兄の心に妹の歌声が生き続けている
寒くて凍えそうだった身体も、薬のおかげで落ち着いてきた。熱は相変わらず私の中に居座っているけど。
アルバート様は、たひたび私の部屋に様子を見に来た。と言っても、この部屋は亡くなったお嬢様がかつて使っていたらしいけど、そんな場所に私が入って良いのだろうと思う。この屋敷に来た日、奥様はこの部屋を使わすことを断固として反対していた。私は奥様から遠く離れた部屋を用意されたので、どうしても萎縮してまう。この部屋は、奥様の部屋にも近いし、それからアルバート様の部屋は真隣だから……。
来た最初の日に、奥様に言われた。
"そう……。来てしまったものは、仕方ないわね"と。
手で顔を覆って落胆していた。そして、廊下を歩いていると、階段の手すりを拭いているメイドさんが居た。奥様は、"あなたで、良いわ。この娘のことを任せるわ"と、思いつきのように軽い口調で言う。その女性は、"ですが、奥様。私は侍女をした経験はありません。任せるなら、もっと長くこの屋敷にいる使用人の方がよろしいかと……"
だからよ。勿体ないでしょ、と奥様は押し通した。
そのメイドが、サラさん。至らない事を申し訳なさそうにしていたけど、私は付き添ってくれるだけで充分。だって、私は貴族のお嬢様でもなんでもなかったのに。
奥様は、また私に言う。
「あなたが来てから、余計に眠れなくなったわ。歌わないでちょうだい。あの子の歌声を塗り潰そうとしないで!」
悲痛に叫んだ、その言葉と音が耳から離れない。
だったら、どうしてわたしはここに連れてこられたの?
意味はどこにあるの。
私の価値はあるの。
私はただ、歌で喜んで欲しいだけ。
それでも、歌が必要とされなくても、買われたお金で妹や弟たちがあの家で元気に過ごしてるなら、私はそれで良いと言い聞かせてた。
意味ならある。
ここにいるのは弟たちの生活のため。
それから、唯一許されたのは静かな早朝の時間。奥様の部屋から離れた誰もいない蔵書室で、ひっそりと歌う朝の時間が、私の安らぎだった。
いつまでも続くと思って居た何もない、本当に無のような生活で、まさか……。
まさか、フロンとこの屋敷で会えるなんて、思いもしなかった。
もう会えないと思っていた。
会う手段なんて、本当になかったのに。
なのに、こんな所で……。
この再会が、どのくらい私を励ましてくれたか分からない。フロンは変わってなんかいなかった。
居てくれてるおかげで、私は強くなれた。
やがて、旦那様も奥様に気を遣うように、奥様の外出している時だけ、私を呼び寄せて、歌うように部屋に招かれる。
そしていつか、旦那様が少しずつ私のことを呼ばなくなって、この屋敷から忘れ去られても、奥様から歌を拒まれても、ここにフロンが居て、会いに来てくれているなら、それだけで、私は幸せでいられた。
熱の残る夢と現実の間で、私はまだ溺れてた。身体が弱くなると、心まで沈むから嫌になってしまう。
そんな私を、アルバート様は心配なのかベットの横に椅子を置き、寄り添うように傍に居た。サラさんが居てくれるから大丈夫です、と言ってもアルバート様は聞き耳持たず。
「アンジェリカも、病気を患ってからはこんな風に寝込んでいたのを思い出すよ……」
悲しげな顔。
…….アンジェリカ様は多分、そのまま治すことができず為す術もないままに亡くなってしまったのね。
「私は大丈夫ですよ。ただの風邪ですから」
「侮ってはいけないよ。肺炎にだってなるんだ」
アルバート様はそう言って、私を寝かしつけた。それに度々、お医者さまを呼んでくれている。
**
「なんの価値もない人間を悠長に置いておくつもりはもうない!」
サラさんが剥いてくれたリンゴを一切れ口に入れた時、騒々しく部屋のドアが開けられた。荒々しく怒りを顕にしている旦那様と、その後を追うようにアルバート様もまた私の居る部屋へと慌ただしく入って来た。ノックも無しに入ってくるから、本当に突然でまだびっくりしている。
「何事ですか、旦那様」
サラさんは動作をすっと、止めると横に控える。
「父さん! また"娘"を見捨てるのか?!」
「なにぃ」
「そうじゃないか。代わりに連れて来たのに、使えなくなったら切り捨てるなんて、アンジェリカの時と一緒だ!」
いつになくアルバート様は、怒ってらっしゃる。
「そもそも、間違ってたのだ」
「今更なにを言ってるんです、父さん」
「何か変わると思っていたが、とんだ誤算だ。所詮、小娘だな。歌声だけが取り柄だと言うのに、声が出なきゃ何が残るというのか」
私の歌で奥様を元気にさせるはずだった。それは功を奏さず、むしろ屋敷の雰囲気は悪くなった。奥様は、私を連れて来た旦那様に対しても呆れてしまったみだいだし。
「上手くいかないものだな。もう値打ちも無く、誰も欲しがらない。お前の声で魅了された貴族どもに売りつけようとした途端、歌えなくなるなど忌々しい奴め」
それだけは嫌です。フロンに会えなくなってしまうなんて。私は屋敷に居たいです。
言いたかったけど、小娘の私に口を挟むことを旦那様は一切許さない。
鋭く睨む視線は、深く刺さる。
“アレ”と呼ばれて、人間では無い言われ方に涙が滲みかけ、垂れないようにぎゅっと口を噛んだ。
「なんだ! その顔はっ!! 口答えをするな」
その瞬間、拳が振り上がり思わず、眼をつぶった。
「父さん!」
その声と共に、身体を引っ張られて叩かられる代わりに、何かに触れたような気がした。恐る恐る目を開けてみるとアルバート様の腕に抱きしめられていた。
「父さんはいつもそうだ。死んでいくアンにも優しくなんかしてやらなかった。俺はまだ、その事を許してませんからね」
「また、お前はこの父に反抗するのか」
「えぇ、子供が簡単に従うと思うなら痛い目見ますよ。父さんがライアを毛嫌いするなら、俺はライアを笑顔にさせる」
「はっ、馬鹿な事を」
「そして彼女の声を出させ、歌えるようにしますよ。黙って俺に任せてくれませんか、父さん?」
「アレに手間をかけるな」
「今の状態で居るより、ましだ。またライアが歌えるなら、父さんだって悪い話じゃないはずです」
旦那様が少し考えたあと、私の件は私の監視をする条件でアルバート様に一時預けるとし、部屋を出ていかれた。
「あ、あの。これ……」
旦那様から守ってくれていたとは言っても、腕の中に今も収められてていて、なんだか気が休まらない。
「あぁ。すまない、つい」
「いえ、先程はありがとうございます……」
「ライア様が歌えるようになったら、旦那様はまた何処かにやってしまいませんか」
「そうだな。父さんは諦めてないだろう。時間を稼いでる間に、なんとかするさ」
アルバート様は笑って、励ますように私の頭を撫でる。そうやっていつも妹のアンジェリカ様にも接していたかな。
「父さんには、あぁ言ったが、俺もライアの歌声を聴いてみたい。まだ聴いたことが無いからな」
「そう言って下さるのは、嬉しいですが、……どうしても歌う気になれなくて……」
「どうしてだい?」
……私の歌で家族を守れると信じていたのに、失敗してしまったから。きっとまた何かを失ってしまいそうで、怖い。
「……っ」
言いたくないと首を振ると、アルバート様はそれ以上は責めなかった。サラさんもそっと私の背中をさする。
「妹も歌うのが好きだった」
「はい。そう聞いてます」
「アンはそれはもう、楽しそうに歌っていたよ。できることなら、もう一度聴きたい」
屋敷の中でアンジェリカ様の事を忘れられないのは、奥様とばかり思っていたけど、ひょっとするとアルバート様も同じくらい……。それ以上な気がした。
「ライアも、そんな歌い方をしていたんだろね」
アルバート様は私の頬に触れる。
まるで、……奪われていく感じがした。フロンに抱きとめられたことも、頬に触れられたこともないのに。初めて男の人に触れられる鈍い感覚を、全て、アルバート様が奪っていく。
「聴いてみたいな。君の……ライアの本当の歌声を」
「……っ」
「どうしたら歌う気になれるかい? やっぱり楽しくなきゃ、気持ちものらないか」
んー、と何かを考えるように苦笑したアルバート様は、思いついたようにピアノの鍵盤を人差し指だけで、押して音を出した。
「そうだ。昔、ピアノを嗜んでいたよ。あの頃は俺がピアノを。アンジェリカがそれに合わせて歌ったものだ。音楽も合わさるとライアも、気分よく歌えるようになるんじゃないかな」
「アルバート様は、そんなに私の歌を聴きたいのですか」
「そりゃ、もちろん」
晴れ空と同じ澄みきった目で言われたのは、久しぶりだった。今、間の前にいるのがフロンだったら良いのに。そしたら私は、今すぐ歌えると思う。
だけど、やっぱり。私はもう歌う勇気が出ない……。
アルバート様は少しするとアンジェリカ様の事を話し始めた。ずっと残り続ける苛立ちを、誰かに聞いて欲しいのだと思って、私は静かに耳を傾ける。
お嬢様には婚約者がいらっしゃった。
それも親が決めた相手ではなく、お嬢様がご自分で心に決めた方が。
アルバート様とテニスをしに出かけた時に、出会ったそうです。そして、また舞踏会でもまた会った。まだ不慣れだったアンジェリカ様のダンスに付き合うように、度々踊ってくださっていた。
アンジェリカ様はお出かけに誘われるようにもなり、交際が始まり、旦那様も相手に不足はないとそれを許した。そして、順調に進み婚約を果たす。幸せそうな様子はアンジェリカ様の歌声が物語っていたと、アルバート様は言う。
けれど、ほどなくしてアンジェリカ様は病気を患った。治らないまま寝込んでも、恋人はお見舞いに一度も来てはくれなかったらしい。難しい病気だと知った途端に、あいつは怖気づいたんだとアルバート様は妹を思い、男の居る屋敷へと乗り込んだ。
そして、言い渡されたのは婚約破棄。
アンジェリカ様は、それを知っても笑って歌ってたそうです。
亡くなる最後まで、辛いだろうに力の入らない声でそれでもずっと歌い続けていた。奥様は日に日に衰弱していくアンジェリカ様を見ては泣き暮れてた、と。
「アンは俺に言ったよ。"お兄様が怒って下さるだけで、嬉しい"と。あいつの事を恨みもせずに。…….妹が不憫でならない。愚かな男を好きになるなんて」
本当に妹を愛していたのか?
結婚は利害的なものだったんじゃないか?
どうして、会ってやらなかったのか?
まして、生きてるうちに破棄するなどーー。
アルバート様の憤りはもっともです。
愛していなかったとは、考えたくない。アンジェリカ様があまりにも可哀想。
不意に浮かぶのは、フロンが話してくれた両親の事だった。お互いに好きだったけれど、望む結婚はできなかったこと。もしかしたら、アンジェリカ様の婚約者も親に逆らえなかったんじゃないか。本当は愛していたって……。
私はそう思いたかった。
「父さんも、酷いもんだ。婚約を破棄されるとは恥さらしだと、アンを叱っていた」
「怒る相手が違いますよね」
「あぁ。そうだ」
「ーーだから、ライア」
アルバート様は、切に誓う。
「君の幸せを、願っているよ。君を悲しませる全てを排除し、俺が守ろう」




