〈5〉
キリのいいところが見つからず…
「そろそろ戻らないと、傷に触るよ」
「ふお! そうやったんなぁ! お嬢さん、ええと」
「あっ、すいません。陽花です」
「ハルカちゃん。可愛え名前やんなぁ。じゃあハルちゃん。もう家戻り。あったかくして、早く体治すんよ」
「ありがとう、ございます」
後ろからかかった低い声に、陽花はびくりと身を震わせる。和やかに会話する二人の声の間に、またずるずる物を引きずる音がした。
視界の端に、日の光に照らされる鱗がうつる。
「ルルクゥ、明日はいつ頃来られるんだ? 薬草が無くなりそうで」
「早い時間にお邪魔しますよってなぁ。それじゃあハルちゃん、またなぁ」
「あ、は、はい」
ちかりと灯の鱗を反射して、陽花の目を射した光は、青から緑へ緩やかに色を変えてきらきらと降り注ぐ。
美しいその光に、陽花は怖さも忘れて息を呑んだ。
まるで宝石を見ているような輝きに気を取られているうちに、ルルクゥは翼を広げて空へ舞い上がると、上空で一度くるりと円を描いて見せてから、あっという間に見えなくなる。
本当に飛んだ……とぽかんとそれを見送った彼女に、灯が穏やかに笑った。
「さ、家へ入ろう?」
「は、はい……っ」
陽花の足は、すぐそこの洞窟までの短い距離も、自分の体を支えられない。それを分かっている灯は、そっと陽花を横から抱えて歩き出した。
ゆっくり、ゆっくり、足を引きずる陽花に歩調を合わせて着いて来てくれる灯に、陽花は少しだけ、触れられたことで反射のように強張った肩の力を抜く。
灯はけして必要以上に陽花の体に触れようとはしない。けれどその視線は、少しでも陽花に異変があれば、すぐにでも助けられるように神経を張り巡らせているのが分かる。
音も無く砂浜に波模様をつくる蛇体は、日の光の下で見ると作り物のように綺麗だ。
優しい距離に、まだ手は震えるけれど、ほんの少しだけ前よりもその姿は怖くなかった。
とりあえずここに、と居間の椅子に座らされた陽花は、受け入れられない胸の不安をどうすることも出来ず、ただ静かに外を見つめる。
布を脇によけた入り口からは、境目も分からないくらいの青が延々と続いていた。
座っているだけでもじりじりと痛み、熱を持つ体にふ、と陽花は少しだけ息を乱す。
訳も分からないところに来てしまったけれど、きっとこうして生きていること自体が幸運だ。
それでも、この唐突な出来事についていけるほど、陽花の心は強くない。ぼんやりと吸い込まれそうな青色を眺めていた陽花に、ふいに横から水が差し出された。
びくり、条件反射のように肩が震える。友人に無類の爬虫類好きがいたおかげで、陽花は悲鳴を上げて逃げ回るほど蛇を嫌ってはいなかった。
けれど、自分の数倍ある巨体にはどうしても引け腰になってしまう。
「改めて、俺は灯。よろしくね。俺は夜は出かけてるから、部屋は自由に使ってくれて構わないよ」
「あ、はい。陽花といいます。あの、でも……」
「陽花、でいいかな? 俺の仕事は山守だから、夜は大抵出かけるんだ。気にしないで。あ、着替えや必要なものはルルクゥが持ってきてくれるし、部屋の入り口はちゃんと閉じるから」
ぺこりと頭を下げた陽花に、にこ、と目尻を下げた灯が笑う。本当に、その微笑みは淡い気持ちを向けていたあの人にそっくりだ。
この柔らかい顔のおかげで、陽花はなんとか灯の顔を見るだけの余裕を持っている。
いかにも手作りといったごつごつした陶器のカップを両手で抱えると、受け取ったことが嬉しかったのか、灯はますますふにゃんと嬉しそうに頬を緩めた。
ここまで人のよさが沸いて出る顔もないだろうな、と、陽花はカップに口をつけてほんの少しだけ笑う。
「なにからなにまで、すみません」
「ううん。女の子だもん。なにかあっちゃいけないからね。そんな折れちゃいそうな体じゃ、色々困るよ。早く元気になって」
「あ……ありがとうございます」
「生憎ここいつも暖かくて扉ってものがないから、岩で蓋するだけになっちゃうけど、動かすときに音がした方が安心でしょう? さ、それ飲んだら戻ろう」
にこにこと名案だと胸を張った灯に付き添われて戻った寝室は、いつの間にか中央の丸いベッドの上に、山のように色とりどりのクッションが乗せられていた。
赤や黄色の暖かい色合いに、ひとつひとつ柄の違う細かな刺繍が施されたそれは、恐らく灯が陽花が寝苦しくないようにと集めてきたものだろう。
足元に転がったひとつを抱えて、細かな心遣いに陽花はほんのり頬を染めた。
「すごい、こんなに沢山」
「丸まって寝るしかしない俺の寝床じゃ、あんまり寝心地良くないと思って。物置に詰め込まれてた奴だから、もしかしてちょっと埃っぽいかな……。あ、使ってなかったあったかい布も出してきたからぁぁああ!?」
「ひゃあ!? ちょっと、あの、だ、大丈夫ですか……?」
ベッドの端に座って、クッションを一つ手に取る。嬉しそうにする陽花に気を良くした灯だったが、ずりずりと大きな毛布を持ってこようとした途中で、その裾を踏み付けて盛大に転んだ。
ものの見事に顔面から床に滑り込み、びたん! といい音を立てた情けない姿に、陽花はこみ上げる笑いを小刻みに震えながら我慢する。
「いたたた……。ああもう、なんかかっこ悪いところ見せちゃったじゃないか……」
鼻の頭を赤くして、起き上がった灯は機嫌悪そうに尾の先をびたびたと床に打ち付けた。その仕草が可愛らしくて、陽花はとうとうくすくすと笑い出す。
機嫌悪く床を叩く灯の尻尾の先に、陽花はそっと手を差し出して、恐る恐るそのつるりとした鱗を撫でた。
「顔、大丈夫ですか? 赤くなってる」
「うん……。へ、平気平気。大丈夫だよー。って、笑いすぎだよ、陽花」
「すいません……その可愛らしい布、似合わなくて……っ」
「もー。これはルルクゥが置いていったの! 俺の趣味じゃないんだってばー」
桃色に花柄の愛くるしい毛布に絡まって、情けない顔をする灯に、どこか吹っ切れたような陽花の笑いは止まらない。
なんとか灯が布から顔を出したとき、その笑い声が引きつった。
「ひ、う……っふえ……!」
「……うん。怖かったね。ごめんね。びっくりしたね……」
ベッドの端に体を丸めて、陽花は口元を押さえて震える。泣きたくなんてなかった。けれど、自分でも気付かないうちに押さえ込んでいた涙は、そう簡単に止まってくれない。ベッドのシーツが、みるみる色を変えた。
体を小さく縮めて、彼女は必死に嗚咽を堪える。そんな陽花に、灯は彼女に手が触れない場所に音もなくとぐろを巻いた。
「もうやだ、ここ、どこ……! 家に、家に帰りたいのに……っ」
「うん」
「嫌、いや! ひとりぼっちはいや……! 帰して、私、どこに行けばいいの……!」
「うん」
零れる言葉は意味を成さない。とうとう声を上げて泣きはじめた陽花に、それでも灯はその横にそっと静かに寄り添った。
聞き分けの良いふりをして、分かりましたと首を振って。突然の事を受け入れて見たことも無い化け物二人に笑顔を向ける。
どこにでもいるただの人間の陽花に、そんな器用な事は最初から出来る訳がなかった。
物語の主人公のように、強くなんてなれない。
あの後、店の人たちはどうしただろうか。陽花がいないことに気付いて、探してくれただろうか。
もう既に、あちらでの陽花は死んだことになってしまったのかもしれない。
そう思ったら、足元がぽっかりと抜けたような恐怖に襲われた。誰も知らないこの世界で、一体どうすればいいのか分からない。
「私、こんなところ知らない……! こんな、こんな怖いところ……!」
「そうだね」
「痛いのも苦しいのももう嫌……っ! 家は、私の、居場所は……っ」
「うん……。そうだね」
背中を丸めて帰りたいと泣く陽花に、灯はただただ、相槌を打ち続ける。
その声色はどこまでも優しくて、それが余計に癪に障った。
お前のせいだと、家に帰せと怒鳴れたら、いっそよかったのかもしれない。けれど、八つ当たりをするにはその声は優しすぎる。
「助けて、もういや……!」
「うん。助けるよ。これからもちゃんと、側にいるよ」
悲鳴のような陽花の訴えに、灯は目を細めて、初めて陽花の背にそっと触れた。
びくり、電流を流されたように跳ね上がった陽花の体。そこをゆっくりと往復する、ひんやりと冷たい灯の手のひら。
優しく優しく触れるその手の感触に、陽花はまた嗚咽を漏らして自分の体を抱きしめる。
「う、ふ、うええぇ……」
「大丈夫。ここにいるよ。少し疲れちゃったんだ。沢山寝たら、少しずつ元気になるよ……。陽花は大丈夫、大丈夫だからね――」
子守唄のように繰り返される灯の声が、泣き疲れてだんだんと遠くなる陽花の意識に静かに染み込んでいった。