〈8〉
「よし、と……。傷の経過もいいね。これなら、もうそろそろ薬はいらないかな? 動くとまだ引き攣れるだろうから、包帯はきっちり巻いておくね」
「はい。ありがとうございます」
髪をかきあげて陽花の額の傷を確かめていた灯は、うんうんと満足げに頷いて包帯を取り出す。
灯とルルクゥのおかげで、陽花の体はここに打ち上げられた頃より随分よくなっていた。
「おでこの傷、目立たなくなってきたね。……足は、痛くない?」
「大丈夫です。ちょっと、動き辛いですけど」
あちこち確かめるように室内を歩く陽花は、支えなしでも動けることに顔を綻ばせる。
綺麗さっぱりとはいかないが、額の傷跡は少しずつ薄れてきていた。少し痕は残るだろうが、目が見えなくなるよりはましだったと陽花はさして気にしていない。
ただ、かなりの深手だった左足だけは、傷がほとんど癒えた今も、上手く力を入れる事が出来なかった。
恐らくこの先ずっと、陽花の足は元のようには戻らないだろう。
足を引きずっているせいで、走ることは出来ないし、ゆっくりとしか歩けないのは確かに不便だ。
それでも、ベッドの上からほとんど動けなかった今までよりも、ずっと嬉しい。
「あんまり無理しないでね」
陽花はリハビリがてら、部屋の中をうろうろする。
それに笑った灯が外へ出て行くのを見送った彼女は、足を庇いながら寝室を出た。
そこからゆっくりと、壁に妙な道具が飾られ、シンプルな机だけがちょこんと置かれた居間のような場所を横切る。
目指すのはその先、玄関の横に作られた小さな部屋だ。
灯の家であるこの洞窟で、一応キッチンと呼べる場所。
外から湧き水をひいて作った簡易の水瓶と、小さいかまどがふたつ。作業台は岩むき出し、包丁は一本しかないし、お玉としゃもじとフライ返しその他は陽花の手のひらほどある大きな木のスプーンで全部兼用だ。
「プロならどんな道具でも使いこなさなきゃとはいえ……こりゃまた……」
「陽花? どうしたのこんなところで」
なんとも言いがたい品揃えに、腕を組んで深いため息を吐いていた陽花。
そこにキッチンと部屋を隔てる薄い布を器用に尾で持ち上げた灯が、ひょこりと顔を覗かせる。
首を傾げた彼が、両手いっぱいに大きな卵を持っているのを見て、陽花は意を決して口を開いた。
「あの、もし良ければ、なんですが。私に、食事を作らせてもらえませんか?」
「ごはん? 別にいいけど……あぶなくない? 怪我増やしたり、しない?」
「灯さんって、たまに私のこと物凄く子供だと思ってますよね……。これでも、元々料理でお金を稼いでいた身ですから、大丈夫です」
「そうだったの!?」
「ええまぁ……まだまだ未熟でしたけど。せめて、お世話になってるお礼に」
「そっかぁ。それなら安心して任せられるよ! 欲しいものがあったら、なんでも言ってね」
にこにこと尻尾の先を振って笑う灯に、陽花は渋い顔をした。
素直なのは灯のいいところで、そんな所も可愛らしいとは思うが、その態度の変化はほんのり何かがひっかかる。
相変わらず時々幼児扱いなのにむうっと唇を尖らせながら、陽花はずっと気になっていたことを問いかけた。
「あの、ここってどんな食事が一般的なんですか?」
「一般……? うーん……煮るとか、焼くとか……? ごめんね、俺、凝ったものは分からないよ」
「いえあの、そうではなくて。今まで灯さんが私に作って下さったもの、あれは一般的な食事じゃないんですよね?」
「え? そうだねー。普通はもうちょっと簡単かなぁ。怪我を早く治さなきゃだったから、奮発してルルクゥにいいお米とか麦とか、材料買ってきて貰ったんだ。美味しかったでしょう?」
胸を張った灯に、陽花は予想が外れて笑顔のなりそこないのような妙な顔をする。
今までに出てきた料理を、陽花は病人食だと思っていたのだが、現実はそう甘くなかったらしい。
「……あれ、高級品だったんだ……」
もはや湯の方が多すぎて味の無い澄まし汁に米をぶち込んだような薄い粥に、同じく水でふやかしただけのぼそぼその麦。
肉や魚はぶつ切りで焼くか煮るかの二択。新鮮だからまだいいものの、料理と言うよりサバイバル訓練だ。
野菜は灯の好みからか、目覚めてこの方ほとんどお目にかからない。
「塩や胡椒は一通り揃えてあるよ。ルルクゥが面白がって持ってきた、変な調味料もあるから、色々覗いてみて」
「その名前は一緒なんだ……。ありがとうございます。早速お昼ご飯にしますね。灯さんは、お仕事して待ってて下さい」
「うん。あ、これあげるね。一つ二つで十分だと思うから、使って」
「え? はい、ありがとうございます……?」
手渡されたのは、小さな布の袋。指で触れると、ころころと丸いものが当たった。
何に使うのか分からず、首をかしげながらちらりと岩を掘って作った棚を振り返る。よく分からない瓶がずらりと並んでいるが、幸い、調味料の類は元の世界と同じ名前の上、かなり種類があるようだ。
味付けが同じようにできるのなら、素材は素晴らしいのだから、良いものができるはず。
俄然料理人としてのプライドが疼いた陽花は、腕まくりをすると、質素で狭いかまどの方へ歩み寄った。
ごろごろと作業台の上に転がされた、拳ほどある何かの卵。天井から吊られた燻製らしき動物の足に、萎びはじめた見覚えがあるような無いような野菜がいくつか。
「うわ辛っ……。こっちは……若いけど、味噌……? あ、これトマトソースかな」
どういう仕組みか、ひんやりとした温度が保たれた棚から掘り出した何かの乳を片手に、陽花はあちこちの棚に乗せられた調味料をひとつひとつ舐めてみる。
初めて味わうものも多いが、酢や砂糖、肝心の油らしきものも見つかり、陽花はほっと胸を撫で下ろした。
なんとなく普段使っている調味料が揃い、それを眺めてひとつ頷く。
「こんにちはー! 旦那ー? お届け物と御用聞きに参りましたんよー」
「あ、ルルクゥさん。灯さんなら、今ちょうどお仕事に行かれましたよ」
「あれ、ハルちゃんもう起きてても大丈夫なん? こんなとこにおって、なにしてるん?」
「はい。お世話になってるお礼に、食事でも作れないかと思って」
「ええ? 火とか刃物とか、危なない?」
「もー……お二人とも私のこといくつだと思ってるんですか……」
不安げなルルクゥに苦笑一つ。陽花は作業台に向き直った。
「はー……人は見かけによらんねぇ。ハルちゃんお料理なんできたんなぁ」
「一応、それをお仕事にしてましたから。あ、そうだルルクゥさん、少しお手伝いして頂けませんか? ここの食材がどういうものか分からなくて」
こんな会話さっきもしたなぁ、と脱力しつつ、陽花はルルクゥに聞く。
「別にええよー。そういやハルちゃんここの人じゃないんやもんなぁ。なんでも聞いて!」
「ありがとうございます。お礼は食事をご馳走するくらいにしかなりませんが……」
「ええんよぉ。まず何からいこか」
鉤爪のついた足をぱたぱたさせて、ルルクゥは作業台の周りに置かれた食材を手に取った。
一番近場にあったそれは、陽花の手のひらの二倍ほどある大きな葉。太い芯に、薄緑の厚みのあるそれは、縦長であることを除けばキャベツに良く似ている。
「なんとなく見覚えのあるものもあるんですが……」
「それ? キャベツやんなぁ。鳥族は生のまま食べたりもするけど、旦那は好きじゃないらしいん。あの人が好きな野菜なんて見たことないけど」
「てことは、巻いてないキャベツで良いんでしょうか……。じゃあこの丸まった方は……」
「んー? 白菜やねぇ。そっちの方が葉っぱが柔らかいんなぁ。白菜はよく煮て食べるし、キャベツは焼いて食べることが多いん。ああ、キャベツならそこいらにもっと転がってたと思うから、取ってくるなぁ」
両手で抱えるくらいの大きさを形作ったルルクゥの言葉に、陽花は困ったように笑った。
どうやら白菜とキャベツの形が逆転しているらしい。救いなのは、名前が同じことと、葉の形は変わっていないところか。
いそいそと野菜が置いてある玄関横に消えるルルクゥを見送って、陽花はメニューに頭をひねった。
「野菜の味があんまり勝たないようなもので……簡単にできて……うーん」
「はいよー、キャベツ! あと何が欲しいんなぁ?」
「あの、ええと、コンソメってありますか? スープの元……みたいなものなんですが」
「スープの元? キューブのことでええんかなぁ? あたしが持ってきたそのままなら、その棚の右上に瓶に入って置いてあると思うけど、使うん?」
「これかな。一応、これが思ったような味なら、使えると思うんですが」
小瓶の中には、茶色の粉が飴玉のような丸い形に固められた物がぎっしり詰まっている。
表面を少し削り取り、ぺろりと舐めてみれば、少し薄いが覚えのある味が口に広がった。
コンソメもどきの「キューブ」という材料を手にしたことで、満足げに頷いた陽花だったが、かまどの下を覗き込んでその笑顔を引き攣らせる。
「んん? ハルちゃんどないしたんなぁ?」
「あの…ルルクゥさん、火はどこに……?」
かまどの下にはもちろんコンロなど無かった。それどころか、薪の一本も無い、がらんどうの穴があるだけだ。
火熾ししなきゃならないかも、と覚悟を決めていたが、これではまず火がつかない。
呆然とした陽花の目の隅で、灯から貰った袋が作業台から落ちかける。
慌てて拾い上げてみれば、そこには達筆な字で「火」と一言書かれていた。
「火って、ハルちゃん自分で持ってるやないの」
きょとんとルルクゥが指差すのも、その「火」の袋。
(まさか、これが火種?)
半信半疑で取り出してみると、淡い白色をした胡桃ほどの玉が、ころんと陽花の手に転がる。
別に熱くも無く、火が出る様子も無い。首を傾げた陽花だったが、その玉から小さく、ちっ、ちっと小鳥の鳴くような音がしたことで、驚いてそれをかまどの中へ放り投げてしまった。
放り投げられた玉は、ちぃ、ちぃ、と可愛らしい音をしばらく出していたかと思うと、唐突にぼっと燃え上がる。
「うわぁ!?」
案外勢いの良かったそれに驚き、陽花は飛び上がった。
ちょうど中火くらいの火力でちいちい鳴きながら燃える玉に、陽花はばくばく鳴る心臓を押さえる。
そんな陽花の驚きぶりに、ルルクゥが腹を抱えた。
「ハルちゃん知らんまま受け取ったんなぁ? それ、鳴き石っていう火の石なんよ。その専用の袋から出して、空気に触れさせると燃えるん。結構火力強いからなぁ。火加減は石を割ってしてな。いやー……しっかしハルちゃんその顔傑作やんなぁ」
「び……っくりした……! もう! 先に言っといてもらわないと困りますよー!」
「ごめんなぁ。あたしらは普通に使うから、忘れとったんなぁ」
「もー……ルルクゥさん、笑いすぎですよ! ルルクゥさんの分、ご飯作りませんよ!」
「えー? それはいややんなぁ。というか、ハルちゃんの作る料理ってどんななん?」
むせるまで笑ってから、ルルクゥは陽花に首を傾げる。
「この辺にあるものでぱっと作るしかないので……凝ったものは出来ませんが……」
丸い深皿に拳より大きな卵を割ってみると、オレンジ色をした大きな黄身が二つ、ぷりぷりの姿を現した。
濃い色のそれは、新鮮さを表すようにつやつやで、このままあつあつのご飯の上にかけてもきっと美味しいだろう。
これまでまともな食事にありついていない陽花が、思わずうっとりとそれを見つめていると、隣からひょいとルルクゥが顔を出した。
「ああ、これエグーの卵かぁ。旦那、ほんまに奮発したんなぁ」
「わぁ、双子だ。えぐー、って言うんですか?」
「双子? 卵はみんな二つ黄身があるもんやろ。ハルちゃんとこは違うん? エグーはここの山にもよう出る魔物のことよ。肉もそれなりに美味しいけど……。しっかしエグーの卵自体はよう食べるけど、こんな大きいんはなかなかお目にかかれんよ。旦那、張り切って取って来たんなぁ」
「魔物……食べるんですね……。そういえば、ルルクゥさん、鳥なのに卵食べるんですか」
「エグーの卵はご飯やから。栄養たっぷり、旦那も大好物。多分そこいらの涼しいところにしこたま溜め込んでると思うん」
(魔物とは種族が違うっていうか……、放し飼いの鶏を捌いて食べてるような雰囲気なのかな……)
異世界の食事事情にほんのり顔を引きつらせつつ、陽花は手早くもう一つ卵を割る。
白身と黄身を切るように混ぜ、少し白身が残ったままのそれを脇に置くと、横に吊るしてある肉に包丁を入れた。
下のほうを少しだけ切り取ってみたその肉は、程よく脂が乗っている。どちらかというと豚に似ているが、これも多分魔物の足なのだろう。少しげんなりした。嫌に筋肉質なその肉を、サイコロ状の一口大に切る。
「野菜、ちょっと萎びてるけど、これは玉葱と人参な」
「ああ、まんまるですけどやっぱりこれ人参ですよね……。あと、玉葱……? ですかこれ。玉無いけど……」
「玉葱はな、葉っぱがまあるくなるから玉葱って言うんよー」
「そ……そうですか」
ルルクゥがちょんちょんとつついている二種類の野菜は、蕪のような形をしている人参と、玉になっていない玉葱らしい。
名前が同じだけに、見覚えのあるような無いような妙なそれに、陽花は苦笑する。
皮を剥いて肉と同じように切り、一口齧ってみると、確かに覚えのある味がした。
「みんな細かく切って、なに作るん?」
「ええまあ、一応具入りのオムレツと、軽いスープを」
「おむ……?」
首を傾げるルルクゥに笑うと、陽花は壁に掛けられた二つの鍋を下ろし、少し底の深い鍋にさっき切った肉の切れ端を放り込む。
脂の多い場所を選んで入れたおかげで、香ばしい香りが辺り一面に広がった。
じゅうじゅうといい音を立てるそこに、横の水瓶から汲んだ水を入れる。
「三人前だけど、少し多めに作って……。あの、火加減が上手くいかないので、ルルクゥさん、お手伝いしてもらってもいいですか?」
「ええよー。今は?」
「強火でお願いします」
言われたルルクゥは、鳴き石をいくつか手に取ると、ぽんぽんとかまどに放り込んだ。豪快に放り込んだおかげで、両手で抱えるほどのサイズの鍋の水は、瞬く間にくつくつと沸騰しはじめる。
少し火を弱めてもらった陽花は、そこにキャベツをざく切りにして放り込み、一口大に切った人参と玉葱も入れると、キューブを瓶から掴み出した。
二粒鍋に放り込んで味をみれば、確かに食べ慣れたコンソメスープの味。
火加減を見て頷いた陽花は、もうひとつの片手鍋を手に取る。
普段見慣れたものより底が浅く、どちらかというと角ばったフライパンにも見えた。
スープの残りの野菜と肉、溶き卵を作業台に並べて、陽花は腕まくりをする。
「ルルクゥさん、スープのほうを弱火に、もう一つを強火にして下さい」
「あいあいー。うひー、ええ匂い」
多めに油を敷いた鍋を火にかけ、温まるのを待つ間に、溶き卵に肉と野菜を入れた。
じわじわ音のし始めた鍋を前に両手を構え、一気に卵を流し入れる。
「ひゃー! 良い音やねぇ!」
「時間との勝負ですか、ら!」
じゅわあ! と香ばしい香りと音を立てた卵を、手早くかき混ぜ、ふわふわの半熟になるように鍋を振った。
奥の方に移動させ、くるりとひっくり返す手つきは鮮やかと言う他ない。流石料理人といったところか。
「凄い凄い! ハルちゃんかっこええなぁ!」
「ふふふ、これだけは、昔死ぬほど練習したんで、得意なんですよ」
「お皿出すなー」
「お願いします! あ、ルルクゥさん、この赤いソース、お二人とも食べられますか?」
とんとんとん、と柄を叩いて形を整えれば、鍋の中に黄金色の柔らかな山がふんわりと出来上がる。
そっとそれを皿に移すと、ほこほこと良い香りが立ち上った。
「それ、あたしの家の裏庭でとれたトマトの実すり潰したやつやんなぁ。旦那、せっかく持ってきたんにまだそのままにしとったん……。食べられるけど、何に使うん? 普通固めておやつにするもんやんな」
「……やっぱりトマトソースでいいのかな。大丈夫ならいいんですが」
「まさか、それかけるん? せっかく美味しそうやのに不思議なことするんなぁ」
横の棚から陽花が取り出したのは、さっき舐めた赤いソース。
瓶から掬い出してみると、少し果肉が残っているそれは、いつも食べているより甘みの強いトマトソースだ。どうやらこちらでは菓子の材料になるらしい。
不満顔のルルクゥに苦笑して、陽花はその真っ赤な果肉を黄色のオムレツの上に器用にハート型に盛り付けた。
「スープも、もういいかな」
「ハルちゃんできたん? はよ食べようー! 匂いだけでもうよだれ止まらんよう」
深い鍋の方をスプーンでかき混ぜてみると、鮮やかに茹で上がった緑とオレンジ色が美しいスープが現れる。
程よく焼けた肉の脂も合わさって、思わず陽花の腹がきゅう、と抗議の声を上げた。
じたばたしながら大げさに翼を広げたり閉じたりと、ルルクゥも騒がしい。
オムレツの横に花形に切った人参を添えて出来上がり。
料理人が作ったとしては質素すぎるが、陽花は懐かしい昔を思い出して笑う。
「久しぶりに作ったなぁ、これ」
具入りオムレツとコンソメスープ。
それは、陽花が初めて一人で作った、思い出の料理だ。
会社勤めの親二人という、どこにでもある家に生まれた陽花。
資格を取るのが趣味だった母が、栄養士のそれを持っていたおかげで、食卓はいつでも華やかだった。
陽花が料理をする楽しさを学んだのは、母の手伝いからだ。
けれど、そんな母の料理は、栄養バランスに気を取られすぎて、謎の物体が出てくることも多かった。
カルシウムたっぷりじゃことチーズのさば缶炒め牛乳ソース。バランスばっちりもやしとピーマンとりんごの酢味噌和え。
メインはお肉やわらかパイナップルと豚肉のじゃがいも炒め蜂蜜がけ。
その週は特に酷かった。小学校から帰った途端にそんなものが食卓に並んでいるのを見た陽花の絶望は海よりも深い。
耐えかねた彼女が冷蔵庫の余り物を使って、見よう見まねで作ったメニューがこれだった。
「父さんが泣いて喜んだっけなぁ……」
流石にやりすぎたと反省している母の横。
焼き色の付き過ぎた、半分スクランブルエッグのようなオムレツを、頬いっぱいに詰め込む父を思い出す。
煮すぎてくたくたになったキャベツと、足の太さがばらばらのたこさんウインナー。
塩コショウとコンソメだけの、シンプルすぎるスープ。
きらきらした瞳で、おかわり! と差し出された空っぽの皿が、どんなに嬉しかったか。
それから必死になって練習した陽花のオムレツは、いつの間にか両親二人の大好物になっていた。
お前の作るものが一番だよ、と、どこで食事をしても、オムレツとコンソメのスープだけは頼まなかった両親の笑顔。
ささいな思い出だけれど、思えば、きっとあれが陽花の夢を決めた一歩だったのだと思う。
初めて作ったあの時より、格段に美味しく出来上がったスープをひと舐めして、陽花は小さく笑う。
「ハルちゃあん! あのズボラ旦那スープ皿の一枚も持ってないみたいなんよー。そのおむれつー、の乗ってる皿で全部とかまったくもう! 適当な木の実の殻でええかなぁ?」
「はい! 大丈夫で……ってああ! パンが無い!」
うきうき両手にお椀型の殻を掲げたルルクゥに返事をしたところで、肝心なものが無いことに気付き、陽花は頭を抱えた。
「あのー……、ハルちゃん? なに困ってるん?」
「主食のことすっかり忘れてた……どうしよう……!」
「ああ、泣かんといてよう。これ、ほら、街からもってきたパフィンじゃあかん?」
こんな初歩的なミスするなんて、と、べそをかきそうな陽花に、ルルクゥがおずおずと大きなバスケットを差し出す。
いきなり手伝いをさせてしまったが、どうやら彼女は、これを届けに来てくれたらしい。
布をめくってみれば、四角いこげ茶の物体が、みっしりといくつも中に詰め込まれている。
香りは陽花の知るパンとさほど変わりないが、割ろうとすると爪すら入らず、びっくりするほど硬い。
「かっちかちですね……」
「これでもやらかく焼けたやつ見繕ってきたんけどなぁ。ハルちゃんのとこのは、もっとやわこいの?」
「ええ……でも主食が無いことにはどうしようもないですし……」
両手の指で必死に半分にしようと頑張ってみるが、少し表面にヒビが入っただけで陽花の息のほうが上がってしまった。
元から硬く作る黒パンより、更に焼き固められすぎたそれは、いっそこれ自体で釘でも打てそうだ。
「普通はスープに漬けたりして食べるんなぁ。あたしはそのまま齧るのも好きよ」
「頑丈な顎お持ちですね……」
とりあえず食べられる鈍器はルルクゥに返し、陽花はスープの入った鍋を手に取る。
しかし、台所を出たところにある居間のテーブルは小さく、椅子も一脚しかなかった。
「せっかく良いお天気やし、お外で食べよ?」
「いいですね!」
うきうきと笑うルルクゥに元気よく返事をして、陽花はスープの入った鍋を抱えて入り口をくぐる。
オムレツの皿は、ルルクゥが器用に両手で持って後をついて来てくれた。
二人が真っ白な砂浜の片隅に、ちょうど良く日陰を見つけたところで、灯が山から帰ってくるのが見える。
大荷物の二人に気付いた灯は、手を振ってするするとこちらに近寄ってきた。
「おーい! 二人とも何してるのー?」
「あー! 旦那ー! お昼ごはんやから、テーブル作ってー!」
声を張り上げたルルクゥに、首を傾げつつ灯は言われたとおりにその辺りに落ちていた岩を、簡単にひょいと両手で持ち上げて近寄ってくる。
陽花が両手を広げてもまだ足りない大きな岩は、置いてみれば丁度良く上が平らでテーブルの代わりになりそうだ。
ずどん! と恐ろしい音をたてて砂にめり込んだ岩を前に、灯は事も無げに両手をはらう。
常識外れの怪力だが、ルルクゥも灯も平然としている辺り、別に珍しいことでもないようだ。
「これでいいの? 急にどうしたのさ」
「ええからええから。ほらほら、椅子も作ってほしいんなぁ」
「はいはい」
大きな流木を岩の横に添えて、あっという間に即席とは思えない食卓を作り上げた灯に、陽花はぽかんと口を開ける。
「改めて……異世界って凄いなぁ……」
「へ? 陽花、何か言った?」
「あ、いいえ! なんでも。灯さん、おかえりなさい」
「ただいまー。何作ったの? 良い匂いー」
「おむれつー、とか言うんやって! はよ食べよー!」
ばさばさと翼をはためかせて急き立てるルルクゥに答え、陽花は岩のテーブルに料理を置いた。
ほかほかと湯気を立てる金色の塊に、真っ赤なソースが美しい。緑色鮮やかなスープからは、食欲を誘う香りが漂っていた。
ぐるぐるととぐろを巻いてその上に腰を下ろした灯は、目の前に置かれたそれを、目を丸くして見つめる。
「うわー……。すごい、綺麗だねぇ」
「ありあわせで申し訳ないんですが。どうぞ、召し上がれ」
「ひゃほー! いただきますー!」
微笑んだ陽花の声を待ってましたとばかりに、ルルクゥが木のスプーンで金色のオムレツを豪快に掬い取った。
具沢山のそれを口に運んだルルクゥは、ふるふるとしばらく無言で震える。
ふわふわ卵の柔らかな口当たりに、細かく刻んだ野菜のシャキシャキとした歯ごたえ。噛めば噛むほど溢れるジューシーな肉の旨味。
反対にシンプルな味付けにしてあるスープが、濃厚な卵と肉の味を中和して、食べれば食べるほど食欲をそそる。
蕩けるような表情から、その味が気に入ったのだと分かった陽花は、ほっと胸を撫で下ろした。
「あの、どう、ですか?」
一方、一口オムレツを口にして、スープを飲んだ灯は、元から少ない瞬きを止めて、目の前の食事を見つめたまま固まっている。
(口に合わなかったかな……)
おずおずと声を掛けた陽花に、灯から返事は返らなかった。
そのかわり、灯は突然オムレツを盛った皿を鷲掴みにして、抱えるようにしてふわふわの金色を一心不乱にかきこむ。
一言も何も言わないが、その頬は真っ赤に染まり、目は半分潤んでいる。
がつがつ、と効果音でもつきそうな気持ちの良い食べっぷりと、ぱんぱんに膨らんだ灯の頬に、陽花は安心を通り越して思わず噴出した。
「ちょい、旦那それはいくらなんでもがっつきすぎやんなぁ」
「おかわりありますから、沢山食べてくださいね」
「んー! んん、ふぐ!」
こくこくこく、と素早く頷いた灯は、皿の上を瞬く間に空にすると、ずい! と両手でそれを示すように皿を差し出してくる。
あまりの勢いにあっけに取られながら、陽花はとりあえず自分の分にと思っていたオムレツを差し出した。
途端、またはぐはぐと物凄い勢いで皿が綺麗になっていく。
「あの、灯さん、料理逃げませんから、もうちょっと落ち着いて……。なんならもう一つ焼いてきますから」
「そうやん。もっと味わって食べぇよ旦那ぁ。こんな美味しいもん、初めて食べたんに。ハルちゃん天才なん? ちなみにハルちゃん、おかわりほんとに焼いてくれるん? あとスープも……」
「はい。スープはまだ鍋にありますし、卵は灯さんさえ良ければまだ残っていたのを使って……。灯さん?」
皿すら食べそうな勢いだった灯が、いつの間にかスプーンを握り締めて震えていた。
喉にでも詰まらせたのかと伸ばした陽花の手は、がっしりと灯の逞しい手のひらに包み込まれる。
ぶるぶる、と尻尾の先まで震える灯の瞳から、ぽと、と一粒涙か落ちた。
「灯さ――」
「俺、ずっと、ずっとここで一人で山守してきたんだ。親は生まれてすぐ死んじゃったし、ルルクゥだっていつもいる訳じゃないし、ひとりだったんだ」
唐突に話し始めた灯に、陽花は困惑してルルクゥを振り返る。けれど、彼女も訳が分からないと言うように肩を竦めるだけで助けてはくれなかった。
「旦那、急にどうしたん」
「ルルクゥ、どうしよう、俺、こんな風になったの初めてでわかんないんだ」
口元についたソースが、真っ赤になった頬と合わさって、灯の顔の情けなさがいつもより増す。
そんな顔のまま、灯は潤んだ瞳で陽花に詰め寄った。
「ちょっと、ちか、近いです灯さん」
「陽花、俺のお嫁さんになって」
「はい!?」
「こんな美味しいもの、俺、初めて食べた……。こんなの、もらったの、はじ、初めてで……!」
言っているうちに感極まったのか、ぼたぼたぼた、と大粒の雨が灯の瞳から零れ落ちる。
あまりのリアクションの大きさに、陽花は返事も出来ずに両手を取られたまま固まった。
目の端には、小さな洞窟の入り口が見える。
一つだけのベッド。一つだけの椅子。食器も食料も、ひとりぼっちの灯の分だけ。
ルルクゥは友人でも、ここに来るのは用聞きの仕事のためだ。灯とは姿かたちも違う。
そんな中で、灯のために暖かい食事が、誰かが帰りを待っていてくれることが、あるはずも無い。
この広い砂浜と、青い海に囲まれて、ひとりぼっちの灯。
それは、今の陽花と同じだ。
「灯さん……。寂しかったんですね」
ぐしゃぐしゃの酷い顔を歪めて泣く灯に、陽花はここに来たばかりの自分を重ね合わせて、ずきりと胸を痛める。
ひとりは嫌だと泣いた自分に、灯はどんな気分で大丈夫だと優しく声を掛けてくれたのだろうか。
いてもたってもいられなくて、陽花は握られた手を片方抜いて、座ってもなお自分より高い位置にある灯の頭を撫でた。
肩を震わせる姿は年上の異性としてはだいぶ情けないが、ちょっとだけ可愛らしい。
嫁宣言にはびっくりしたが、自分の料理ひとつでここまで喜んでもらえたことが、陽花はとてつもなく嬉しかった。
「ちょっと旦那、急になに言い出すの! ハルちゃん困っとるでしょう!」
「あいた! 酷いよルルクゥ! 俺、なんにも間違ってないでしょ!?」
「大間違いやわ馬鹿旦那! あーもうこんな顔中べしょべしょにしてー……ハルちゃんもそんな、子供を見るような顔しとらんと、ちゃんと拒否しな駄目なん!」
ほんのり甘い雰囲気をぶち壊したのは、ルルクゥの手に握られたパフィンの一撃。
本当にそのまま齧っていたようで、半分無くなった鈍器のようなそれで頭をどつかれた灯が、ようやく陽花の手を離す。
そこでやっと自分が灯と見つめ合っていたことに気付いた陽花は、頬を赤く染めてわたわたと握られていた手を自分の胸元に引き戻した。
年上の異性の頭を撫でるなんて。しかもよりによって憧れの人と似た顔を。
「なにやってるの私……!」
「ほらー! 旦那が変なことするから、ハルちゃんこんなんなってるやない!」
「えー? 俺の感動を伝えたかっただけなのに。ほんとに美味しいんだもん」
「そこは別に否定せんけども。旦那もまともな味覚、持ってたんやねぇ」
「あ、はい! あの! いますぐおかわり作りますから! ちょっと待ってて下さいね!」
「んん? ハルちゃん急にどないしたん?」
「顔赤いよ? まさか傷がまだ……」
「なんでも! なんでもないんです! 今! いますぐ作りますんで!」
自分のしたことに真っ赤になった陽花は、空になった皿を抱えて一目散に洞窟へ逃げる。
後ろで二人が訳も分からず首を傾げているのは分かっていたが、今の陽花にそれをどうにかする余裕は無かった。
相変わらずキリのいいところが見つからない…今回随分長めです。不備ありましたらご指摘頂けるとうれしいです。