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蛇のご馳走  作者: 綾野 悠
本編
19/29

〈19〉

ブックマークが1000件を越えてて目玉飛び出ました…ご覧下さっている皆様、いつもありがとうございます。拙いものですが楽しんで頂けたら幸いです。

「陽花ー! ほら、今日の分だよ!」

「あ、りがとうございます、灯さん。こんなに、沢山……」

「陽花にはちゃんと食べてもらわなきゃ! 俺とルルクゥばっかり食べてるもんねぇ」


 にこにこと笑いながら、灯は今日もまた両手に抱えきれないほどの食材を集めてくる。

 保存の利かないものと、塩漬けや燻製にする肉や魚を分ける手つきも、もう堂に入ったものだ。

 今日のおやつは何がいいかなぁ、なんて微笑むその姿は、平和で、今までもよく見た光景。


「そう、ですね。……今日は、苺のタルトにしましょうか……」

「本当!? 俺、あれ大好き!」


 かまどに向かった陽花の声に、ぱっと表情を明るくした灯は、上機嫌で次の食材を取りに外へ出ていった。

 灯の気配が消えたことで、陽花の肩から力が抜ける。

 無意識に握り締めていた手から、かたりと音をたてて包丁が台に転がった。

 あの日から一週間。

 灯の態度は、気味が悪いほどいつもと同じだ。むしろ、前よりも一層、優しくなったかもしれない。

 あの日も、足を引きずって帰った陽花の真っ白な顔色に、目を見開いてベッドに放り込み、ずっと側についていてくれた。

 その姿のどこにも悪意を感じなくて、やっぱりたちの悪い冗談だったのではと、ほんの一握りの希望を取り戻した陽花。


「灯さん……っ」


 けれど、握り締めた陽花の左手小指には、真新しい包帯が巻かれている。

 あれから、灯は陽花の小指を毎朝噛み切った。

 傷の具合を診るついでとばかりに、恍惚とした微笑を浮かべて、灯は陽花の血を啜る。

 牙に毒でもあるのか、痛みが全く無いのがむしろ恐ろしい。


「陽花、陽花。俺、陽花の事が好きなんだ」


 二股に分かれた舌で赤い雫を舐め取りながら、灯は陽花に愛を囁くようになっていた。今になって自分の気持ちを自覚したというより、前から想っていた事を、陽花の体が良くなったのを見計らって告げているようだった。陽花を絆すための嘘だったら良かったのに、その瞳は真剣そのもの。

 大好きだよ、と子供のように頬を染めて、照れくさそうに言う姿はいっそ可愛らしい。けれど、その口元はいつも、真っ赤な血に濡れていた。

 そのうっとりとした表情に、陽花は毎朝彼の本気を悟る。

 かくんと陽花は台所の床に膝をついて、滲んだ視界で彼の名前を呼んだ。

 異世界にたった独り、傷だらけで放り出された自分を、ここまで世話してくれた命の恩人。

 陽花と同じ人間はこの島のどこにもおらず、元の世界にはきっと二度と帰れないだろう。

 そんな陽花にとって、灯は大切な理解者だ。ルルクゥだって同じように大切な友人ではあるが、過ごした時間とその密度は灯に敵わない。

 灯はいつも、浮き沈みする陽花の気持ちに気を配って、その悲しみを共有してくれる。

 一人じゃないよと微笑み、寂しくないよと頭を撫でて優しく包み込んでくれるのも彼だ。

 けれど、その縦に裂けた瞳孔を嬉しそうに細め、あと少しで食べられる、美味しそうだと舌なめずりするのも、同じ灯で。

 相反する二つの灯の顔に、陽花はどうしていいか分からない。結局、何も言えないまま灯との生活を続けることしかできなかった。

 どうしても灯のその恍惚とした瞳が怖くて、会話がぎこちなくなる。

 それでも、灯は何も言わず、あるいは何も気付いていないのか、今までと同じように優しい微笑をその顔に浮かべていた。





 結局答えは出ないまま、日課になった散歩に出かける。ぼんやりと考え込んでいた陽花の足は、気付かないうちに誘われるようにふらふらと森に近付いていた。ここを抜ければ街だと聞いたが、陽花は一度も足を踏み入れたことが無い。

 鬱蒼と茂る木々で森の中は暗く、陽花を尻込みさせるには十分だった。それに、ここには魔物がいる。

 あの雨の日の恐怖を思い出して、無意識に体がぶるりと震えた。それでも、ここを越えなければ灯の手からは逃げられない。


「どう、しよう……」


 一歩、木々の陰の下へ足を踏み出す。けれど、不自由な左足が木の根に引っかかり、陽花は大きくよろめいて近くの木にぶつかった。

 陽花の左足はゆっくりと歩くのが精一杯で、ほとんど言うことを聞かない。こんな状態で森に入っても、すぐに力尽きてしまうだろう。

 なにより、陽花がいなくなれば灯はすぐに探しに来る。連れ戻されるに決まっていた。

 ずるずると木に背中を預け、ぺたん、とその場に座り込んで、陽花は木の間から漏れる光に目を細める。

 昨日は甘えてみた。

 恥ずかしいのを押さえ込んで、あれがしたい、これが欲しい、と擦り寄ってみたが、灯は嫌な顔ひとつしないどころか、嬉しそうに陽花の世話を焼いてくれる。


「今日はなんか甘えたさんだね? 怖い夢でも見た? 大丈夫だよ。俺、お化けじゃなければ倒せるからね!」


 的外れなことをにこにこと告げる灯に、陽花は困ったような笑顔を返すことしか出来なかった。そういえば、元々灯もルルクゥも陽花に甘い。

 逆に変な罪悪感が生まれるくらい気に入られていることを、自分から再確認するだけに終わってしまった。

 むしろ、もしもこの優しさが食べるためだけのものだったらと、余計に怖さが増した。 

 一昨日は自分の作る食事をどう思っているのか聞いてみた。

 普通の料理だけで満足してくれるなら、陽花はどんなものでも作るつもりだ。

 けれど、普通の料理と人間が食事だということは、どうも灯にとっては別物で、灯は愛した人間は食べるためにいるのだと信じているらしかった。

 

「父さんに教わったんだ。好きな人とずっと一緒にいる方法だって。陽花の血は凄く美味しいんだよ。これなら、他はもっと美味しいのかな?」


 陽花がどうしてそんな事を聞くのかが分からないらしい灯は、そう言って無邪気な顔できょとんと首を傾げるばかり。

 いっそ食べないでと泣いて縋ったほうがいいのかも知れない。けれど、その勇気が陽花には無かった。


「食べるためにここまで面倒を見たのに、なんて言われたら……どうしよう」


 もしかしたら、そんな事を言った瞬間に息の根を止められるかもしれない。恐らく、彼はそれが出来るだけの腕力と毒を持っている。愛していると告げられてはいるが、不安はどこまでも増えるばかりだ。膝に顔を埋めて、陽花はじわりと溢れた涙を服に染み込ませる。

 殺されることよりも、愛していると言われるのに、そうやって「食事」としてしか見られていなかったと思い知るのが怖かった。

 自分はどこかおかしいのかも知れないが、こんなことになっても、灯への気持ちが捨てられない。

 どうしても、灯が好きな気持ちだけは変えられなかった。


「ハルちゃん!」

「ルルクゥさん……?」


 蹲った陽花の髪を、ばさりと大きな風がかき混ぜる。

 目の前に降り立ったルルクゥは、陽花の目の端に溜まった涙を見て、ぐっと何かを堪えるように唇を噛んだ。そして、陽花の両肩を掴んで見たこともないような真剣な顔をする。


「ここから出よう。ハルちゃん」

「え……?」

「前に街に行った時みたいに、籠を呼ぶから。とにかくここから、旦那の側から離れた方がええ。島の港から船が出とるから、それに乗って隣の島に出て、そこからもっと遠くへ逃げよう? ハルちゃんの腕なら、どこへ行っても立派に生きていけるやろうし、そりゃ、会えなくなるんは凄く寂しいけど……」

「ちょ、ちょっと待って下さい! 島を出るって、そんな急に……」

「やって、ここにおったらハルちゃんは死んでしまう! この街にいても連れ戻されるんよ! 若長様が朝、こっそり教えてくれたん。ハルちゃんがいれば街も安泰だって長老様が言ってたって……。街の偉いお人は旦那に街を守って貰うためならなんだってする。ハルちゃん一人を犠牲にして、街が守れるならそれでええと思っとる! きっと、旦那のお母ちゃんもそれが嫌で逃げたん!」

「ルルクゥさん……」

「あたしは嫌よ……。ハルちゃんが死んじゃうのも、旦那が魔物以外に手をかけるのも見たくない」


 だから逃げて、と苦しそうに呟くルルクゥの手は、ぶるぶる震えている。誰よりも近くで陽花と灯の二人を見てきたルルクゥは、二人が不幸になっていくのを見ていられなかった。

 何もすることができない自分を呪いながら、ルルクゥはそれでも、なんとかしようと必死にあがく。


「ほんとは、このままずっと、旦那とハルちゃんが幸せでいてくれればって思うよ……長い付き合いやけど、あんなに楽しそうで、幸せそうな旦那初めて見たもの。ようやっと、ひとりぼっちじゃなくなったんやと思って、安心したのに……!」


 ぽたり、ルルクゥの俯いた顔から涙が零れた。悔しそうに言うルルクゥに、陽花は肩を掴まれたまま、呆然とそれを見つめる。

 ルルクゥの言ったとおりにすれば、自分は死なずに済む。

 ひとりぼっちの灯を置いて、目の前で泣くルルクゥを置いて、一人だけで生きていく。

 確かに、この世界で生きていく術は身に着けた。不自由もあるだろうが、ルルクゥの言うとおり、ここから離れても生活することはできるだろう。

 けれど、そうしたら陽花はまた一人になってしまう。それは、陽花が去った後の灯も同じだ。


「また、ひとりで……?」


 陽花の脳裏に灯の顔が浮かぶ。陽花がいなくなった後、灯はどうするだろうか。またこの入り江で一人、魔物を狩るだけの生活に戻るのか。

 その時、いなくなった自分のことを、大好きだと頬を染めていた灯はどう思うだろう。


「ハルちゃんがいなくなった後は、あたしがなんとかするから……」


 視線をきつくしたルルクゥは、覚悟を決めたように言い募る。けれど、もしかしたら自分がいなくなった後、陽花の代わりとしてルルクゥになにかあったりはしないだろうか。

 そんな不安と、陽花の料理に無邪気に喜び、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた灯の優しい顔が脳裏にちらつく。

 灯がいなければ陽花はここに流れ着いたあの時に死んでいた。それを今日まで生かしてくれたのは、灯とルルクゥだ。

 それと同時に、嫌な炎が胸にともる。たとえルルクゥにですらも、灯の気持ちを渡したくない。

 陽花とルルクゥの間に、重い沈黙が流れる。それを破ったのは、陽花の硬い声だった。


「いいえ」


 顔を上げた陽花の返事に、ルルクゥは目を見開く。その悲痛な表情を見て、陽花は眉を下げて情けない笑顔を作った。

 みるみるうちに、ルルクゥの目に水の膜ができていく。


「ハル、ちゃん……?」

「いいえ。ルルクゥさん。私、ここに残ります。それで、灯さんの側にいます」

「そんな……! そしたら、ハルちゃんが!」

「いいんです。……いえ、もちろんよくは無いんですけどね。諦めてるとか、そういうんじゃないんです。私の我侭なんですよ」


 しゃくりあげるルルクゥに、陽花はどこか吹っ切れたような顔をした。現に、返事を声にした彼女の胸の内は妙にすっきりしている。

 この世界に来たのは陽花にとってこの上なく不幸だった。酷い怪我と後遺症、未知の世界に誰も自分の事を知らない恐怖感。それでも、ここにいることを幸福だと思えるようになったのは、灯と、ルルクゥのおかげだ。

 この二人の側以外に、陽花の生きる場所は無い。灯が生まれてすぐに居なくなってしまったという灯の母親は逃げることを選んだかもしれないが、陽花はここを離れてまで生きていこうとは、どうしても思えなかった。

 困ったように笑う陽花の本気を悟ってか、嗚咽を漏らしたルルクゥがぎゅうっと抱きついてくる。 震える肩に顔を乗せて、陽花は目を閉じた。


「どこにも行きたくないんです。このままここで、灯さんと、ルルクゥさんの側にいたいんです。命を救ってもらった恩返しとか、そんなんじゃなくて、私が灯さんをひとりぼっちにしたくないんです。たとえ、終わりがあっても、その最期まではここで生きたいんです。灯さんのお母さんは居なくなってしまったかも知れないけど、私はそれは嫌です。……離れたくないなんて言って、ルルクゥさんを泣かせて……。我侭ですよね」

「どうしても、頷いてはくれんの……?」

「はい。逃げるくらいなら、その分ここで暮らしたいです。はは、こんな健気なこと考える思考回路してた事に自分でもびっくりしてるんですよ?」

「馬鹿! こんなとこで変な度胸出してどうするの……!」

「はい。馬鹿です。でも、それがいいんです」

「っハルちゃんの馬鹿ぁ……!」


 わざとおどけたような声色に堪えきれなくなって、毛を逆立てて怒鳴ったルルクゥにも、陽花は笑顔を消さない。その表情はどこまでも穏やかだ。

 本気を悟ったルルクゥは、一瞬顔を引き攣らせて、真っ赤な羽を広げて地を蹴る。巻き起こった風に目を瞑った陽花の耳に、悲鳴のような泣き声が尾を引いて残った。

 風が止み、波の音だけが響く森に一人ぽつんと残された陽花は、真っ青な空を見上げてため息をつく。

 静かに目を瞑っていた陽花は、しばらくしてぱちりと目を開けると、木を支えに立ち上がり、元来た砂浜を歩き始めた。

 さくさくと砂を踏む小さな音が鳴るたび、青い布が揺れる洞窟が近付く。入り口から顔を出した灯が陽花の帰りに気付き、笑顔でこちらに手を振っているのが見えた。

 陽花もそれに、小さく手を振り返す。灯への恐怖は全て消えたわけではなかった。現に今も、降り返した手は震えている。それでも、陽花はぎゅっとその手を握って、以前のように灯に笑顔を向けた。

 こんなことになる前にはいつもしていた、穏やかな風景。まるで何事も無かったかのような景色に、陽花はふ、と息を漏らす。

 

「それでも、私はこれでいいと思うんです。私だって、あの人が大好きなんですから……」


 ぽつりと呟かれた言葉は、波の音にかき消されて誰にも届かなかった。

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