、この村に来てまる三年が経ち、自分たちでも羊を二匹だけ飼い始めながら、生活も少し安定して来た。
そして同じ年の三年目の半ば頃。
僕のために歌っていたライアの歌声は、お腹の子にも聴かせ始めた。優しい、寝かしつけるような、静かで、温かい歌を。
まだお腹は大きくなっていなくて、産まれそうにないのに、撫でながらお腹に向かって話しかけている。
それを見て、心の奥から、ある強い思いが湧き上がってくるのを感じた。
僕にも同じように産まれてきた事を、歓迎されていた時が、確かにあったんじゃないかと……。
ライアのお腹に触ってもまだ、実感もないし、良く分からないけど。だけど、ライアは既に"母親"の眼をしていて、たくましい。だから確かに、赤ん坊は中にいるんだと少しずつ僕も自覚して来た。
そこにいるのは僕とライアの子で、柄にもなく自慢したくなるような、ライアを抱き抱えてクルクルと回りたくなるような、浮ついた思いが勝手に湧いてくる。
母さんは、きっと状況的に僕がお腹に居ることがわかった時は、戸惑っただろう。それでも、僕が生まれてくるのを心待ちにしていた時間が、一瞬でもあったはずだと、不思議と思えた。
僕が、ライアのお腹の子に思うのと同じように、かけがえのない我が子だ、と。
「じゃ、行ってくる。なるべく早く戻るから」
玄関で立ち止まって振り返ると、此処まで来る元気がないようで二人用ソファーに寝そべったまま、手を振られた。
すごく気分が悪そうで、辛いのが伝わってくる。代わってあげたいけど、そうもいかなくわけもなく。男には何も出来ないから、畑に行く事にした。
この時期は、日中は熱くなってきたので収穫も早朝が良いらしく、日が昇ると前後に畑に向かった。この時間の村は静かなものだ。だけど、朝早いのは珍しいものじゃない。
畑に行く前に、二匹だけいる羊の小屋に寄って居ると、後ろから男の声がした。
「よぉ! フロン、これ持ってけ」
「おはようございます」
「あぁ。これな、たった今採ったタマゴなんだ。ライアに食わせてやってくれ。滋養あるもん食わなきゃいかんだろ?」
豪快に笑うこのおじさんは、気前が良い。と言うよりも、この村は毎日誰かは僕らに「お腹の子に」と言いながら、採りたてのものをわけてくれる。全員にライアに子供ができたことを直接伝えたわけでもないのに、気づけば2日かからず知られていたほどだ。流石、田舎だなと思う。
ついでに言うと、「なに三年かかってるんだよ!」とか、そこまで怒られなくても「あー、やっとなのね」と主婦たちには、嘆息混じりと、時には、にこにこしながら、言われたものだ。……こっちにもいろいろ準備があるんだ、と言いたい。
真面目な話、農業は天候が左右するから、一昨年と去年でやや実の成り方が変わってしまうので、不安もあった。口減らしは、どうしても避けたかったし。ロンドンの孤児院にいる幼い子達も、もとは農村の子だった子もいて、それを思い出すと他人事じゃなかった。孤児を僕らが増やすような真似、どうしたらできるのか。
それが、僕とライアで話し合った結果、子供を作るのを遅くらした理由だった。
「ありがたく、頂きます」
差し出されたカゴの中に、タマゴが6個。
「でも、今はつわりらしいから、折角食べても吐いちゃってるんですよね」
「でも、食べれる時に食べさせてやれ! じゃないと、どんどん弱っちまう」
歓迎されているのは、僕もライアもかと思うと、夏の暑さとは別に身体の奥が熱くなるような、目頭が熱くなるような気がした。初めは何処の馬の骨とも分からない僕らを、こんな風に良くしてくれるなんて。
「それで、お前んとこはいつ産まれるんだっけ?」
「春頃です」
同時に、後ろ髪を引かれる気持ちにもなった。目の前にいる子を、自分の子だと言えずに過ごした日々のことを……。本当はどんなに言いたかったことだろうか。そして、今も、彼らは後悔している。僕も親として、今ならその辛い気持ちがよく分かる。
だからか突き動かされ、無性に会いに行きたくなった。
産まれてくるこの大切な子を抱えて、先生や母さんに「僕は幸せです」と報告しに。
今なら多分、心から笑って会いに行ける。




