夢の底に沈む
しばらくライア視点です。
物置で壁越しにフロンと話した後の時間に戻ります。ライアの頭が混乱してるので、途中でさらに話が遡ったりしますので、読みづらかったらすみません!
頭が痛くて。身体が重い。
目がグルグルと回って、まるで、渦に巻き込まれてるみたいだった。
寒くて、瞼が開かない。
海の底に、どんどん沈んでいく。
苦しいのに、息が吸えなくて。
助けを呼びたいのに、声が出ない。
水の中は、寒くて寒くて、凍えそう……。
ーー……イア。ライア……。
微かに聞こえてくる声は、フロンなの?
ーーライア様。ライア様!
身体を揺さぶられて、そこで目を覚ます。
「ん……。ふ、フロン! ……フロン……は?」
「おはようございます、ライア様。彼はこの場にはいませんよ」
この部屋は光が入らなくて、時間なんて分からなかった。もう朝になったみたいね。昨夜のことを思い出そうとしても、記憶が曖昧で、フロンとしゃべったことは覚えているのに。だけど。何を言ってくれたのか、私が何をしゃべったったのか、ちゃんとは思い出せない……。まるで、昨夜のことが夢の中のできごとみたいに思える。
「何か話したのですか?」
「フロンの声が聞けたら、少しだけほっとしたことしか、思い出せなくて……」
「……そうですか。でも、落ち着かれたようなので、良かったです。孤児院のことがあってから、取り乱していらっしゃったので」
サラさんは少しだけ安心したように笑った。本当に私の事を心配してくれている。
「……でも、どうして、フロンがこの場所を?」
「さぁ。どうしてですかね」
「もしかして、サラさんが……?」
「内緒です」
サラさんはそう言って、口の端だけ笑った。
それにしても昨日の夜、泣きすぎちゃったせいなのか、頭が痛くてぼーっとしてしまう。おまけに起きてもまだ、全身が痛い。地べたに座ってるだけでも、ままらなくて壁に倒れかかる。
「顔色が優れませんね。大丈夫ですか?」
「サラさん……。なんだか、私、起きてられなくて……」
「ライア様、失礼します」
じっとサラさんは私を見つめると、ふいに手を伸ばしておでこに触れた。サラさんの手はひんやりとして、なんだか気持ち良かった。
「……やはり。熱がありますね。こんな物置に入れられては無理もありません。トーマスさんにかけあってみますね。すぐに戻りますので、少しの間、待っていて下さい」
そう言うと、サラさんはその場をあとにした。それから、どのくらい経ったか分からないけど、どうしても起きていられなくて、私は瞼を閉じてしまった。
「こちらです、アルバート様」
「大丈夫か」
また誰が私に呼びかけてる……。
「しっかりするんだ」
「……っ」
揺り起こされて、重い瞼を開けると誰か……男の人が目の前にいるのが分かった。ぼんやりとした視界で、焦点が合わなくて、それが誰なのか分からない。
知らない人……。
「父と母が悪いことをしたね。すぐに此処から出して上げるから。医者もすぐ呼ぼう」
廊下からの光が、この部屋に差し込めて、ほっとした。なんとなく、なんとなくだけど、身体を抱き上げられてる気がする。人肌のようなものを感じて、うっすらと眼を開けると男の人に運ばれてるみたいだった。知らない人にぎゅっと抱きしめられているのに、これがどういうことなのか、それ以上考えようとしても、頭が働かなくて、また私は男の人の肩を借り、歩く振動に揺られながら、眠くなってしまった。
どこに運ばれてるのか分からないのに、担がれてるまま、抵抗しないなんて、どうかしてるって自分でも、少し思う。
だけど、気怠るくて、指を動かすことも、瞼を開けることさえ、勝てそうにないみたい。
:
:
:
気づけば目の前に広がるのは、大きな海の真ん中。
ガラスのビンに入れられて、叫んでも届かなくて、海の波に流されて、前に読んだアリスに、まるでなったみたい。目が回りそうで、そして、急にどこかに投げ出されて、地面に身体を打った。
痛みが落ち着くと、私は起き上がった。
走っても、
走っても、
暗闇しかなくて。広い空間がどこまでも続いている。
息が切れても、走り続けて、
ただ私は、ひたすら何かを探してた。
何処にもいない。
何もない。
広がる世界は、途方もなかった。
だけど、遥か彼方にやっと家を見つけた。
それは、私の良く知っている孤児院。でもそこには誰もいなかった。
「フロン……どこにいるの」
声に出してから気付かされる。もっと前からここには居るはずもないのに、どうしていつも、探してしまうんだろうね。
きっとフロンは、私に好きな人ができても、気にもとめないんだと思う。もしも誰が、この孤児院を一緒に守って行こうって言って、何処にも行かない約束をしてくれた人が、私の前に現れたとしても。良かったねと、フロンは笑うんだろうな。
会いに来てくれない、手紙も私からは出させてくれないフロンは、私の状況なんて知る由もなく、この先も、お金を送り続けてくれる。
それとも、私が誰かと一緒になることも知ってても、フロンは変わらずにそうするつもりなのかもしれない。
それが悔しくて堪らない。
私は助けてもらうばかりで、フロンには何もしてあげられない。それなのに、他の誰かと幸せになりなよって、言われてるみたいで。
毎月、毎月。五年も欠かすこと無く、フロンはお金を孤児院に送ってくれた。私がお金のために、馬鹿なことをしないですむように。「外から守る」って約束してくれた通り、フロンは本当に遠くから、ずっと助けてくれているのが伝わってきて、すごく嬉しかった。
ここまでされて、忘れられるわけないのに。
フロンよりも好きな人なんて、できっこない。
だけど。
違う、そうじゃないの。
フロンは何にも分かってない。
そこまでしなくても良いから、私はただ、フロンに傍にいて欲しかった。
フロンがどうしても此処を出たい理由も、私を避けてる理由も分かってる。私には、フロンの心に入ることは叶わなかった。
だから、私は願うよ。
いつか。他の誰かがフロンの心を開けて、凍ったものを溶かしてくれる人に会えますようにって。そして、その女の人と幸せに暮らせるようにと――
私じゃない、他の誰でも良い。
フロンが傍に居て安心できる人が見つかることを、私はいつも祈ってるから。
だから。……だからね。気にしなくても良いの。もし本当に傍にいて苦痛にならない女の人が見つけられたなら、もう孤児院のことは気にしなくてもいいから。いつまでもお金を送り続けてくれなくても良いの。私もこれで終わりにするから。
「行かないでって、言えば良かったんじゃないの?」
ウィルが突然現れて言った。
「フロンの決めたことでしょ」
「……フロン兄が居ないなら、だったらオレがっ! オレがこの家に居て」
「ウィル。それはダメ。ウィルだってウィルの人生をちゃんと生きて。ここに長くいたら、いざお願いしても雇って貰えなくなるのよ」
そろそろウィルは働きに出ないと、いけない歳になっていた。子供の時に、何かしら仕事を身につけなきゃ生きていくのは難しい世界だから。
「でも! オレが出ていったら、何かあった時にどうするだよ。みんな妹やもっと幼い弟だけじゃん。誰がライア姉を守るだよ?」
叫び終えると、ウィルは急に沈んだ顔になった。
「フロン兄みたいには、頼りにならないオレが残っても、なんの意味もないかもしれないけど……」
「そうじゃないの。フロンは何処でも雇ってもらえると力がある。でも私達孤児は難しいでしょ」
ウィルにはウィルの人生がある。送り出して、そのあとにディナたちもやがて孤児院を去っていった。その間に、また新しい子たちが入って来て、気づけばあの末っ子だったマイケルが年長になった。
そして、空っぽになって静まり返った孤児院にマイケルが一人だけ現れて、悲しそうに目を伏せた。
「ライアお姉ちゃん、……ごめん。頑張ったけど、どうしようもなかったんだ」
守れなかったのは、私の方だよ。マイケルのせいなんかじゃない。悔しそうに震えるその肩を抱きしめようとしたけど、触れる前にマイケルは薄くなりながら、少しずつ消えてしまった。
それから……どこか安心するような感覚。左の手の平に、温かいものがあって、誰かが手を握っていてくれている。
誰の手?
私より大きな手は、きっとサラさんではなくて。
だけど、フロンなわけ絶対ありえなくて。だったらいったいあなたは誰なの?
:
:
:
恐る恐る目をゆっくり開けると、知らない男の人が居た。
「……っ」
「目が覚めたかい」
「……はい。あ、あの、貴方は……?」
「アルバートだ」
「アルバート……? アルバート様っ。あ、あのお見苦しいところを……っ」
聞き覚えのあるその名前は、確か、この家のご子息様だ! そう言えばサラさんが、今日帰ってくると言ってた。
「起き上がらなくていい。そのまま」
アルバート様は、私の肩を軽く押し返して寝ていなさい、と促した。失礼に思いつつ、それに甘えることにする。ずれてしまった氷水の袋を横で控えていたサラさんが、私のおでこに乗せ直した。
「サラ、薬の準備と胃に入れる何か食べれるものを持ってきてくれ」
「はい。畏まりました」
お辞儀をすると、サラさんは部屋を速やかに出たので、私はアルバート様と二人きりになった。
「まったく、父も母も揃って何を考えてるのか。二人は意見が普段合わないくせに、こういうときだけ合うんだからな。……まさか帰って来てこんな事になっていたとはなぁ。いくらなんでも、酷い仕打ちだ」
「……アルバート様」
「あぁ。事情はサラから聞いたよ。俺がまだ屋敷に居たのは、父さんがアンジュリカの代わりをすぐに探すと言い出した時だった。それに母さんだって、新しい娘をに気に入るわけがない。あいつの代わりになる人なんて居るはずないから、探すだけ無駄だと俺も反対したんだ」
「奥様は、お嬢様のことをとても大切に思われてますもんね」
「……すまない。きっと君に当たり、いろいろ言われただろう」
見透かしたように、アルバート様は奥様の代わりに謝った。
「……アルバート様が屋敷から出たのは……」
「父さんの命令さ。そんなのはもうどうってことはない。それよりも帰ってみたら、まさか本当に連れてこられてるとは、思わなかったが」
父さんもなかなか諦めが悪い。と、付け足すようにアルバート様は呟いた。
「でも、もう大丈夫だ。此処に居る間は君を辛い目に合わせないように俺が盾になろう」
「…………そんなことをしたら、またアルバート様と旦那様が喧嘩になってしまうのでは…」
「妹と歳も変わらないお嬢さんが、こんな目に遭ってるのを知っていながら、見て見ぬふりをしたら、夢の中でアンになんて言われるか」
やれやれと、肩を落として笑う。
「それに、君が辛そうにしてると、まるでアンが辛そうな顔をしてる気がしてならない……」
アルバート様が悼むアンジュリカ様というのは、どんな方だったのだろうと、ふと思う。旦那様には、私と雰囲気が似ていると言われたけど……。貴族のお嬢様と私では、とても似ても似つかないと思うのに。
「まだ名前を訊いていなかったね。君の名前はなんて言うんだい?」
「……ライアです、アルバート様」
「そうか。良い名前だ」
爽やかで、堂々としていて、笑顔が精錬されている。アルバート様は、いろいろと不器用なフロンとは違い、隙のない完成されたような雰囲気の人だった。




