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蛇のご馳走  作者: 綾野 悠
本編
4/29

〈4〉

とりあえず出会いまで。



「もうそろそろ起きあがっても大丈夫みたいだね。包帯を取るよ」

「あっ、ありがとうございます」


 更に数日が経っただろう頃。陽花はようやく数時間程度なら起きあがっていられるようになっていた。背中にクッションを入れられ、体を安定させてくれる手は力強いが、少しでも陽花の負担が少ないように気遣ってくれるのが分かる。

 布で真っ白の視界に、驚かさないようにかゆっくりと指の影が映った。

 その手が触れても、もう傷口はわずかにちりちりと熱を持つだけだ。それを陽花の動きから感じ取ったらしい、ほっと安心したような彼の柔らかい声。同時にするすると冷たい指先が頭に巻かれた包帯を解いていく。

 霞みが取れた陽花の目に、徐々に周りの景色が映し出された。

 

「視界におかしな所はない? 手足に痺れは?」

「あ……え、あの、ここは……?」


 優しく聞く声も、耳に入らない。


 陽花の目に飛び込んできたのは、荒く削られた岩壁と、木で出来た小さなテーブルセット。

 目に刺さるような光と、どこか遠くで潮騒が聞こえる。

 

 そこは、陽花が想像していた真っ白で消毒液の匂いがする病棟とは、かけ離れた場所だった。


「どうしたの? まだどこか痛い?」

「あ……っ! あの、ここは、ええと、違う貴方は」

「落ち着いて。ほら、深呼吸深呼吸」


 陽花が乗っている、三、四人なら軽々と眠れそうな大きさの円形のベッドを中心に、丸くくり貫かれた岩壁。

 窓は一つもなく、数箇所に掘られた窪みに細々とした雑貨と花瓶が置かれている。

 ほんの小さなテーブルの上には、水と布が入ったボウルが乗っていた。

 出入り口はベッドの正面に大きく口を開いた穴としか言いようの無い簡素なものだ。そこから、もう一つの部屋らしきものと、その向こうの入り口が真っ直ぐ繋がっている。

 外に繋がる入り口は、こちらの部屋よりも随分大きく作られているのか、めいっぱいの光と風をこちらまで届けていた。

 その外に繋がる方の穴にかけられた、光に透ける暖簾のような青い布の模様が、きらきらと床とベッドに踊る。

 陽花の頭に浮かんだのは、昔テレビで見た洞窟をそのまま使ったホテルの映像だった。

 間違っても、病院といった様子ではない。

 おろおろと視線をさまよわせる陽花に、彼女が乗っている大きなベッドの横から苦笑と一緒に水が差し出される。

 振り向けば、静かに笑っているあの声の主がいた。


「……チーフ?」

「え? 俺はかがりだよ」

「かがり、さん……?」


 垂れた瞳に優しげに微笑んだ口元。特別整っている訳ではないが、人の良さが見て取れる穏やかな表情。淡い想いを抱いていたあの人によく似た顔立ちを、ぽかんと口を開けて見上げる。

 けれど、似ているのは雰囲気だけで、想い人より少し切れ長の目は見たことも無い深い紫色をしていた。

 すっと通った鼻筋に、少し薄めの唇。パーツだけを見ればきつい印象になりそうだが、へにゃりと垂れた眉で途端に幼く見える。

 顔の周りで無造作に散らばる髪は、青みを帯びた濃い緑色だ。

 まさか医者がこんな派手な姿をしているはずがないと、そのカラフルさに陽花の混乱は増すばかり。


「その格好と様子からして、君はやっぱりこの辺りの人じゃないんだね? どうしよう……俺、説明は得意じゃないから……。そうだ。そろそろルルクゥが来るから、説明はあっちにしてもらって……」

「ひっ!?」


 大きなベッドにぺったりと上半身を張り付けて、下から陽花を見上げていた彼が、入り口の方を向いて体を持ち上げる。

 その下半身が目に入った事で、陽花の混乱はピークに達した。


「ん? どうかした?」

「へ、蛇……!?」


 ほんわかと微笑む彼の下半身に、二本の足がない。

 あるのは、青緑の美しい鱗が煌めく長い蛇体だった。

 大人が両手を回してもまだ足りないほど太く巨大なそれは、彼の動きに合わせてきらめき、しなやかな筋肉のしなりを見せつけながらずるずると動き回る。

 一つだけで陽花の手のひらほどある鱗が、光に反射してぬらりと艶を帯び、あちこちで複雑に色を変えた。

 上半身に巻かれたゆったりとした布の下から、ちらちら人の腹から鱗に変わる境目が見えている。

 その生々しさはどう見ても、特殊メイクなんてちゃちなものでは無い。床いっぱいに広がってゆるやかにうねる様子は、どう見ても作り物には見えなかった。

 血の気の引いた顔のまま灯の顔をよく見れは、彼の瞳孔は縦に裂け、何事かまだ喋っている口元からちらりと覗いた舌は、先が二つに割れていた。

 見たこともない異形の姿に、驚きが恐怖に変わった陽花は真っ青になってか細い悲鳴を上げる。


「どうしたの? 動いちゃ駄目だよ! 傷が開いちゃう」

「やだ! 嫌、来ないで!」


 逃げなければ。捕食者を前にした動物の本能でか、陽花は無意識に力の入らない四肢をなんとか動かして、その場から離れようとした。

 痛む喉を振り絞り、ずきずき脈打つ体を引きずってベッドの上でもがく。

 もがけばもがくほど体中に巻きついてくる布と焦りに体の自由を奪われ、思うように動けない陽花は、それでも慌てる彼の手から逃れようと必死になった。

 突然悲鳴を上げられた彼の方は、一瞬悲しげな顔をしたかと思うと、ぐっと眉間にしわを寄せてそれを隠す。

 その間にも、傷の痛みと襲ってくる恐怖で陽花の瞳からぼろぼろと涙が零れはじめた。

 嗚咽混じりになった呼吸は、陽花に十分な酸素を運んでくれない。浅く乱れ始めた陽花の呼吸を感じ取って、我に返った彼は両手をおろおろと陽花に伸ばした。

 しかし、それは陽花にとってただ恐ろしさを煽るだけだ。


「なにもしないよ。大丈夫、大丈夫だから」

「やだ! 嫌ぁ!」

「ああもう……傷が」

「こんにちはー! ご用聞きにまいりましたよー! ってなに、突然修羅場なん?」

「ルルクゥ! 良いところに!」


 包帯を赤く染めながら、がたがた震える陽花の耳に、溌剌とした声が飛び込む。

 ほっとしたような声で灯に呼ばれ、ばさりと入り口の布をはねのけて寝室まで走りこんできたのは、美しい女性だった。

 小さな顔の中に、絶妙なバランスで目鼻が配置されている。可愛らしい、と誰もが思うだろうその顔に、陽花は一瞬怯えも忘れて見入った。

 大きくて真っ青な釣り目がもっと大きく見開かれ、ぷっくりした薄桃の唇がにんまりと楽しそうに弧を描くのすら、いっそ芸術的に見える。

 同じ性別の彼女の登場に、陽花はほんの少しだけほっとした。息を吐いた陽花に気付いてか、安心させるように微笑む顔は優しそうで、思わずそちらに近寄る。


「お嬢さん起きたんかー。よかったなぁ。けどこんなに泣いて。どしたん?」

「急に怯えちゃって……。やっぱり、どこかから流れついたみたい」

「あー……そかそか。お嬢さん、こんなん見たん初めてさんかぁ」

「や、……ここ、どこ……!」

「うんうん。びっくりしたんなぁ。きちっと説明したるから、ちょい落つきな。よーし、よーし。ゆっくり息して。ほら、後ろで旦那が半泣きになっとうよ。この人、ほんとにお嬢さんの事、心配しとったんから」

「あ……」


 ぐしゃぐしゃに汚れた陽花の顔を薄桃色の指先で拭い、独特の話し方で女性は笑う。

 背中を優しく撫でながら、真っ赤な髪を振り振り、くりくりの目を細めた彼女が、子供に言い聞かせるように優しく陽花を諭した。

 陽花はそこでようやく、いつの間にか部屋の隅に小さく縮こまる灯にはっとする。

 

「旦那の事、嫌わないでやってな。あたしはルルクゥ。はじめましてなぁ。お嬢さん」

「あの、私、ごめんなさい……! 私、私」

「いいんだよ。流れついた人はみんな、最初はびっくりするから」

「そうなぁ。いきなり寝起きにこれは、ちょーっと刺激が強いんなぁ」


 ベッドの脇に頬杖をついた彼女――ルルクゥがにかりと笑った。

 自分の命を救ってくれた恩人に、とんだ仕打ちをしてしまったと震える陽花へ、灯は優しく微笑む。

 なるべく陽花の視界に蛇体が入らないようにしてくれているのか、灯はずるずるとその場でとぐろを巻いた。

 入り口から入る光に、鱗がきらりと輝く。その寂しそうな表情は、嫌に陽花の目に焼きついた。 

 

 見たことも無いもへの恐怖で、陽花の体はまだ震えている。それでも、力の入らない両手をぎゅっと握って陽花は顔を上げた。


「あの、だ、大丈夫、です。ちょっと、その、私、驚いて……」

「無理しないで。俺、少し出てくるから、ルルクゥ、後頼んだよ」

「あいあい旦那ー。任せといてなぁ」


 怒るでもなく、微笑んだままなるべく小さくなって、灯は部屋を出ていった。

 穏やかな笑顔と優しさが居たたまれなくて、でもその姿が怖くて、陽花は清潔な布団をぎゅっと握る。

 その手をそっと取って、二、三度ぽんぽんと優しく叩いたルルクゥは、一声気合を入れると血の滲む包帯を手際よく取り替えはじめた。


「私、あんなにお世話になったのに」

「んにゃあ。強がりとはいえ、気を使えるお嬢さんは、強い子ぉやんなぁ。まあ、そう思い詰めなさんな。何事にも順序ってもんがあるってことやんなぁ。とりあえず、どこから話そうかね」

「……ここは、ここは、どこなんでしょうか……」

「そこからいくなら見るのが早いんなぁ。よし、包帯もちゃんと巻いたし。傷口ちょっと開いちゃったけど、立てる?」

「あ、はい……いっ!?」

「ああほら、ゆっくり動かな。まだ全然本調子じゃないんから」

「あの、足……っ羽?」


 ぽんぽん、と陽花の頭を撫で、すくっと立ち上がったルルクゥの姿は、こちらも普通の人ではなかった。

 大きく露出したすべらかな太ももの膝から下に、カラフルな布の巻かれた、鋭い鉤爪のある黒い鳥の足が繋がっている。

 よろめいた陽花を押さえたと同時に、その背中から巨大な赤い羽根が広がった。


「ありゃ、私みたいなん見るのも初めてなん? こりゃ随分遠い所から来たんねぇ」


 苦笑したルルクゥに答えることも出来ない。

 袖の無い着物のような服から差し伸べられた手は、肘から上に足と同じ黒い鱗が光っている。

 二の腕の辺りから見えているのは、背中の羽と同色の羽毛。

 陽花はその姿に、小さな頃に図書館で見た神話の本をぼんやりと思い出した。

 異様な姿だけれど、にこにこと明るい表情がそれをかき消しているのが幸いか。


 一体、私はどこに流されたというの。


 動く度痛む体も忘れて、陽花は呆然とその美しい羽と、振り返った腰の付け根から扇のように広がった尾羽に見つめながら、所々硬いものの当たる腕に支えられて寝室を出る。

 陽花より頭ひとつ小さいのに、ルルクゥの手は力強い。薬が効いて感覚の無い左足に負担がいかないよう、ほとんど抱えるようにして陽花を支えているというのに、その体はびくともしなかった。

 壁によく分からない小物が沢山かかった小さな居間をゆっくりと通り抜け、青い布で仕切られた入り口をくぐる。




 外に出た瞬間、陽花を包んだのは、見たことも無い美しい景色だった。


「……凄い……」

「砂に足取られんように、気ぃつけなぁ」


 目の奥まで光が差し込むような真っ白な砂浜。澄んだ緑から深い青へ色を変える、穏やかな海。

 高いところにある太陽に照らされて、生い茂る大きな木が影を落とし、あちこちで何重も花びらを重ねた名も知らない真っ赤な花がそよ風に揺れていた。


 振り返れば、木々に丸く包まれるような形に開けたその砂浜の奥に、陽花が今までいた小さな洞窟の入り口が見える。

 垂れ下がった薄い布は、日の光に照らされて美しい刺繍を浮かび上がらせていた。

 

 息を呑むほどの素晴らしい景色。けれど、陽花は言い知れない不安を覚えて視線をルルクゥに移す。


 こんな場所、見たことも聞いたことも無い。


「ここは、一体どこですか……? 貴女は、あの人は一体……「何」ですか」

「いつまでも立ってるのも体に悪い。そこ座りよ。えーっと、あたしらが何か、ねぇ……。そんな質問、初めてされたんなぁ。さて、どう答えればいいやら」

「あの、その足と、羽って……本物ですよね……?」

「羽に偽物も何もないと思うんけど……。お嬢さんの所には偽物の鳥族がいたん? お嬢さんはあれやんなぁ? ヒトって一族やろ? 丸い耳に羽も尻尾も爪もないし。それでどうやって身ぃ守るんか、お姉さん心配でならんよ」

「鳥族、ですか」


 聞き覚えの無い言葉に、陽花は腰掛けた流木を意味も無く撫でた。


「んー……。大きいのとか、小さいのとか、色とか性格とかまぁ、いろいろやけど。鉤爪の足に背中に羽、あと尻尾があって、頭の後ろの毛が跳ねてるのが鳥族やんなぁ。ちょっと大きな街にでも行けば、どこにでもいると思うんけど、ほんとに見たことないん?」

「あの、はい……」

「ほー。この島の山向こうにも、鳥族のおっきな街があるんけどなぁ。あたしはそこで雑貨屋やっとうけど、旦那の御用聞きも兼任しとん。ああ、旦那はね、この山を守ってくれてる用心棒なん。街に危ない生き物とか、魔物とかが行かんように、ずうっと昔からこの場所で山守をしとんの。ご先祖は普通の蛇だったらしいけど、あたしらみたいな鳥族とか、ここに流れ着いたお嬢さんみたいなヒトとかと結婚することが多くなってきたら、いつの間にかあんな風に、半々の生き物になったて言ってたんなぁ」

「魔物から街を……魔物?」

「そう。こーんな牙がでかくて、真っ黒でなぁ。夜になると出るから、お嬢さんも気ぃつけよ。それで、この場所なんけど、旦那の一族の縄張りでな? ここだけ山が開けてん。潮の関係なんか、よく妙なもんが流れ着くんけど、お嬢さんもその口やんなぁ。難破した船とか、近くの島からとか、もっとずうっと遠くからも流れ着くん。お嬢さんはどうも、ほんまに遠くから来たんなぁ? お嬢さんみたいなヒトは随分遠くの大きな大陸にしかおらんって聞いたことあるし、旦那の一族は珍しいから知らんこともあるかもしれんけど、鳥族で驚くお人は、あたし始めて見たよ?」

「私……私、は」


 陽花の言葉は、そこから続かない。どこから、と問われても、答えが分からない。国が違うどころの話ではきっと無いだろう。

 黙り込んだ陽花を静かに見守るルルクゥ。その視線に彼女は小さく息を詰める。


「ここから街へ行く山道は、旦那しか知らんし、お嬢さんの様子じゃあ、山越えは難しいんなぁ。あたしが抱えて飛べればええけど、ちっと重量オーバーやし……。海にも入ったらあかんよ? この砂浜に向かって波が巻いてるから、下手に流されるとそこらの岩場にぶつかって大怪我じゃ済まん。お嬢さんが生きてたん、ほんまに奇跡やったんやんなぁ。拾った命大事にして、もうしばらく、ここでゆっくり体治し。旦那はいいお人やから」

「あ……はい……ありがとう、ございます、あの、ルルクゥさん」

「そう寂しそうな顔しんとってなぁ。なるべく毎日御用聞きにあたしも来るよって。お姉ちゃんやと思って頼ってええんよ。なんでもお願いしてなぁ」

「はい」


 ばっと広げられた真紅の翼を見つめて、陽花は小さく頷いた。その返答に満足げにぽんぽん、と頭を撫でられ、彼女は喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。


「そういやお願いって言えばなぁ……」


 のんびりと話し続けるルルクゥの優しい声を聞きながら、陽花は静かに悟っていた。

 「家に帰りたい」その願いだけは、きっとどうやっても叶わないのだと。


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