君は女の子なんだから
イーストエンドに出没した殺人鬼の話(新聞の情報としてなので、事件現場は出ません)が、作中にあるので少しグロい表現に注意して下さい。
Wikipediaさんありがとうございます。『』内の文は引用させて頂きました。
ライアは青い顔と怯えた目をして、祈るように両手の指を組んでいた。頭を撫でようと手を少し上げると、誤解されたようでライアは一瞬、凍りつく。
「……ごめん。急に怒鳴って」
まだ少し怖さが抜けないのか、ぎこちない手で、すがるように伸ばされた指先は一瞬、僕の手に触れかけてから僕の袖口を掴んだ。
「って!! フロン、血がまた出てるじゃない」
「あ、あぁ」
「ちょっと待ってて。ディナ呼んでくるね。あの子に手当てをしてもらってね?」
止血をやり直していると、ライアは立ち上がってキッチンへと向かおうとした。
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洗濯や掃除、家事などを教えられながら、あっという間に1日が過ぎようとしていた。夜の7時になる頃に、ライアは急に身なりの良い格好に着替えて出てきた。まるで、誰かに会うようなおめかしまでしている。
「ちょっと行ってくるね。少しの間、この家のことを任せても良い?」
「え? こんな時間に、何処に出かけんの? 誰かと待ち合わせ?」
「心配はしないで。ちょっと遅くなるけど今日中には帰って来れるし」
もう少し分かるように説明して欲しい。ちっとも分からない。でも他の子達をみると、ライアが今から家を出ると言っても、別に普通のそぶりで驚いてる様子もなかった。
「ライアお姉ちゃんはね、酒場で歌いに行くのよ。すっごい上手いんだから!」
「そうそう! 頑張って来てね!」
不思議に思っていると、横からディナとニーナが教えてくれた。この時間に出かけるのは、いつもの光景らしい。そう言えば、最初に会話した時に"私は此処で歌いたいから"って言ってたったけ。
「此処の生活は、ライアの歌でなんとかやって来てるってこと?」
「そんな大げさものじゃないよ?私は好きで歌ってるだけだし。そしたら、喜んでくれる人が居て、それでお金がもらえてるだけだし。ありがたいよね 」
「だけど、こんな時間に女の子が、それに1人で出かけるのは危ないよ」
「でも、私が歌いに行かなきゃ……、お金が無くなっゃう」
「だったら、僕が付き添う」
「良いよ、そんなの!いつも1人で出かけてるもん」
「だから! ライアはもっと危機感持った方が良いって! それに、僕が守るって約束しただろ」
「して……くれた、けどっ」
約束の話をすると、ライアは急に勢いを無くして静かになった。目を逸らし、もごもごとする。もう一押しかもしれない。
「それに、知ってるよね。ジャック・ザ・リッパーがまだ捕まってないのを」
「……えっと、おぼろげになら」
言いづらそうに答えた。怖がってくれるかと思って、例の男の名前を言ったのに何も思わないどころか、まさかそんなにも認識ないとは……。
「まさか、知らないのか。そいつのこと」
「市場とか酒場でもちょっと噂になってたかも。……ジャックっていう男の人が人を殺してるって」
「……そう。そいつだよ。ジャックは通称だ。名前も、何処の誰かも分からない、イーストエンドに現れる殺人鬼。もう何人も女性が無残にも殺されている」
「……っっ」
「娼婦しか狙われてないけど、ライアだって危ないかもしれないんだよ」
事の重大性を分かってくれたのか、やっとライアは言葉を失ったように押し黙った。ついでに、しゅんと小さくなっている。ライアは今朝僕が拳を握った時に、怖がっていたから、多分、こういう話も聞かせるだけで弱いんだと思う。新聞記事には『被害者はメスのような鋭利な刃物で喉を掻き切られ、その後、特定の臓器を摘出されている』と事件のありさまが詳しく書いてあったけど、こんな惨たらしい殺され方は、ライアには言わないことにしておこう。
「犯人はまだ捕まってはいない。別の誰かが真似してるのか、似たような殺害は今も続いてるから、気をつけないと」
一時は犯行予告まで新聞社に送りつけて、まるで警官と遊んでるかのように派手にやっていたらしいけど、今はぱったりなくなった。だけど、何ヶ所も女性が切り裂かれる事件は市民が忘れかけた頃に、思い出させるかのように未だに起きている。
「どう? 危険だって、分かったろ?」
「……う、……うん……」
「女の子が、夜道を1人で行くとか言ったちゃダメだからな。心配だから、ライアが断っても行き帰りは、これからずっと僕がついて行くよ」
「……うん……っ」
押しに負けたライアは、やっとゆっくりと首を縦に振ってくれた。怖がって顔色の悪かったライアの頬が、徐々に赤くなるのを見て、なんだか分からないけど見てられなくなって、つい目を逸らしてしまった。
そして逸らした目線の先に、ものすごく、ふくれっ面になっている長男坊が視界に居た。何か言いた気に睨まれつつ、何か弁解しようにも時間がないから、僕は厚手の上着を掴んで、ライアの腕を引っ張り逃げるように家を出た。
「ほら、行くぞ。ライア」
「ぇっ、待っ、フロン! 手が……」
そもそも、弁解ってなんだ。僕は別にやましいことをしていないから、言い開きをする必要もないはずなのに……。
外に出ると、家にいた時は気づかなかったけど、思ったよりも暗闇だった。
夜の街を、ガス灯がオレンジ色の光を放って、ぼんやりと道なりに沿って照らしている。まだ春にはならないこの季節は霧雨が多く、もやがかかったような、見通しの悪さが余計に灯りを淡くさせて、幻想的な雰囲気にさせた。
一方で、道の端や路地に目を向けると、家を借りることさえできない中年の男が、雨を避けながら座りこんでいたり。母親らしき女性もまた、赤ん坊をあやしながらその場を少しだけ行ったり来たり歩いている。そして、親の居ない幼い女の子はたった1人で、花束の入ったカゴを膝に抱え、歩き疲れたようにしゃがみこんでいる姿も。
そんな光景は、ロンドン市内じゃ珍しいものでもなかった。前から見ていたものだったけど。だけど、今ならその痛さがわか
たとえ殺人鬼と出くわさなくたって、ボケっと歩いてるなら、ひったくりに
チラリと横を並んで歩くライアをみながら、逆に奇跡なんじゃないかって思ってしまう。
「よく今まで、無事だったね」
「なんて言ったの? フロン」
「別に。なんでもないよ」
小さな声で、つい漏らしてしまった言葉を、きょとんと、不思議そうにライアは反応した。なにも分かってないライアに、僕だけが心配してるみたいで、なんだか1人で馬鹿みたいだと、思わずため息が出る。
「でも、フロンが一緒に来てくれたら、安心した。……本当は夜一人で歩くの、怖かったのかもしれない」
今までは頼れるとしたら、ウィルフレッドしかいないけど、ライアは弟を危険にはさらしたくないと思い、連れて行くつもりもなかったんだろう。ウィルフレッドが僕に怒ってたのは、そんな理由か。ライアは守ってもらうのを極端に拒むから。
……実際、1度は僕も断れたわけで。心配させまいとしていたライアのことを、怖がらせつつ、半強制に、強引に行かないと承諾してくれない。
「……あれ? いつもは走ってるって言ったど、もしかして、走って着く時間に今日も家を出たってこと? だったら、こんな風に会話しながら歩いてる場合じゃ、ないんじゃないか?!」
「あっ! そうだった!! フロン、走って!!!!」
この一言で、のんびりしていた空気は一変し、思い出したようにライアは走り出した。雨で濡れた石畳みにも足を取られず、慣れたもので、あっという間に僕を突き放していく。
「間に合うのかぁー?」
「分かんない! とにかく走ってー!!」
出遅れた僕もそれに続き、後を追いかけた。
こう見えて、ライアの足は意外に速かった。




