可能性の過去
ちょっと体調崩して遅くなってしまいました…。すみません。番外編第二段、楽しんで頂けたら嬉しいです。ブクマ2000件越え、感想、評価、本当にありがとうございます。
彼女がそこに辿り着いた時、まだ蛇は溌剌としていた。
人と異形、種族の垣根を越えて、二人はどうしてか惹かれあい、それが必然だったように夫婦になった。
小さな入り江で二人きり。随分と長い間暮らしていた平穏は、彼女に宿った小さな命とそれと相反するように血を吐いた蛇によって、いとも簡単に崩れてしまった。
少しずつ痩せ衰え、まるで自分の毒でじわじわと命を削っていくような蛇を、彼女は身重の体で懸命に支え続ける。
けれど、彼女一人に背負えるものは、余りにも少なかった。
「……行くなら、早くしたほうがいい」
「そんな……どうしても、しなくてはならない事じゃないでしょう?」
子が生まれるまであとどのくらいか。腹が少しずつ目立ちはじめた彼女に向かって、蛇は血の気の少ない顔で小さく微笑んでみせる。
「そうだけどね……。君が行くにせよ、残るにせよ、どちらにしたって、その子が大人になるまで二人で見守ってやることはできない。生きていくのに必要なことを、教えてあげるだけで精一杯だ」
「けど……っ!」
「どっちにしろね、君を喰らってまでこの世界に残りたいなんて、僕はどうしても思えないんだ。そんなことをしたら、その子さえ恨んでしまいそうで……。僕の体は、少しでも弱っている君を見たら、どうなるか分からないから、だから……」
「……分かった、わ」
記憶にあるよりずっと細くなった手で、宥めるように頭を撫でられた。困ったように笑うその癖が好きで、けれど今はその顔を見るのが嫌だった。
小さく聞こえた謝罪の言葉は、流れなかった涙と一緒に飲み込む。
日に日に大きくなる腹を抱えた彼女を洞窟に残し、蛇は狩りへ出かけていった。その頻度は、衰え続ける体に抗うように、どんどん増えていく。
夜、何かを堪えるように荒い息を吐いて、外へ出て行く回数も増えるばかりだ。
一人ぼっちで残された彼女は、蛇がいなくなった洞窟で、一心不乱に針を取る。大きな布一面に、随分昔に出てきたきりの山の向こうの街で覚えた刺繍を一つ一つ縫いとった。
街に馴染みのない蛇には分からないだろう。けれど、それでも彼女は少しでも、変わってしまった蛇の元に、自分の想いを残しておきたかったのだ。
最後の刺繍が出来あがったのは、子供が生まれて一週間ほどした穏やかな日だった。
「明日、街に行くわね。刺繍針が、もう駄目になってしまったの」
「そう。……あの子のことは僕が見ているよ。体は平気?」
「ええ。貴方が一生懸命涙目で世話をしてくれたから」
「お産の準備から後始末までほとんど全部自分でやりきった君には適わないよ……。僕おろおろしてただけだしねぇ……お母さんってみんなそんなに男前になるのかい?」
「ええそうよ。なんたって貴方、私は「お母さん」ですもの」
「頼もしいなぁ……」
久しぶりに以前に戻ったような明るい声で、二人は眠る我が子を挟んで楽しそうに話す。いそいそと出来上がった刺繍――洞窟の入り口を彩る美しい青の布を飾った蛇は、日の光に照らされた彼女の笑顔を、いつまでも眩しそうに見つめていた。
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「陽花ー、乗り心地はどう?」
「うーん……。悪くは無いんですけど、お尻の下がわさわさしますね、これ」
三日間ほど降り続いた雨が上がり、久しぶりの青空の下、陽花と灯は珍しく二人で洞窟の外へ出かけていた。
洞窟に侵入する雨と戦い抜いたせいで、どこか疲れた顔の陽花。それを見かねたルルクゥが、二人でデートにでも行って来いと、後始末を引き受けて二人を放り出したのは少し前のことだ。
くるりと器用に巻いた灯の尾の上に座った陽花は、動くたびに擦れ合わされる鱗が気になるのか、大きなバスケット片手にもぞもぞと居心地悪そうにしている。
「もうちょっと我慢してね。もうすぐ見えてくるから……ほら! あそこ!」
「おおー……いい眺めですねぇ」
「俺も久々に来たよー」
自分も折りたたんだ布ともう一つのバスケットを担いでへんにゃり眉を下げて笑いながら、木々の間をゆったり進んでいた灯が指差す先は、楕円の形にぽっかりと木が無くなり、青々とした草と色とりどりの花が咲く丘になっていた。
ほんの大人の足二歩程度しかない小さな川と、その先に続く可愛らしい池を通り過ぎ、灯は丘のてっぺんまで陽花を導く。
「わあ! 海だ!」
「陽花、あんまり端まで寄らないようにねー。その先崖になってるから、落っこちると結構痛いよ」
「……痛いで済む灯さんって割と規格外ですよね」
開けた視界の先には、見渡す限りの青い海。どこまでも続く青さに目を細めた陽花は、切り立った崖を恐々覗き込んで、その高さにほんのり冷や汗をかいた。
その間に、灯はいそいそとその巨大な蛇体で草を均し、可愛らしい刺繍の入った敷物を敷く。くるりと器用に丸めた尾の先は、足の悪い陽花の特等席だ。
「陽花ー? なにか見える?」
「崖の下に青いものがちらちらしてるんですけど……」
「ああ、この下すぐ洞窟だからね。玄関の布じゃないかな」
森の浅いところをぐるりと迂回してきたせいで気付かなかったが、言われてみれば、確かに眼下に見える砂浜と、いつでも咲き誇る赤い花には見覚えがある。
「こんな近くに素敵な場所があったんですねぇ」
「ふふふ。ここは俺のとっておきなんだよ。教えたのは陽花が初めてー。空からだと木が邪魔して見えないから、ルルクゥも知らないんだよ!」
「そんな場所、教えてくれたんですか? 嬉しいです」
「えへへー」
青い海を背に嬉しそうにバスケットを抱きしめる陽花を見つめて、照れ照れと顔を赤らめる灯。甘くほんわかした空気が二人の間に流れていたが、その空気は灯の腹の虫で即霧散した。
一瞬その虫にきょとんとした陽花は、口元を震わせて二つの大きなバスケットの中身を開けにかかる。時刻はちょうど昼。柔らかな日差しを届ける太陽は、中天を少し越えたところだ。
「今日は急にお出かけが決まったので、あんまり凝ったものは出来なかったんですが……」
灯の尾に座った陽花の前には、みるみるうちに料理が並べられていった。
特製の照り焼きのたれに漬け込んでじっくり焼かれた分厚くて肉汁たっぷりのエグーの肉と、しゃきしゃきの玉ねぎにキャベツとトマトを挟んだサンドイッチ。
最近ようやく食卓に上がるようになった、大きくて丸い、いかにも手作りのおにぎりは、ツナマヨもどきときのこがたっぷり入った香ばしい炊き込みご飯だ。
おかずは甘い卵焼きにとろとろの餡がかかったミートボール、ルルクゥお手製の蓋付きボウルいっぱいのサラダに、最近石釜の横に増設された燻製器でじっくり燻された魚の切り身とまるごと一塊のチーズ。
そして、出かける直前に大慌てで揚げてきた巨大なエビフライとコロッケが敷物の中心をででんと占領した。
まるで運動会のお弁当のようなそれは、どう見ても二人分ではきかない量だが、大食漢の灯にとっては腹八分目といったところか。よだれを垂らさんばかりに、その目はもうご馳走に釘付けになっている。
「陽花、いつもありがとう……!」
「はいはい。喜ぶのはまだ早いですよー」
「えー? 食べちゃ駄目なの?」
早速サンドイッチに手を伸ばした灯に、陽花はにこにこと釘を刺した。不満顔の灯に苦笑ひとつ、陽花はバスケットの横にくくり付けていたものを引っ張り出した。
「灯さん、そこの石で地面を囲って貰えますか? 小さくていいので」
「うん? ……こんな感じ?」
陽花を尾に乗せたまま、器用に灯は手のひら大の石を重ねて小ぶりな囲いを作る。そこに、ポケットから取り出した鳴き石を放り込んだ陽花は、新調したばかりの小型フライパンを乗せた。
「そこまで遠出じゃなかったんで、持って来ちゃいました。こういう時に火熾ししなくて良いっていいですねぇ」
「陽花、ほんとに料理好きだよね……。びっくりした」
フライパンに手作りのバターを落とし、鼻歌交じりに取り出すのはエグーの卵。あっという間に大きな双子の目玉焼きを焼き上げた陽花は、ぱらりと塩胡椒を振った後、それを灯の手の中にあるサンドイッチに乗せてやった。
「さ、どうぞ召し上がれ」
「いただきます!」
もう待てない! と顔に書いた灯は、陽花の声がするや否や大きな口でサンドイッチにかぶりつく。
少し冷えた肉の脂が目玉焼きの熱で溶け出し、甘酸っぱいトマトと玉ねぎの辛味がそれを引き立てる。そこにとろりと絶妙な半熟に焼かれた卵の黄身が合わさって、灯の顔は目玉焼きの黄身のように蕩けた。
頬袋ぱんぱんのまま、彼は甘い卵焼きとミートボールにまで手を伸ばす。
「そんなに急がなくても、誰も取りませんって。飲み物置いときますよー。美味しいで――」
「美味しい!」
むぐむぐと口の端に黄身をつけたまま、目をきらきらさせて次は何を食べようかと迷う灯は、陽花の言葉が終わる前に嬉しそうに笑った。
あっけに取られた陽花は、ほんのり赤くなった頬を隠すように、筒に入ったお茶を差し出して、自分は燻製のチーズと魚を焼きにかかる。
薄くスライスして適当な串に刺したチーズと魚からは、熱せられたことでふわりと燻製のいい香りがあたり一面に漂い、合間に魚の脂が焼けるいい音が響いた。
焼けた端から灯が噛り付いているのを見つめながら、陽花ものんびりと灯の半分の大きさのサンドイッチに口を付ける。
「森の中でご飯も、いいものですね」
「うん! ここに生えてる花は魔物が嫌いな匂いを出すから、安心していっぱい食べられるしいいね!」
「灯さんは別にいつも大食いでしょうに……」
呆れたように呟いた陽花は、はらぺこ蛇のお腹を満たすため、自分の食事もそこそこにまたフライパンに手を伸ばした。
あれだけあった料理も、灯の手にかかればあっという間に綺麗に片付けられてしまう。デザートにバスケットの片隅に入れていたマシュマロを炙ってにまにましている灯を横目に、陽花はそこここに咲いている花を集めて回っていた。
星のような形をした可愛らしい花は、赤や黄、青に紫と色とりどりで、ふんわりとミントに似た爽やかな香りを辺りに広げている。
乾燥させても色と香りがそのまま残るらしく、魔物除けのポプリでも作ろうかと思ったのだ。
「綺麗ですね」
「むー? 確かルルクゥが食べられるって言ってたよ。虫除けになるんだってさー。不味いけど」
「灯さんの中ではそっちの方が大事なんですね……。ほら、余所見してるとマシュマロが焦げますよ」
「もう焦げたー……」
しょんぼり真っ黒になったマシュマロを齧る灯に、陽花は声を上げて笑う。新しいものを出してやろうと灯の方へ足を踏み出したとき、視界の端に見覚えのある光が映った。
ちょうど木々が生い茂り始めた丘の端の辺り。崖のすぐ横に、こんもりと盛り上がった一角がある。そこに、家で見るより随分と大きな穂種の花が淡い光を放っていた。
「昼間でも光るんだ。それにしても……大っきい」
勝手にマシュマロを三つも串に刺してリベンジに燃える灯は放っておいて、陽花はその小さな山に近寄っていく。
陽花の背丈の倍ほどあるその山は、ぐるりと一抱えもある穂種の花の蔦と草に覆われ、淡く太陽と花の光に照らされていた。よくよく見てみると、互い違いに大きな岩が組み合わされている。自然に出来た山というより、何かの遺跡のようだった。
「陽花ー? どうかした?」
「あ、いえ。これ、なんだろうと思って」
焼くのが面倒になったのか、そのままのマシュマロをむにむにと噛んでいる灯が、陽花の横に並んで彼女が指差す山に目を向ける。
しばらくじいっと山を見ていた灯は、突然、ふにゃんと少しだけ悲しそうに眉を下げた。
「これ? これね、多分、父さんのお墓」
「おは、え?」
「うん。入るとこ見てないから、多分なんだけどね」
「そんな……」
灯の口から飛び出た予想もしない答えに、陽花は目を白黒させる。慌てる陽花を少しの間見つめていた灯は、音も無く山に近寄ると、両手いっぱいの大きさをした穂種の花を一輪、千切って陽花に差し出した。
「穂種の花ってね、普通は種をそのまま水に漬けるんだけど。お墓だけはこうやって地面から生えるんだ。死んじゃった人が道に迷わないようにって、お墓に一緒に入れるから。これも、父さんから教えてもらったんだよ」
「確か、小さい頃に亡くなったって……」
「うん。一緒に狩りに出るようになった頃にはもうかなり体を壊してて、いなくなる一ヶ月前くらいかな、ここに急に連れて来られたんだ」
「そう、なんですか」
懐かしいものを思い出すように、灯は海に顔を向ける。
怒った顔を見たことの無い、穏やかな人だった。それと同じくらい、悲しそうな顔も、見たことがなかったような気がする。
いつでも少しだけ微笑んでいる、自分に生きるための全てを教えてくれた人。そんな父親の顔が歪むのを、始めて見たのがこの丘だった。
「ここは特別な場所だから、いつかお前も大切な人と来なさいって。それから一月して、俺の事を山向こうの街に紹介しに行った次の日、狩りに行くって言ったきり、帰ってこなかった。……なんとなく、そうなんじゃないかなって思ってたら、いつの間にかここに花が咲いててさ」
「灯さん……」
「最初は一人になって寂しくて、ここにもよく来てたけど……。そういえば、いつの間にかそんな事、考えなくなっちゃってたなぁ……」
少しだけ申し訳なさそうに、ぺたりと尾で地面を叩いた灯を見て、陽花は手に持った穂種の花と、今しがたまで摘んでいた色とりどりの花をその墓の前にそっと供える。
きょとんとした灯の横で、陽花は灯の父に両手を合わせた。
「初めまして。息子さんの妻になりました、陽花と申します。息子さんは今、毎日お腹いっぱいご飯を食べて、友達とわいわい騒いで、たまに、いや時々……割と? へたれることもありますけど、山守もしっかりやりながら元気に暮らしてます。出来る限り私も息子さんの力になりますので、安心してゆっくり休んで下さい」
「は、陽花?」
「今日は食べちゃいましたけど、また美味しい料理を持って遊びに来ます!」
「陽花、急にどうしたの……?」
「どうしたのって、挨拶ですよ。灯さんのお父さんなんですから、私にとってもお義父さんですし。本来なら、息子さんを私に下さい! って頭下げなきゃいけないんですよ?」
わざと明るく言う陽花に、灯はしばらくぽかんとしていたが、次第にじわじわと頬を赤くして視線を彷徨わせはじめる。
灯の全てを受け入れてくれる優しい陽花の気遣いと、やたら男前なその言葉が、柄にも無く嬉しかった。
「それ、俺が言わなきゃいけない言葉じゃないの?」
「いいんです! 私が言いたかったんですから! ……ここ、凄くいい場所ですね。海の向こうの島まで見える」
「ああ、隣の島だね。天気がいいと見えるんだ。洞窟からだと、低すぎるらしくて見えなかったっけ」
よく風の通る丘の向こう、遥か海の彼方に、うっすらと島影が霞んでいる。一際強く吹いた風に煽られた髪を押さえる振りをして伺った灯は、ふにゃんと赤い顔をしているだけで、先ほどの陰りはもう見えない。
それにほっとした陽花は、灯の父の墓にもう一度手を合わせると、灯の腕を引いて彼を丘の散策に誘う。
寄り添う二つの影は、でこぼこで歪でも、どこまでも仲睦まじく並んでいた。
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「暗くなってきましたし、そろそろ帰りましょうか」
「そうだねぇ。そろそろルルクゥもお腹空かせてる頃だろうし」
「暗くなったら街まで帰れませんもんね……。今日は泊まっていってもらって、お礼もかねて豪華な夕食をご馳走してあげないと」
空に薄闇がかかり始め、空の端には大きな丸い月が昇っている。少し見辛くなったお互いの顔を覗き込んで、二人は楽しそうに頷きあった。
池に浸して寄ってくる小魚を眺めていた足を引き上げると、すかざす灯が布を取り出して甲斐甲斐しく拭き、靴まで履かせてくれる。
相変わらずの過保護ぶりに、陽花は嬉しいやら照れるやら、辺りが暗くなり始めている事に感謝した。
荷物を纏める灯を置いて、陽花は丘の端、灯の父の墓に近付く。その裾の辺りで暗くなり始めたことで暖かな光を強め始めた穂種の花を二輪、蔦と一緒に貰った。
バスケットに括り付けてやれば、それは洞窟《我が家》までの道しるべになるだろう。
よいしょ、と立ち上がった陽花の目にちかりと光が差し込んだのは、その時だった。
「陽花ー、帰ろー。陽花?」
「灯さん、見て下さい! 向こうの明かりが見えますよ!」
興奮気味に陽花が指差す先には、昼間島影が見えていた辺りにほんのりと浮かぶ淡い赤色。けして大きくは無いが、力強いその明かりに、灯も陽花の横に寄り添って目を丸くした。
「あっちにも穂種の花が咲いてるんだねぇ。ちょうどこの向かいかな? 今まで気付かなかったけど、今日は特別晴れてたから見えるのかな」
「星とはまた違った色で、綺麗ですね……。って星!? うわぁ灯さんもう真っ暗になっちゃいますよ! 早く帰らないとルルクゥさんに怒られる!」
「そうだった! 乗って乗って陽花! 全速力で行くから!」
「ちょっ、灯さん速い速いー!!」
ほんの数秒前までの甘い雰囲気はどこへやら。わいわいと騒がしい二人は、慌てて月明かりに照らされる道を家路へと急ぐ。
そんな二人を、淡い花の明かりが楽しそうに揺れながら見送っていた。
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跡継ぎがいるからと許された島からの船に乗って、彼女はひたすら遠くへ遠くへと旅をした。産後すぐに無茶な行動を起こしたせいか、それとも彼らを置いてきてしまった罪悪感からか、彼女の体はほんの少しずつ壊れていく。
それでも、彼女はその全てを忘れるように、軋む体を押して、街から街へ、島から大陸へと移り住んでいった。
その手から生み出される刺繍の美しさのおかげで、生活に困ることは無い。けれど、心にはぽっかりと穴が開いたまま、ずっと血を流す傷口を抱えたようだった。
それから何年か。とうとうかつて愛した異形と同じように血を吐いた彼女は、自分の来た道を戻るようにあの島へ帰る船に乗っていた。
長い船旅の中で親しくなった鳥族の若者は、自分の息子と同じくらいなのだと微笑んだ彼女を、まるで実の母親のように慕っていた。
「生まれてすぐに居なくなってしまった母親なんて、今更出て行ってもあの子が困るだけだもの。あの島に帰って、元気か聞ければそれでいいわ」
あとひとつ、隣の島まで来たその日、遥か彼方に見えた故郷を見つめて彼女は若者に笑う。
けれど、彼女がその願いの片方を叶えることは出来なかった。
運悪くその後酷い時化に見舞われ、寄航が一日伸びたその日の夜。ぼろぼろになりながら島まで飛んだ若者がもたらした、若い山守の話を嬉しそうに聞いた彼女は、微笑んだまま眠るように息を引き取った。
身寄りの無いヒトの彼女が埋葬されたのは、島の墓地からほんの少し離れた、小高い丘の上。
若者が名残惜しげに去って以来、穂種の花が照らすその墓を訪れる者はいない。
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月明かりに照らされた海の上に、ぽっかりと明るい光が伸びる。白い砂浜の奥、小さな洞窟から漏れるその光は、海を隔てた墓までも届いていた。
その少し上に、微かに見える赤い光も、今日は一際明るく見える。
ざあっと海を渡る風に乗って、崖の上に咲いた穂種の花の綿毛が散った。洞窟の中から漏れ聞こえる騒がしくも穏やかな笑い声を拾い、穂種の綿毛は海を渡る。
散り散りになった最後の綿毛が辿り着いたのは、彼女の墓の横。
再会を喜ぶかのようにくるくると踊る綿毛は、墓石をするりと撫でてその片隅に舞い落ちた。
洞窟を挟んで二つ。一人ぼっちでなくなった人食い蛇の子供を、静かに見守る者がいる事を、花だけが知っている。
陽花と灯もこんな風になるかもしれなかった、灯の両親のお話。お付き合いありがとうございました。 ちなみにルルクゥは二人が遅すぎてめっちゃ怒りました。




