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蛇のご馳走  作者: 綾野 悠
本編
24/29

〈24〉

長くなってしまいましたが、どうしても書ききってしまいたかったので一話に纏めました。

次の日の早朝。美しいドレス姿で街外れの広場へ現れた陽花に、ホゥトとティーククが感嘆の声を上げた。

 見送りに来ていたアディも、その変わり様に目を丸くしている。


「あの、あんまり見ないで下さい……。恥ずかしいです……」

「とてもお綺麗ですよ。ハルカさん。思わず見とれてしまいました」

「女の子ってこえぇ……。別人みたい」

「変われば変わるもんだなぁ。こりゃ美人だ」

「元が良かったに決まってるんなぁ! 特にティー! あんた失礼やんなぁ!」


 普段はしない化粧のせいだけではなく、視線に頬を染める陽花は、普段服装に頓着していなかった分、見違えるほど美しく生まれ変わっていた。

 化粧っ気のない、料理人としてのいつもの姿を見慣れていたホゥトたちは、あまりの違いにぽかんと口を開けている。

 なぜか本人よりも嬉しそうなルルクゥは、余計なことを言ったティーククの足をぎりぎり踏むのに忙しいようだったが。

 こんな風にこの人たちと話すのも、もしかしたら最後になるかもしれない。

 わいわいと騒ぎながら、行きよりもだいぶ増えた荷物を籠に積み込んでいる友人達を静かに見ていた陽花の耳に、羽ばたきの音が聞こえたのは、しばらく経ってからだった。

 重い音をたてて広場に降り立ったのは、真っ赤な髪を後ろに撫で付けた、街の若長だ。

 相変わらず威圧感のある、淡い黄色のなにもかも見透かされるような視線。陽花は生唾を飲み込んで、仁王立ちした彼に恐る恐る近寄っていった。


「こんにちは。若長様」

「ああ。息災のようでなにより。まずは山守殿との婚姻、おめでとう」

「ありがとう、ございます」

「そんなに硬くならなくていい。今日は街の住人を代表して見送りに来ただけだ。それと……ひとつ、提案をしに来た」

「え……?」


 後ろでルルクゥたちが近寄ることも出来ず、息を潜めて成り行きを見守っている気配を感じながら、陽花は若長の言葉に首を傾げた。

 若長はしばらく口を閉ざした後、眉間のしわを余計深くする。ヤクザかなにかのような凶悪な表情に顔を引き攣らせた陽花だったが、よく見れば瞳が少しだけ悲しげに揺れていた。

 不思議に思って顔を覗き込もうとした陽花に、突然若長は深々と頭を下げる。


「父は、長はハルカ殿には辛い事ばかり言っている。陽気で明るいのが信条の鳥族の長とは思えんことしかしていない。……今も、ハルカ殿一人に大きなものを押し付けて。……すまない」

「若長様!? 頭を上げて下さい! いいんです。これは貴方や、長様に言われてしている事じゃありません。私が決めて、私が望んでしていることです」


 今更の言い訳とも思えるような若長の言葉に、それでも陽花はしっかりと微笑んでその手を握る。灯の元へ帰ることは、ただ流されて決めた訳でも、強制されて仕方なくしている訳でもない。


「私はあの人が好きです。世間一般からどう言われようと、私のしたいことをしてるだけなんですよ」

「……女性というものは、どうしてそうも強くあれるのだ? どうして簡単に、その体を、心を他人のために捧げられる……?」

「自己犠牲の精神とか、そんなんじゃありません。私のこれは、ただのわがままですよ」


 微笑む陽花に、若長は辛そうに眉を寄せて大きく息を吐くと、ぐしゃぐしゃときっちり撫で付けていた真紅の髪をかき乱した。


「長達が気付く前に、この島から逃げられるように手を回そうと思っていた。だが、それは貴女が望む事ではないらしいな……。せめて、そのドレスは私が贈らせてもらおう。餞として受け取ってくれ。立会いは出来ないが、山守殿とハルカ殿の婚姻の証明も、私が立てよう。貴女は、私が会った中でも、とびきり素晴らしい女性だ」

「ありがとうございます。若長様」

「花嫁衣裳、よく似合っておられる。……出来ることなら、また貴女の料理が食べたいものだ」


 ぽつりと呟かれた言葉に、陽花は返事を返すことなく若長に背を向ける。はいと返事が出来れば、どんなに良かっただろう。そう頭の端で考えながらも、真っ直ぐと前を向いた陽花の瞳は、どこまでも力強かった。


 白い浜辺に、長々と伸びた青色の尾が、きらきらと太陽を反射して輝く。砂浜はあちこち尾を引きずった跡だらけになっていて、上空からそれを見つけた陽花は、思わず妙な声を上げて噴出した。


「旦那ー! 花嫁さんのお帰りやんなぁー!」

「っ待ってたよおぉおぉ! お帰りみんなー!」


 口元に手を当てて大声を上げたルルクゥに、半分涙声の返事が返ってきて、空の上の一行は顔を見合わせて笑う。

 足が無いのにとんでもない速度で籠の降りてくる側まで移動した灯は、両手を広げて陽花達を迎えた。

 一週間。日数にしてみればそんなに長くもなかったはずなのに、その無邪気な様子が懐かしい。飛び跳ねるように喜ぶ灯の顔色は、一週間前よりどこかくすんでいて、自慢の鱗もほんのり色が悪くなっていた。

「旦那、どんだけ寂しかったの」

「だって、ひとりぼっち久しぶりで……。良かった……もう帰ってきてくれなかったらどうしようかと思った……」

 しょんぼりと力なく尻尾を地面に叩きつける灯に、ルルクゥと陽花はしょうがないな、と肩を竦める。


「ちゃんと帰って来ましたから。そんな顔しないで下さい、灯さん」

「うん。お帰り、はる……か……?」


 ルルクゥに支えてもらって籠から降りた陽花に、灯の瞳は釘付けになった。ぽかんと口を開けて、まばたきもしないで陽花を見つめている。

 最初はその反応にしてやったりとほくそ笑んでいた陽花も、あまりにも凝視されていたたまれなくなってきた。もじもじと体の前で指を組み、うろうろ視線を彷徨わせる。 

 

「や、やっぱり変ですかね!? 脱ぎましょうか!」

「だ、駄目!」

「ひゃあ!」

「あ、ご、ごめん陽花……。あんまり綺麗だったから、見とれちゃって……。陽花だよね?」

「あ、ありがとうございます。陽花です。あの、あんまりそうまじまじ見ないで下さい……」


 錯乱して後ろのファスナーを下げようとした陽花の手を、灯が慌てて掴んで止めた。両手を握られたまま、至近距離で見つめられることになった陽花は、ますます茹蛸のように真っ赤になっていく。

 初々しいがうっとおしい二人のやり取りに、鳥族たちは呆れて肩をすくめた。


「はいはい。仲がいいのは分かったから。荷物はこぶの手伝って欲しいんなぁ、旦那?」

「うわ!? うん! 今行く!」

「ハルちゃんは、とりあえず洞窟で休んでてな?」

「はい!」

「元気のいい返事だけはそっくりですね……」

「似たもの夫婦って言うんだろ、ああいうのをさー」


 声を掛けた途端、ばねの様に跳ねてあたふたし始める二人。陽花はルルクゥたちの存在を半分忘れていたこともあって、耳まで真っ赤になると見慣れた洞窟に必死で駆け込んだ。


 荷物を降ろし終わったホゥトとティーククが帰路につき、ルルクゥと灯がリビングの席につく。ルルクゥは帰ろうとしていたが、灯が必死で止めたために、まだ一人残ってくれていた。


「新婚さんのお家にいるの、いたたまれないやんなぁ」

「い、いいじゃない。ほら、まだ正式には結婚してないし。けけ、結婚の申し込みなんてしたことないし……! なんか、緊張しちゃって。今考えてるからちょっと待ってよ……」

「ヘタレ」

「ルルクゥ、今日はいつにもまして酷いね……」


 むっすりとそっぽを向いているルルクゥを、灯は機嫌が悪いんだと思ったようだったが、陽花の方からはその目がゆらゆらと不安そうに揺れているのが見えている。

 けれど、これが最後になるかもしれないと思ったら、陽花は灯をなだめることも出来なかった。

 表面だけはやっと見慣れたいつもの日々の様子が戻ってきたことで、少しずつ赤みが取れていく頬を擦りながら、陽花は使い慣れたかまどの前に立つ。

 花嫁衣裳は、どうしても灯が脱がせてくれなくて、仕方なく長い裾を幅の広いリボンで持ち上げ、割烹着をもっと大きくしたようなエプロンで覆っていた。


「嫁入り道具よりもこっちのほうがいいと思って、新鮮な食材、沢山買ってきたんです。お祝いだってその倍くらい貰っちゃいましたし、お腹がはち切れるまでご馳走作りますからね」


 言いながら、陽花の手はもう料理に取り掛かっている。

 新鮮な野菜サラダ、暖かなコンソメのスープ、肉汁が溢れる豪快なリブステーキ。陽花が居ない間も灯が手入れを欠かさなかったのか、ぴかぴかに磨かれた調理道具で瞬く間に美味しそうな料理が出来上がっていく。

 白身魚のムニエルは香ばしくて、ほくほくの身とハーブのいい香りで食欲をそそる。灯が大好きなエグーの卵で、ふかふかの卵焼きを焼いてみたりもした。けれど、なんとなくオムレツだけは作る気が起きない。

 洋食が一番得意な陽花だったが、オムレツ以外なら、と何かにとりつかれたように和洋中、頭の中にあるレシピを全部ぶちまけてせっせと料理を作り続ける。

 あまりの量に二人がぽかんとしているような気もしたが、手は止まらなかった。

 調理をしている間だけは、悲しい思いを忘れる事ができる。

 

「ハルちゃん、腕上げたんなぁ……」

「この短時間でこんなにいっぱい……」

「大食らいでせっかちなお客様が二人も居ましたから、調理の早さも上がるってもんです。どんどん食べて下さい。まだまだ沢山作りますよ! 灯さんどうせ、今日まともに食事してないでしょう? 一週間分って言って作って行きましたけど、あれで足りたとは思えませんし」


 器用にフライパンの中で肉を躍らせながら、陽花は灯に肩をすくめて見せた。言葉に詰まったような妙な声がしたあたり、図星なのだろう。

 机に乗り切らないほどの豪華な食事を前に、まだ次は何を作ろうかと思案していた陽花を、おずおずと灯が呼んだ。


「あの、さ、陽花も一緒に食べよう? せっかく久しぶりに帰って来たんだし」

「……私はいりません。これは全部、灯さんの分です。あ、ルルクゥさんも、良ければ」

「あたしもいらないんなぁ……食べられんよ」

「なんで……? 俺とご飯食べるの、嫌?」


 ゆるゆると首を振る陽花とルルクゥに、灯は不安そうに顔を歪める。悲しそうなその表情に、陽花が心の中に必死で溜め込み、押し込んで、見なかったことにしていた何かの箍がぷつんと音をたてて切れた。

 気を落ち着かせるようにひとつため息を吐いて、陽花はフライパンから手を離す。割烹着を脱ぎ捨ててドレスの裾を直した陽花は、真っ直ぐと灯の目を睨み上げた。


「灯さんは、私のことを食べるんですよね? これは私だけじゃ、足りないと思ったから作ったんです」


 突然の告白に、灯とルルクゥが息を呑む。それでも切れた陽花は止まらない。


「そりゃ、この一週間、花と香草だけしか食べてないのでお腹空いてますけど。それも灯さん、貴方に食べてもらうためです。あれ、もしかして今日は食べませんか? それならそれで、この食事でお腹いっぱいにして下さい。味は悪くないと思いますよ」

「ハルちゃん……」


 何日もかけて受け入れた自分の未来。受け入れたからには、その役目を全うしたい。早く役目を果たそうと、声を詰まらせたルルクゥと、ぽかんと口を開けた灯に陽花は胸を張った。

 本当は、これが最期になるかもしれない事が悲しくて、胸がいっぱいなせいで空腹なんて感じていなかっただけなのだが、それはわざと見ないふりをする。

 それでもそんなそぶりも見せず、笑いかけてくる陽花から、ふいに灯が視線を外す。

 どうかしたのかと屈もうとした陽花の目に、ぽとん、と灯の手を濡らす雫が見えた。


「美味しくないよ」

「灯さん?」

「美味しくないよ……! 二人が居なかった一週間、ちっともごはん美味しくなんかなかった……!」

「……私の血が食べられなかったせいじゃないですか? あんなに毎朝かじりついてましたし」

「違う! そんなんじゃないんだよ!」


 珍しく声を荒げた灯に、陽花とルルクゥは気おされて目を見開く。髪を振り乱して泣く灯は、ぶるぶる震えながら必死に訴えた。


「誰かと一緒に食べるごはん、凄く美味しかった! 陽花が前にいて、たまにルルクゥとおかずの取り合いして。そうやって食べなきゃ、美味しくないんだ。ご先祖様は知らないんだよ……! こうやって大好きな人が作ってくれたご飯のほうが、大好きな人よりずっと美味しいこと知らないから、食べちゃえたんだ。母さんは、きっとこんな俺と父さんが怖くて出て行っちゃったんだ! 俺が間違ってた。あんな風に簡単に陽花を「美味しそう」なんて言っちゃいけなかった! ……俺には無理だよ。陽花を食べることなんて、出来ないよ……!」


 悲鳴のような灯の声を、陽花は暫く何も言わずに聞いていた。洞窟の中には、灯のすすり泣く声だけが響いている。

 一週間、灯はそもそも最初のうちはなんとも思っていなかった。早く帰ってこないかなぁ、と頭の片隅で思いつつも、久しぶりにベッドの上で眠り、最初の二日で陽花の料理を食べつくした後は適当なものにはなったが、のんびりと一人で食事をして、森に出かけたり海岸を掃除したりする。

 気が向いたときに昼寝をして、夜は魔物が出なければ暗い洞窟で星を見てぼんやり時間を潰した。

 それは、陽花が来るまで日常だった、静かな生活。元々ルルクゥは今のようにひっきりなしに来ていた訳ではなかったし、海岸に物が打ち上がるのもごくごく稀なことだった。

 しん、と静まり返って、冷たい空気の溜まった洞窟。三日目、灯は生まれて初めて食事をしなかった。

 四日目、空腹を訴える体にそこらにあった冷えた肉を無理やり押し込んで、うろうろと海岸を這い回り、風の音がルルクゥの羽音に聞こえた気がして空を見上げる。

 五日、六日、と時間が過ぎれば過ぎるほど、灯の気分は沈んでいった。生まれてから半年前まで普通だったこの耳の痛くなるような静けさが、今の灯には耐えられない。

 陽花に会いたい。

 七日目の朝、たかが一週間だというのに、灯の心は憔悴しきっていた。一週間前、彼女を易々と送り出してしまった自分を殴りつけてやりたいとすら思う。灯の頭の中では、病に臥せってやせ細り、いつも海の向こうばかり見ていた父親の言葉がぐるぐる回っていた。


 母さんは、街に行くといって、そのまま帰らなかったんだよ。


 思えば、それはきっと灯に聞かせるつもりの無い言葉だったのだろう。けれど、落ち窪んだ悲しげな父親の目と、その言葉は灯の中に今でも暗い影を落としていた。


 もしかしたら、陽花も同じかもしれない。もう二度と、ここに帰って来てくれないかもしれない。そう思った途端、灯は生まれて初めて、がつんと殴られたような衝撃を受けた。

 陽花が生きて、自分の側にいてくれること。ルルクゥと、自分と一緒になって笑っていてくれること。それがどんなに幸福だったか、今更思い知ったのだ。


「ごめん、陽花。ごめんね」


 自分の過ちにようやく気付いてぼろぼろと情けない顔で泣きじゃくる灯。

 重い沈黙を破ったのは、あっけらかんとした陽花の言葉だった。


「……じゃあ、一緒にごはん、食べましょうか」

「へ……?」

「そう簡単に食べない! って言う訳にもいかないでしょう? あんなに私の指齧ってたんですから。血ぐらいならいくらでも飲ませてあげますから、ずっとここにいさせて下さい」

「はる、か?」

「それと、灯さんのお母さん、灯さんのこと、嫌ってなんかいなかったと思いますよ。ほら、このクッション」


 どこかネジが外れて自棄になったような陽花が、ひょいと寝室から持ってきたのは、いつか灯が彼女のためにどこからか持ち出してきた、少し古びたクッションの中のひとつだ。

 そこに刺繍された複雑な模様を、陽花は灯の前に持っていって指差す。


「この刺繍、所々同じ模様が入ってますよね。これ、愛情と子供の幸福を願う模様なんだそうです。街で沢山見かけました。これ、灯さんのお母さんが縫ったんでしょう? あんなに沢山、きっと物凄く時間がかかったはずです。それを、あの広いベッドが埋まるくらい作ったお母さんが、灯さんとお父さんを愛していないはずがないです」

「確かに、これ、よく見たら表裏全部にいっぱい模様が縫ってあるんなぁ……。愛情、幸福、家族の幸せ……。並みの時間じゃ、こんなに綺麗な刺繍は出来んよ」

「母さん、が?」

「灯さんのお父さん、ご病気だったんでしょう? きっと、病気で弱った体で、万が一にもお母さんに手をかけないように、遠くへ逃がしたんじゃないですか?」


 呆然と刺繍を見つめている灯の手に、そっとくすんだクッションを渡した。壊れ物に触れるかのように恐る恐るそれを手に取った灯は、複雑に絡みあう刺繍糸をゆっくりとなぞる。

 灯の両手に収まりきらない大きさの布に、一枚一枚丁寧に描かれた沢山の模様。色褪せてしまってはいるが、どこにもほつれひとつなかった。

 刺繍に込められた、深い愛情と精一杯の幸福を願う祈り。なぞるうちに、灯は幼い頃の淡い記憶を思い出す。 


「このクッション、大切なものだって言ってたのに、父さん絶対に触らなかったんだ。いつもこれを見る父さんが辛そうで……。だから父さんが死んでからずっと仕舞いこんでたんだ。……母さんが縫ったものだったんだね」

「離れなきゃいけないからこそ、せめて形に残るものを置いて行きたかったんじゃないでしょうか。灯さんのお父さんも、お母さんのこと、心から愛していたんだと思いますよ。それでも別れなきゃいけなくて、思い出してしまうのが辛かったんだと思います」

「そっか……。俺も父さんも、母さんに捨てられた訳じゃ、なかったんだ……」


 ぎゅっとクッションの柔らかい布に顔を埋めて、灯はほんの少し嬉しそうに呟いた。その震える腕にそっと手を添えて、陽花は灯の顔を覗き込む。

 目尻を赤くした情けない表情でこちらに目を向けた灯に、陽花は小さく笑った。


「灯さんのお母さんは、最終的にここから居なくなることを選んだかもしれません。けど、私はそうじゃない。灯さんの側に、ずっと居ます」

「で、でも陽花、俺、陽花のこと食べようとまでしたんだよ……! それが当たり前だなんて言って、怖かったでしょう? 俺、本当に馬鹿みたいだ……。父さんのずっと一緒に居られるなんて言葉、信じちゃいけなかったんだ!」

「お父さんも、お母さんを逃がしてしまって、色々考えたんじゃないんでしょうかね。突き詰めれば「ずっと一緒」も間違いじゃないのかもしれませんから」

「違う! そんなの一緒じゃない……!」


 激しく首を振る灯に、陽花は母親のような優しい顔をする。ここまで来て、陽花は灯に対する気持ちに、母性が混じっていたことに気付いていた。

 明るく優しい灯は、どこか迷子の子供のような危うい雰囲気を持っている。

 その胸のうちに溜まった暗い不安を、母親の代わりに灯の頬を伝う涙と一緒に拭ってあげたかった。


「だから、さっきから言ってるでしょう? 指だろうが足だろうが、好きに齧ってくれて構いませんから。それでお腹が満たされるなら、今までみたいに灯さんと一緒に暮らしたいんです」

「そんな、簡単に体を差し出すようなこと、言わないで……!」


 泣きじゃくる灯に、ぱちぱちと瞬きを繰り返した陽花は、呆れたように天井を見上げると、堪えきれなかった笑い声を漏らす。


「今更なに言ってるんですか? 私、ほんの数分前まで、頭からばりばりいかれるの覚悟でいたんですよ? 血ぐらい気にもなりません。どうぞ存分に。……だから、これからも灯さんの側にいさせて下さい」

「う、ふえ、陽花ぁ……!」

「はいはい。泣かない泣かない。あ、でも出来れば一日の摂取量は献血一回分くらいにしてもらえると嬉しいです」


 貧血起こしたらいやですから、といとも簡単に言ってのけた陽花に、灯はとうとう陽花を抱きしめて泣きながら激しく首を横に振る。

 変に腹の据わった陽花は、べしょべしょの灯の顔を見ても、しょうがないなと笑うだけだ。

 

「いらない……! 陽花の血なんてもういらない! あなたの指よりも、あなたの指が作り出す俺の為のごはんの方が、俺は何百倍も好きです……!」

「旦那、なんちゅうムードのかけらもないことを……! この、もう、馬鹿!」


 息を潜めて成り行きを見守っているしかなかったルルクゥが、泣くのを堪えているのか、椅子から立ち上がって震える声で怒る。


「ふふふ、いいんですよ、ルルクゥさん。ありがとうございます。灯さん」

「俺のお嫁さんになって、それで、毎日ずうっと、側にいてくれる? 俺の家族に、なってくれる?」


 ぼろぼろ泣きじゃくって聞き取り辛い灯の言葉。それに、陽花はにこりと笑って頷いた。ぎゅっと握られた力強い手と、自分を優しく包み込む蛇の尾に、静かに身を任せる。いつの間にか、陽花の目からも涙が零れていた。


「っ良かったあぁああ! 上手くいった……良かった……! ほんまに良かったよぉぉ!」

「ルルクゥさん、本当にありがとうございました。ルルクゥさん、この一週間で灯さんの心が変わるのを願ってくれてたんですよね? わざわざ私を街に向かわせて。ずっとどうにかしようとしてくれてたのに。ごめんなさい、すぐに諦めるようなこと言って」

「うん。旦那の性格なら、きっと気付いてくれると思って。でも、ええん……。二人が幸せになってくれるなら、お姉ちゃんそれだけでほんま嬉しいんなぁ……!」


 二人の姿にとうとう感極まったのか、ルルクゥまでが突進してきて、三人で子供のように泣く。ぎゅうぎゅう苦しいくらいに二人に挟まれた陽花は、胸いっぱいの嬉しさに自分も二人をめいっぱい抱きしめた。


 しばらくそうしてひとしきり泣いていた三人の間に、突然ぐう、と情けない音が響く。

 ぴたりと動きを止めたのは、その音の発信源の灯とルルクゥ。気が抜けたのか泣きすぎたせいか、盛大に主張を始めた二人の腹の虫に、陽花は思わず声を上げて笑った。

 

「陽花ぁ……」

「ハルちゃん……」

「分かった。分かりました! もう一度料理を温めなおして、ご飯にしましょう。それとももっと作りましょうか? 足りなければなんでも好きなもの、いくらだって作りますよ!」


 バツの悪そうな二人のべちょべちょの顔に、陽花の笑いは止まらない。泣き笑いの表情で胸を張った陽花の声に、情けない顔をしていた異形二人はぱあっと表情を明るくすると、声を揃えて両手を挙げた。



「オムレツがいい!」



 それは山向こうの街で、後世御伽噺になるまで語り継がれた、人食い蛇と人間の恋物語の最後を飾る盛大な結婚式が開かれる、ほんの少し前のこと。









 いつの頃からか、見たことも無い料理のレシピが世に出回るようになった。

 大陸の遥か南、大きな鳥族の街がある島が発祥だというそれは、その素晴らしい味と、独創的でどこか暖かい、手間隙かけた愛情深さが人気を呼び、瞬く間に世界中に広まっていく。

 そんな数あるレシピの中、料理人なら誰もが始めに作り、その味を競う、一つの料理があった。

 

 野菜と肉を刻んで入れた、金色ふわふわの卵料理。広げた赤い鳥の羽のようなソースが美しいそれは、シンプルな作り方と美味しさで、今ではどこの料理屋でも、必ずメニューに並んでいる。


 本当の名前は他にあるのに、いつしか世界の人々は皆、元々レシピそのものを指していた名前で、その料理をこう呼んだ。





 ――「蛇のご馳走」と。


お付き合い本当にありがとうございました。これにて蛇のご馳走、完結になります。裏設定やら長い話は活動報告の方に纏めさせて頂きます。ここまでお読み下さった皆様、本当にありがとうございます。お粗末さまでした。

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