ずっとこのまま、離さないで
まだ息苦しい呼吸を整えるために、息を吸ってからゆっくりと、ドアに手を置いた。広い蔵書室は思いの他、薄暗い。でも奥に一列だけ明かりが照らされていて、そこにフロンが居るのがわかった。
まるで、再会した時のよう。本を読みふける私の前に、フロンは現れた。今日はその逆で、調べ物に目を通す彼に私が声をかける。あの時、フロンはどんな気持ちで私を見つけてくれたの?
「……フロン!」
私の声に気づいて、フロンは書類から顔を上げた。見開いた眼を私から離さずに向ける。
目が合ったその瞬間ーー
考えるよりも早く駆け出して、私は自分の頭部をフロンの肩の下に預けてた。堅く抱きつきたかったけど、フロンを困らしたくないから、腕は背中に回せずに我慢した。それでも、これだけで私には十分。
「どうして、ライアが此処に…………?」
フロンの表情は私からは見えないけれど、戸惑っているみたいで、上半身に耳を寄せると鼓動は早く打っているのが聞こえてくる。
「……会いたかったよ。ーーずっと、何をしていても、フロンにっ」
「どうして、こんな危険なことをしたんだ! ライアから来るなんて」
「フロンの方が、何度も此処に来てくれたじゃない……っ! それに! 待つだけじゃ会えないから」
「僕が会いに行くのは良いんだよ。でもライアは……お願いだから無茶しないで。咎められるのは僕だけで良い」
無茶なんて、そんなのもう遅いの。アルバート様は、私がフロンと会っていたのを、気づいてしまったから……。だから、今、会いに行かなかったら、もう一生会えなくなってしまう。そのためだったら、なんだってするよ。
「ライア、何があった?! アルバート様は一緒じゃないのか?」
「私、アルバート様となんか結婚したくないっ! だけど、どうしたら……っ」
「ライア」
「アルバート様に触れられるのは、もう嫌なの! 手も、頬も、抱きしめられるのも。全部、イヤ! ……フロンじゃなきゃっ」
その先に続く想いを、言葉にしたかった。でも願うだけ難しいと分かって、虚しくさせられる。 願えば願うほど、叶わないと理解してしまう。
好きになったのは、私の勝手。だって、フロンが誘いかけるなんて、少しもしてこなかった。好意は全部、家族に向ける愛で、私のことも特別な愛でもない。きっぱり言われたもの。好きにはならないと。だから、それでも好きになってしまったのは、私が勝手に想ってるだけのことだから。
好きとか、それに繋がるような言葉をフロンに伝えたら、困らせてしまうのは分かってる。だけど、もう止められそうになかった。口から、心から、どんどん溢れてくる。気持ちを伝えて、嫌われ、今度こそ拒まれても、言わずにはいられない。
「私が一緒に居たいのはっ…………! ……ぇ? フロン?」
急に掴まれたような力を感じて、それがすぐにフロンの手首だと気づいたころには、抱きしめられていた。
それも、緩いものじゃなくて、きつくフロンは私を引き寄せている。何が起きてるの?
だって、フロンは私の手に触れる事さえ嫌うのに、こんなに隙間なく引き寄せられるなんて、考えられない。
なのにどうして。
抱きしめられただけで、幸せ過ぎて涙が止まらなくなるの。
「ど……どうして……フロン……? だって、フロンは……っ」
「落ち着いて、ライア」
「私のこと……好きにならないって……言ってたのに」
「僕にしか、触れてほしくないって言ったのはライアだろ?」
「……っ」
「ライアにまた会えたら、言おうと思ってたんだ。…………良かった。もう、会えないかと思った……」
私の耳だけに届くくらいの小さな声ご囁いた。安堵したフロンのため息が、意図せずに私の耳元に微かにかかる。顔を上げ覗くとフロンは、真剣な表情をしていた。落ち着いた小さな声で、本当に嘘みたいに安心してくる。
「逃げられるよ」
「で、でも、私が逃げたらみんながっ」
「酷な事を言うけど、ライアがこの屋敷に留まっても、みんなはあの家には戻って来る望みは、もう無いんだ」
「……っ」
「だけどマイケルは、生きるのを諦めるような子じゃないと思う。あいつが三っつの時で僕は出てしまったけど、ライアがいるあの家で育ったなら、心配は要らない。年長として弟や妹たちを守ったはずだよ。ウィルフレッドがそうだったように」
「……みんなは、生きてる……?」
「あぁ、きっと」
いつもよりも、優しく。不安になる私を宥めるようにフロンは言った。その声と、抱きしめられている温かさで、心から安心する。
「マイケルは一番最後に、孤児院を出たんじゃないか?」
「そう……なのかな」
「だとしたら、マイケルは年少たちを受け入れてくれる孤児院を探したはずだ。もう少し年上の弟たちには、働ける場所を探して、最後の一人が決まるまで、マイケルは送り出したと思うよ。……ライアが家族を守って来たのを、マイケルは見てきてんだから」
どんな状況だったかなんて、その場に居なきゃ本当のところは、分からない。だけど、まるでそうだったんじゃないかと思えてきた。そうだったら良いなって本当に思う。
「お金も食べ物も無くなり、飢えるのをみんなが、ただ待ってとは思えない。それよりも、死なないためにいち早く、行動する必要がある。家族がバラバラになってでも、生き延びる選択をマイケルはしていたんじゃないか?」
今までずっと、息苦しかったつっかえが、フロンの瞳は、力強くて吸い込まれそうになる。
「それに」
引きつけるように、フロンは言葉を止めて、一瞬、空気が静まり――……再び言った。
「旦那様に買われてなかったということは、契約は無効。ライアは自由ってことだ。つまり、何処にでも行ける。こんな所、好き好んで居続ける必要なんてない」
「……私は、ここに居る必要はない? そこまで考えてなかった……」
失敗して、私のせいでみんなを大変な目に合わせた事ばかり思ってて、それ以上は考えないようにしてた。考えてしまうと、どうしても息が苦しくなるから。その上、アルバート様に翻弄されて何から考えて良いのか分からなくなった。言われれば、私がここにいる理由なんて、もうないんだよね。
だけど、守るものが無くなった今、せっかく自由だって言われても、これからどこへ行けば良いか分からない。第一、フロンが居ない所に一人で行っても、意味がないよ。
隙間なく抱きしめていたのを少しだけ解いて、フロンの肩に埋もれていた私の顔に触れて、優しく涙を拭き取る。そして、私たちの間に隙間を作ると、フロンは腕を引っ張った。
「ライア、僕と一緒に」
その言葉だけで、何を誓ってくれるのか分かってしまう。
だけど、そんなの。
何かの間違えだって……。
「此処から逃げよう」
思わず、耳を疑った。頭が追いつかない。だって、フロンの口からそんなこと、言ってくれるはず無いって、ずっとずっと思ってから。
好きだ、と告げられただけじゃない。
その言葉は"一生"そばにいると約束してくれた誓いの言葉だった。
「全部捨てて、私と……、一緒に生きてくれるの……? 逃げるなんて、フロンが私に付き合う事なんて……っ 」
「捨てるもなにも、あの日から僕は何も持ってないよ。これから生きていく中で、僕の隣にライアがいて欲しいんだ」
「全部、私のせいなのに……っ。私だけ幸せになって良いの……っ?」
「……それは僕にだって守れなかった責任がある。ライアが悪かったんじゃない。ライアが居なかったらもっと前から、あの家は存続出来なかった。守り続けてたのは、ライアだよ」
そこまで言われて、あの日扉越しで言ってくれた言葉を、急に霧が晴れるように思い出せた。幻でも夢でもなかったんだって、やっと思えた。あの時、フロンは"愛してる"と言ってくれたことを、はっきりと。
「せめて、ライアの事は守らせて……」
私は頭ごと肩に押し込められて、フロンに埋もれる形となる。過去を後悔するように、フロンは深いため息を吐いた。その息遣いから、そのまま想いが伝わってきた。
そして、ぽたりと私の頬に水滴が伝う。
「もう、ライアの前から居なくなったりしないから」
「泣いてるの、フロン……?」
「アルバート様には渡さない」
そう言うと、ちょっと照れくさくしているフロンが、可愛く見えた。そんな事は、本人にはナイショだけど。
「さっきライアは、自分だけ幸せになれないって言ったけど。苦労するのは、僕たちも同じだよ。楽な暮らしができないのは、覚悟して欲しい。……それでも、僕に付いてきてくれる?」
「……っ、どんな苦労だって、フロンと一緒なら」
声にならなるかならないかの、小さな声で頷いた。久しぶりにやっと心から笑えた気がする。
フロンが私の頬に触れるのが、初めての感触で、それだけ幸せ。
あぁ、やっとフロンが傍に居てくれる。夢じゃない。もう、離れたくない。このまま時間が止まってしまえば良いのにーー。
手を引かれた瞬間だった。
遠くの方で。多分、ドアの反対側からガチャガチャと鍵を開ける音と「早く開けろ!」と怒鳴るアルバート様の声がした。
血の気が一気に引く。
見渡しても本棚しかなくて、身を隠し通せる場所なんてどこにも無かった。
「ライア!」
私はフロンに引っ張られ、庇うように再び抱きしめられた。怖くて心臓が異常に早く鼓動する。私の頭の上で、息を殺したフロンの微かな呼吸が聞こえた。鼓動の音も、耳を寄せると聞こえる。その音が、ますます、私たちの緊張感を強めた。
そして、走る音は、躊躇いもなく真っ直ぐにこちらに向かって、ますます近づいてくる……。
「今すぐライアから、離れろ! よくも俺を出し抜いてくれたなぁ!」
低くく怒った声でアルバート様は叫び、私たちの間に入ると、フロンの手を離したく無くて、しっかり握っていたのに、あっという間に引き離されてしまった……。




