第1話「おかえり」前編
『ガチャガチャ』、この言葉に胸が躍っていた子供時代。
親から貰える一ヶ月のお小遣いとしては、少々高めの『百円玉』にすべての思いを込めて、入魂の如くレバーを廻す。
昔は『ハズレ』も存在し、落胆と共に『お粗末な景品』を持ち帰る者や、お小遣いを使い果たすまで、目的の景品を狙い続ける者もいた。
だが、時代の中で進化を続けて来たガチャガチャは、電子玩具や、高級フィギュアなど、百円を超え三百円、中には五百円や千円もする様なガチャガチャが、現代の日本で、更なる可能性を見出そうとしている。
だが、未だかつて見たこともないガチャガチャが、日本のどこかで存在している事を、あなたは知っているだろうか?
Πανδώρα―パンドラ― 第一話「おかえり」
由佳が死んだ。
凍てつく程に寒い夜。心電図が一定の機械音を鳴らす中、山上 隆生は、ただ呆然と、温もりを失ってゆく妻の亡骸の前で立ち尽くすしかなかった。
病名は肝臓ガン。
治療する術はあった。だが、一歳になる長男の修斗を産むのか、ガンの治療の為に産まないかの究極の選択を求められ、彼女は産む方を選んだのだ。
隆生としては、今回は子供を諦め、治療に専念して欲しかったが、由佳の強い思いと、この世の何よりも大事そうに見つめる膨らんだお腹を擦る姿を見ていると、治療後の奇跡に頼るしかなかったのだ。
結婚指輪が填められた由佳の手をそっと……ギュッと握り締める。
出会った頃、毎日のように握っていた手は、枯れ枝のように張りを失い、お互いに涙を流しながら填めた結婚指輪は、今では何かの拍子にスルリと抜け落ちる程だ。チャームポイントだった笑窪は無くなり頬がコケ、長く綺麗だった髪が全て抜けてしまった。これが抗癌剤の副作用の恐ろしさだ。
本当は、本人が体の変化に一番恐怖を感じていたはずなのに、隆生が修斗を連れてくると、いつも笑顔で笑っていた。
そんな闘病生活の苦しさ、由佳の闘いを見守ってきた隆生は、彼女の心が折れない為にずっと黙っていた言葉を口にした。
「よく頑張ったな……大丈夫……」
これまでの由佳との幸せの日々が脳裏を目まぐるしく駆け巡り、心に開いた穴から計り知れぬ程の喪失感と泣き叫ぶ悲鳴が、隆生の目から大粒の涙となって溢れ出した。
担当医は、死亡時刻を慣れた様子で隆生に告げると、今後の対応について看護師が説明を始めようと、歩み寄ってくる。
いつか来るかもしれないと心の準備をしていたが、実際にこうなると……看護師の言葉は理解する前に反対の耳から抜けていく、何も耳には入ってこなかった…………。
――そして、二年の月日が流れた。
三歳になる修斗と二人で由佳の墓前に立っていた。
手を合わせると、たわしで墓石を綺麗に磨き上げ、綺麗な水で洗い流す。そしてカスミソウと線香を手向けた。
墓石に填められたロケットを開くと、生前の由佳の安らかな笑顔が見る事が出来る。
「ママ、バイバイ」
修斗は、ロケットに無邪気なキスをすると、隆生の手を掴んだ。
「じゃあな。由佳」
そう言って、近所にある自宅まで歩いて帰っていると、古びれた駄菓子屋の前に黒いガチャガチャを発見した。
全面黒く塗られ、中も全く見えない不気味なガチャガチャ。
隆生は、大して興味が無かったが、修斗は隆生の手を離し謎の黒いガチャガチャの許へ走っていった。
「おい、修斗」
「パパ、ガチャガチャだよぉ」
「ダメだぞ修斗」
数ヶ月前に、ガチャガチャでヒーロー物のフィギュアを当てた日から、修斗はガチャガチャの虜になっていた。
初めは、可愛い修斗に何度もガチャガチャをさせていたが、我慢を覚えさせることも大切だと思い、最近はあえて小銭を渡さないようにしているのだ。
「パパ、一回、一回だけ」
「ダメだ、帰るぞ」
不貞腐れ、頬を膨らませる修斗の手を引っ張ると、晩御飯の食材を買うためにスーパーマーケットに寄った。
翌日、修斗を幼稚園に預けると隆生は会社へ向かった。
いつもの様に電車に揺られ、人混みに押されながら出社する。
そして、仕事が終われば急いで修斗を迎えに行く。
そんな日々の繰り返しだ。
隆生が幼稚園に到着すると、既に修斗の姿は見えなかった。
門前で中の様子を伺っていると、修斗の担任の先生が歩み寄ってきた。
「修斗君のお父さん」
「こんばんわ。あの、修斗は?」
「今日はお婆ちゃんが迎えに来られましたが」
「お袋が?」
「はい」
「解りました。ありがとう御座います」
隆生は、心配事があったのだ。
隆生の母は、孫に対して甘すぎるのだ。どこの孫を持つ両親もそうかも知れないが、オモチャにお菓子、修斗が欲しがる物は何でも買ってやるのだ。
母が居ない寂しさを察しての行為だとしても、少々度が過ぎると思う事がある。
集斗には、わがままな子供には育って欲しくない。
きっと由佳も同じ事を思うだろう。
その頃、修斗は、隆生の母が運転する車の中で、後部座席に山の様に積まれたオモチャを早く開けたい衝動に駆られていた。
初めて手にした持ち運びゲーム機で遊んでいると、車の前方に駄菓子屋と、黒いガチャガチャを見つけ、祖母に止まるよう頼んだ。
「ばあば。あれやりたい」
「何? 集斗」
車が、駄菓子屋の前で停車し、無我夢中で集斗がガチャガチャの前へと向かう。
全面黒塗りのガチャガチャ。
集斗の祖母が、目の前の不気味なガチャガチャに嫌悪感を抱きながらも、大切な孫の為だと財布を取り出した。
「気味が悪いねぇ。ちゃんとした物が入ってるのかい?」
集斗は、色々な角度から中の様子を伺おうとしたが、全てが真っ黒で何も見る事が出来ない。
「ねぇ、ばあば。早くぅ」
「はいはい、ちょっと待ってね」
そう言って、取り出した百円玉を掴み取ると、集斗はお金の投入口に百円玉を押し込みレバーを廻した。
プラスチックの乾いた衝突音が鳴り、吐出し口から黒いカプセルが現れた。
「ちょっと母さん。コレ買い過ぎだって」
自宅に運び込まれた大量のオモチャの箱に怒りを露にする隆生の横で、嬉しそうに、包装紙を一心不乱に破り捨てる集斗。
「良いじゃないの。それよりもアンタ。ちゃんとこの先の事考えてるの?」
「考えてるって何を?」
リビングのテーブル席に座る隆生の母につられ隆生が向かい側に座る。
「いつまで、集斗を一人にさせておくつもり? 幼稚園も最終まで居残りさせて。再婚とかぁ……考えないの? 今のあの子なら、まだ間に合うと思うわ」
そう言いながら、隆生の母は心配そうな視線を、無邪気にオモチャを振り回す修斗に向けた。
何も言えずに俯く隆生を見て、母が大きな溜息をついた。
「今のあの子に必要なのは母親よ。そりゃ……由佳ちゃんの事を引きずっている気持ちもわか「引きずってなんかいない!!」」
その言葉だけは、今の隆生にとっては我慢の出来ない言葉だった。図星だったが、いつまでも過去の事を引きずるような女々しい男とは思われたくないという、変なプライドがあったからかも知れない。
「ただ……由佳の事を裏切ってしまうような。母親の記憶や思い出が無い修斗が、後に母親だと信じていた相手が再婚相手だと知った時、どうなのか? とか……。でも母さんの言う通り、母親は必要だ。だけど、まだ気持ちの整理がつかないんだ」
「もう二年よ。あと何年待てば気持ちに整理が付くの? その時にあの子はいったい幾つ?」
隆生の母の気持ちも分かってはいた。今の修斗なら、再婚相手の事を純粋な母だと認識しやすい。だが時間が経つに連れ、そうは行かなくなってくる。
それを母は心配しているのだろう。
リビングの隅にある、ゴミ箱に捨てられている黒いカプセルの蓋が怪しく光っていた。
次の日は休日だったが、会社からの急な呼び出しがあり、修斗を家に残して隆生は会社に居た。
どうやら契約先の企業とのトラブルがあったみたいで、今後の対応などを決める会議が続いていた。
日も暮れ、隆生は急ぎ足でコンビニで弁当を二人分購入し、家に帰った。
鍵を開け、いつものように「ただいま」と修斗に告げる。
「おかえりなさい」「おかえり」
二人からの返事が聞こえた。
「また来てるのか母さん」と言いながら扉を開けると隆生は目を疑った。
修斗と一緒にオモチャで遊んでいる……由佳がそこに居たのだ。
これは幻覚なのか? 夢なのか? わけが解らずその場で硬直する隆生にエプロン姿の由佳が優しい笑顔を見せる。
「何、ボケっと立ってるの? ご飯出来てるよ」
そう言いながらリビングのテーブルの上にお皿を並べていく由佳を、目で追う隆生。
「冗談だろ? 幽霊?」
常識では考えられない事が起きている。
死んだはずの由佳が目の前にいる訳がない。
脳内が完全にパニックを起こし、全く動けなくなってしまった隆生を尻目に、修斗があどけない笑顔で、由佳に対し「ママ」と言いながら歩み寄っていく。
「ねぇ、早く座って」
そう言って、スーツ姿の隆生の肩に両手を乗せてリビングの椅子まで押してゆく由佳に対して、隆生は終始脅えた様子だった。
テーブルには、由佳の得意なクリームシチューが花柄のお皿に盛られており、カスミソウがガラスの花瓶に生けてある。由佳の墓にカスミソウを手向けたのも、由佳が大好きな花だからだ。
その向かい側で、シチューにパンを浸し、集斗の口に入れてあげる嬉しそうな由佳。
――幻覚とかでは無く、実態がある……。
隆生は、信じられない光景を必死で冷静に分析しようと試みる。
由佳が、スプーンでシチューを掬い、口に運ぶ。
これが夢でなければ何なのか?
「何ぼーっとしてるの? シチューが冷めちゃうよ」と言われ、隆生は、言われるがままにシチューをスプーンで掬い、震える手で口に流し込んだ。
甘い中にもコクがあり、大きくカットしたジャガイモと鳥肉はモモ肉のカット。たまねぎも隆生好みのぶつ切りにブロッコリーが入っている。
その味、匂いが、隆生の脳内に眠っていた記憶を呼び覚まし、目の前の由佳の存在が強固になっていった。
「どう?」
「う、うまい。うまいよ」
隆生は、一心不乱にクリームシチューを食べた。一口一口を噛み締める毎に、スープが喉を通る毎に、由佳との思い出が溢れ出し、疑惑や不信感が薄れていく。
目の前には由佳がいる。
そう思えるようになってきた。何故かは解らない。だが、解ろうとする必要は無くたって良い。
隆生は、由佳と結婚して、修斗を含めて、初めて三人で食卓を囲む、描いていた夢に浸っていった。
集斗を寝かしつけ、隆生と由佳はビールを飲みながらテレビを見ていた。
時折まだ、目の前の由佳は何なのか? と隆生は思う事があった。
テレビを見ながら無邪気に笑う彼女は生き返ったのか?
そんなありえない事を想像するしかなかった。
でも、仮にそうだとしたら、目の前の由佳は覚えているのだろうか?
ガンで死んでしまった事を。また、今の自分は墓に入って二年も経って現れた事もだ。
これだけは、間違いない真実なのだから。
その後、二人は体を重ね、お互いの温もりを確かめ合った。
由佳の濡れた唇、暖かい肌に触れ、彼女が生きている事を確信した。
シングルベッドの上で指を絡め、鼓動を感じながら……。
次の日、隆生が目を覚ますと、ベッドには自分一人だけだった。
時計を見た。
――「11:12」――
起き上がり、五畳程の部屋を見渡すが由佳の姿は無かった。夢だったのか?
「俺、夢……見てたのかなぁ」
隆生が寝室のある二階から一階のリビングに降りてくると、由佳が、スーパーの袋を両手に持ち、玄関から修斗と帰ってきた所だった。
隆生の姿を見て、由佳が笑顔で声を掛けてきた。
「おはよう。冷蔵庫の中、何も無いから色々買ってきちゃった」
その時、隆生は心でどこかに眠っていた疑惑や不安が一気に溢れ、口に出てしまった。
「バカッ!! 勝手に外へ出るなよ。お前はッ……」
そこで踏み止まった。
『お前は死んでいたんだぞ』など言える訳が無かった。その結果、目の前の由佳が傷つく姿など見たくなかったのだ。
「何?」と訊ねる由佳。
「とにかく、外へ出るんじゃない。食材も俺が会社の帰りに買うし、家でじっとしていてくれ」
近所の隣人や、スーパーの店員の親しい人は、由佳が亡くなった事を知っている。そこへ元気な由佳が現れでもしたらどんな事になるか?
考えるだけでも恐ろしい。
「その代わりと言っちゃなんだが、三人でディズニーランドでも行こう」
隆生の提案に由佳も修斗も大喜びした。
ディズニーランドに着くと、キャラメルポップコーンの入ったカップを修斗が首から下げ、色々なアトラクションに三人で乗った。
長い列に並び、前へと進むと、係員に「何名様ですか?」と聞かれ、隆生は咄嗟に出た二本の指に驚き三本にした。
二人だと言う事に慣れてしまっていたからだ、そんな失敗も今の隆生にとっては幸せだった。
これが家族なのだから。
そしてシンデレラ城の前で笑顔で記念撮影をした。
だが、満面の笑顔で撮ったこの写真が、最後の写真になるとは、この時の隆生には知る由も無かった。
後編へ続く