【第07話】 稽古②
【前回のあらすじ】
虐待ではありません。
指導です。
時間は順調に経過して、さらに三ヶ月ほどの月日が流れた。
肌に感じる季節も徐々に変化している。
転生者たちが持ち込んだ価値観に準じて、
この世界にも四季の概念があるらしく、
暦の上ではすでに夏。
朝露で湿った緑。
空から降り注ぐ心地よい陽光。
光合成によって濃くなった森の空気。
春に芽吹いた生命が育ち、生命を謳歌する、活力に満ちた季節だ。
『グギャァアアアアアアッ!』
「でもこれはさすがに生命力が溢れすぎぃいいいい!」
初夏の森に、獣と豚の絶叫が響き渡る。
『ガルルルルゥ! ガァッ!』
「ああもう近い近い! つーか息が生臭いんだよ!」
顔面に直に叩きつけられる湿り気を帯びた吐息。
耳朶を震わせる獰猛な唸り声。
あまりにも生々しい『生』に顔をしかめる俺の眼前には、
こちらを睨めつけるギラつく双眸があった。
全身を覆う硬質な獣毛。
ガリガリと大地を削る四肢。
口元から天を突く牙は興奮に打ち震えており、
正面から俺を射抜く双眸は捕食者のそれ。
前世でいう猪を凶悪に巨大化させたような外見の魔獣【ストンプボア】だ。
(さすが、猪突猛進のパワー馬鹿だな!)
ストンプボアは魔生樹から生み出される魔獣としては低位のものだ。
危険な魔法回路は有しておらず、火球などを発生させることはない。
だがそのぶん筋力に特化しており、単純な突進力は凄まじい。
容易に木の幹をへし折り、岩を砕く。
気性も荒いため、不運にも遭遇した旅人や荷車などを挽き潰すことで知られる凶暴な魔獣である。
「舐ッめんなぁーーー!」
『ギャルギャルギャルルゥウウウ!』
で、そんな猪型魔獣と、腰を落として正面からがっぷり組合っているのが俺の現状なワケです。ハイ。
いったいなんでこんな状況になっているのかって?
理由は先日まで遡る。
◇◆◇◆◇◆
「どらっしゃい!」
雄叫びとともに、ドンッ!
踏みしめた地面を陥没させ、拳を放つ。一撃では終わらない。右拳の次は入れ替わるように左拳。交代でまた右拳。繰り返す交代で左拳、と見せかけてフェイントからの蹴りと、止まらない。動作を繋ぐ。次々と連撃を積み重ねていく。
「ふん」
そうした猛攻を以てしても、応じる男からは退屈そうな嘆息。
事実、俺の攻撃は全て容易く受け流されてしまっている。
まあそれは想定内だ。
「まだまだぁ!」
脚力強化魔法である〈加速/アクセル〉と、
腕力強化魔法である〈増強/パンプス〉に加え、
神経強化魔法である〈知覚/タキオン〉と、
三つの強化魔法を重複発動させた俺は、ゆっくりと流れる色の褪せた視界のなかで、息継ぎの間も惜しみ絶えず手足を動かし続ける。
「ぶひィいいいいいいい!」
下方に受け流された拳の勢いを利用して、身体を反転。
独楽のように回転しながら頭上に回し蹴りを繰り出す。
左腕を掲げて防御された。
(ならばその腕に!)
俺は尻尾を絡みつかせた。
「ぬ?」
すぐさま腹筋と尻尾に力を込めて、体幹を制御。
宙に浮いていた身体を移動。
直後にビュオンと、振り下ろされた男の右拳が頭上で空を切った。
「むんっ!」
安堵の暇もなく俺は尻尾を腕、左腕を鉄棒に見立てて、逆上がりの要領で男の頭上へと移動して拳を叩き込もうとするが……
「猪口才な!」
その前に尻尾が絡んだ左腕を振りかぶられて、
強引に身体を引き剥がされてしまう。
「ッ!」
拳は勢いを止められず、虚空を振り抜いてしまった。
背後に悪寒。
反射的に身体が強ばるが、この流れを止めては逆に駄目だ。
咄嗟にそう判断した俺は相手の腕から尻尾を離して、
空中でさらにもう半回転ほど身体を捻る。
「んだらっ!」
ゴッ!
ほとんど勘を頼りに繰り出した後ろ回し蹴りが、奇跡的に、こちらの背を打ち抜こうしていた男の右拳を迎撃してくれた。
(あ、あぶねぇ……)
遅れて背に冷や汗が滲む。
「ほう、よく今のを防いだで御座るな」
拳を蹴りつけた反動を利用して距離をとった俺は、
空中で姿勢を立て直してそのまま着地。
直後に魔法回路に注入していた魔力が尽きて、
重複発動していた魔法が消失。
視界に色が戻り、全身にかかる重力が増したような感覚。
ビキッ。ピキキキキ……ッ!
(ッ! い、いってぇ……っ!)
直後に全身を苛み始める激痛。
肉体の芯からじわじわ広がるような、
重度の筋肉痛をさらに酷くしたような症状のそれは、
数十秒とはいえ強化魔法を三つも重複発動していた代償だ。
(やっぱり『今の』身体で魔法の重複詠唱は、無理があるな)
あるいはもっとこの肉体が逞しく成長すれば、
それらも無理なく運用できるのかもしれないが……
(……それじゃあ意味ないんだよ)
未来の『いつか』ではダメだ。
俺は『いま』、このとき、この瞬間に、
眼前の強大に過ぎる相手に立ち向かなければならないのだ。
「加えて軽業芸も見事。ヒビキ、其方には曲芸の才があるで御座るな」
だがどうやら師匠にとって、魔法回路まで使った俺の必死の攻撃は、所詮は『お遊び』程度のものだったらしい。
(……いや、ないわー)
マジで凹むわー。
どうしようもない虚脱感に襲われて天を仰いだ視界には、
歪な楕円に切り取られた青と白。
いつものように窪地を利用した訓練場で稽古をする俺の頭上には、
いっそ憎たらしいほどの青空が広がっていた。
あ、小鳥さん。チュンチュン。コンニチワ。
俺もどっか飛んできてー。
連れてってー。
「ん? どうしたヒビキ、もう終わりか?」
「いえいえ、終わってはいませんよ。むしろ始まってすらいません。本番はここからです」
「ほう、それは重畳」
さて、と。現実逃避終了。
それにあんまりにも弟子に厳しい師匠がわざとらしく挑発してくるから咄嗟に言い返しちゃったけど、どうしよう。このあと何も考えてねえよ。
(というかつい先日ようやく苦労して習得した魔法の重複発動デュアルすら初見で軽々と対応してくるようなバケモノ相手に、どうやって対抗しろと?)
余裕の体面を保ちつつ頭をフル回転させる俺に、
ゴキゴキと肩を回す師匠が笑顔で近づいてくる。
「うむ、まっこと弟子とは良きものよなぁ。一日ごとに見違えて、強く、逞しくなる。近頃では稽古とはいえ、某それがしに防御までさせるようになった。さあヒビキよ、もっともっと、某を楽しませてくれ!」
師匠の浮かべる上機嫌な笑みは、
肉食獣のそれだ。
つまり超怖い。
笑顔から恐怖しか感じない。
(師匠、手加減ってものを知らないからなぁ……)
毎度のこととはいえ、これから起きる惨事を想像するとチビりそうになる。
いやもしかすると本人はそれなりに手加減してくれているつもりなのかもしれないけど、そんなものは獅子が子豚を相手にじゃれついている程度のことでしかない。
どんなに手心を加えようと、その一撃一撃が常に致命的。
毎度のように骨は折れるし、血反吐を吐く。
魔力枯渇によって気を失い、筋肉痛によって悲鳴をあげる。
か弱い子豚は稽古のたびに命懸けだ。
そりゃ必死で強くなりますがな。
死にたくねぇもん。
羽兼龍断流はガチのスパルタ。
これマメな。
(とはいえようやく、師匠に『防御』まではさせられるようになったんだ)
せめて、なんとか一撃くらいは入れたいよな。
(となると、やっぱり『あれ』しかないか)
ぶっちゃけ『あれ』は今日の稽古では使うつもりなかったのだが……
現状が手詰まりな以上、出し惜しみする理由にはならない。
覚悟を決めて身体中の残った魔力を掻き集めていると、師匠が歩を止める。
もう互いの制空圏内だ。
「ふむ。何やら策があるようだが、準備は良いか──」
師匠の確認が終わる前にこちらから仕掛ける。
尻尾を用いたトリガーによって、すでに〈加速/アクセル〉と〈知覚/タキオン〉は発動済み。
まばたきひとつのあいだに距離を詰め、
反応速度の上がった身体中の神経をフル活用。
とにかく打撃、掌撃、蹴撃と、無呼吸で手数を出し続けるが……
「拙い」
当たらない。正確には『通らない』。
身体を捻り、ときには腕を掲げ、掌で押してくる師匠に、俺の攻撃は一撃たりとも当たりこそすれ通らない。衝撃を受け流される。
(こんなにも肉薄しているのに、遠い……っ!)
師匠が手出してこないのは余裕の現れだ。
淡々と攻撃をさばく黒曜石の瞳には、
冷静な観察者の色が宿っている。
そして、
「もういい、飽きた。今日の稽古はこれまでで御座るな」
無茶な攻撃を続けることで生じた、ひと呼吸分にも満たない空白。
そこに滑り込むようにして、ズドッ!
繰り出されたのは、視認すらできない鋭い突き。
岩をも貫くサムライの拳が身体の中心に突き刺さり、
雷にも似た衝撃が意識を刈り取ろうとする。
(……ッ!)
だが──耐えた。
たしかに問答無用で意識が飛びそうな衝撃ではあるが、
予め来ると予想できていて死ぬ気で耐えれば、
耐えられないこともない。
「ぬ?」
いつもならその場に崩れ落ちるところを踏みとどまった俺に、
違和感を覚えた師匠が目を細める。
だがもう遅い。逃がすかよ。
「舐めンなァあああああッ!」
間髪入れず俺は、師匠に掌打を繰り出して──
ガシィ!
「ハハッ、ヒビキよ、今のは惜しかったで御座るなぁ!」
それは信じられない速度で掲げられた左腕によって防がれてしまった。
(もうヤダこの人!)
ホントに人類なのか疑ってしまうよ。
「しかし哀しいかな。今のお主には決定的に『力』が足りぬ。この程度ではいくら某の虚を突こうとも、決定打にはなり得ぬよ」
ああ、だろうね。
だから俺は今回あえて〈増強/パンプス〉を発動させなかった。
おそらく今の俺の筋力と魔力ではどれだけ十全の状態で臨もうとも、
正面から師匠の防御を崩すことはできない。
外から殻を砕くのは無理だ。
(だったら……『中』を攻めてみるのはどうよっ!?)
慌てず、落ち着いて、流れるように師匠の左腕に密着している掌に反対側の掌を重ね、腰を落とす。
足を踏ん張り、魔力と重心をコントロール。
スペルを詠唱。
「──〈衝波/インパクト〉!」
読みいただき、ありがとうございました。m(_ _)m