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蛇のご馳走  作者: 綾野 悠
本編
18/29

〈18〉

お気に入り件数が800件を越えてて目玉が飛び出そうです。なにがあったやら…本当にありがとうございます。この回で話がおしまいに向かって動きだしますので、どうぞお楽しみ下さい。

 その日は唐突にやってきた。


「陽花が来てもう半年かぁ。傷もすっかり良くなったし、最近体もしっかりしてきたみたいだね」

「そういえば、もうそんなに経つんですね。太ったかなぁって思ってたんですが、やっぱりそうか……」

「ええ? 健康になって良かったって言ってるんだよー。顔色もいいし」


 人参の皮を剥く陽花の横で、豆の筋を取る灯がぺたぺたと尻尾を床に打ち付ける。

 天気がいいからと総出で洗った洗濯物が風になびき、柔らかい石鹸の香りが辺りに広がっていた。


 穏やかな午後。最近は少し街に行くことも減って、陽花は以前のように、灯と二人きりの生活に戻っていた。

 昼食の後、ルルクゥが街から買ってきてくれた小さなテーブルを囲んで、灯と二人でのんびり外の木陰で過ごすのが、陽花の最近の日課になっている。

 取りとめもない事を話しながら、ちらりと視線を隣でとぐろを巻いた灯に移した。

 機嫌よくボウルに向かう灯。その日の光をきらきらと映す鱗の輝きに、速度を速めた心臓を抱えて陽花は目を細める。

 灯に自分の気持ちを打ち明けることは、未だできていない。

 ルルクゥが帰れば、この小さな入り江に二人きりの生活、いつの間にかこうして隣にいることが当たり前になってしまった。

 リハビリにかこつけて二人で浜辺を歩いてみたり、魚を獲る灯の側で浅瀬に足をつけて他愛も無い会話をしてみたり。

 端から見れば仲のいい恋人同士のようにも見える二人だったが、お互いにそんな事を口にすることはなかった。

 陽花からしてみれば、自分への気遣いをずっと持ち続けてくれる灯の姿は嬉しかったが、いい加減この仲の良い兄妹のような、ぬるま湯の関係を終わらせたいとも思う。

 けれど、あと一歩きっかけが掴めずに、こうしてずるずると先延ばしにし続けてしまった。

 ふとした瞬間に触れる、どこまでも与えられるだけの灯の優しさに、陽花はほんの少し焦れている。


(言わなきゃ、始まらないよね……)


 以前の恋は、相手にもされずに胸に仕舞った。今回も、もしかしたら妹程にしか思われていないかもしれない。

 それでも。


「あの、灯さん……!」


 それでも、もう胸に仕舞っておくには、この想いは大きくなりすぎてしまった。

 両手に持っていた包丁をテーブルに置いて、灯に近寄る。真剣な目つきの陽花に、灯は小首を傾げてその頬に手を添えた。

 人より低い体温の、ひんやりとした大きな手は、沢山の傷と鱗でごつごつしている。

 特に気負うでも照れるでもなく事も無げに触れてくるその手。

 やはり、自分は灯に意識もされていないのか。

 唇を噛んだ陽花に、灯はふんわりといつものように微笑んで。


「もうちょっと肉付きが良くならないと、美味しくないよねぇ」

「…………え……?」


 突然の灯の言葉に、陽花は固まった。

 ぺたぺた触れてくる灯の手は、頬から首筋に滑り、そのまま肩の辺りを何かを確かめるように辿っている。

 振り払わないのは、その触れ方が余りにも事務的だったからだ。


 ――まるで、店に並ぶ商品を選んでいるように。


 ぽかん、と頭がついて行かずにあっけにとられた陽花は、しばらくふらふらとあてもなく両手を彷徨わせた。

 灯の言葉の意味が分からない。

 あまりに唐突なせいで、回らない頭を必死で回転させた陽花は、やっとの思いで行き着いた答えに、茹で上がった蛸のように真っ赤になった。

 これはつまり、いわゆる夜の行為について言っているのだろうか。 


「な、なななに言ってるんですか!? 急にまさかそんな、灯さん熱でもあるんじゃ……!」

「なに言ってるの? 熱がありそうなのは陽花の方に見えるけど……」


 こてんと首を傾げる灯はどこまでも無邪気に見えるが、その口から出た言葉に、陽花の頭は沸騰寸前になっている。

 正直、色恋沙汰とあまり縁が無かった陽花にしてみれば、突然灯の口から出た如何わしいことへの隠喩のような言葉は刺激が強すぎた。

 真っ赤になって震える陽花は、手元を狂わせてテーブルの上の包丁に小指をひっかける。


「あ痛っ!」

「ああほら、危ないじゃないか。刃物の近くでなんか暴れちゃだめだよ。見せてごらん」

「ひゃあ! あの、かすり傷なので……!」


 ぱたりと小指の先から跳ねた赤い血が、その手を取った灯の白い手に模様を描いた。

 そのさまを見て余計に慌てる陽花をほったらかしにして、灯は眉を下げてにこりと微笑むと。


「……もったいないね」

「っひ!?」


 べろり。二つに分かれた舌が、零れた赤い雫を舐めあげる。

 鋭く伸びた牙に傷口を撫でられて初めて、陽花はその異常な行為に我に返った。

 慌てて引っ込めようとした手はがっちりと灯の両手に捕まり、びくともしない。

 ぴくりとも動かない腕に必死に力を込めて青褪めた陽花は、灯の瞳が恍惚に歪んでいるのを見て、ぞっと背筋に寒気が走るのを感じた。


「もう少し食べごたえのある方が好きかなぁ……? ねえ陽花、もっとごはんちゃんと食べなきゃだめだよ」


 垂れた血を舐め取り、滲むそれすら惜しいとばかりに指を噛む灯に、陽花はさっきの言葉のきちんとした意味を感じ取る。



「灯さん……まさか……?」

「ふふふ、どうしたの? ころころ顔が変わって陽花は面白いねぇ」


 やっとの思いで取り返した腕を抱きしめて、陽花は震えた。

 ぬらりと光る蛇の目は、まさしく捕食者のそれ。


「あの、ちょっと……、そう、散歩。私散歩に行って、きますね……」

「いいよー。片付けは俺がしておくから。行ってらっしゃい。気をつけてね」


 恐怖に駆られた陽花は、椅子を蹴立てて立ち上がると、かろうじて震える細い声を出した。

 それに答えるのは、あまりにもいつも通りの優しく甘い灯の言葉。

 動かない足を引きずって歩きだす陽花に、ひらひらと手を振る仕草も、普段と同じ。

 陽花はその無邪気な様子が、さっきとは比べ物にならないほどに恐ろしかった。



+++++++++



 あてもなくふらふらと浜を歩いていると、上から聞きなれた大きな羽音が近付いてくる。

 やっとの思いで強張った首をそちらに向けると、両手で籠をぶら下げたルルクゥがこちらに気付いてぱっと表情を明るくしたところだった。


「ハルちゃーん! お散歩ー?」


 相変わらず色とりどりの布ときらきら光る宝石で飾られた鉤爪が、ぶわりと白い砂を巻き上げて浜を掴む。

 その場に籠を置いたルルクゥは、陽花の紙のような真っ白の顔色に表情を強張らせた。


「る、ルルクゥさ、あ、か、灯さんが……」

「ハルちゃん!? どうしたん、なんかあったん!?」


 目を見開いて陽花に駆け寄ったルルクゥは、その手から滴り落ちる血に凍った表情を一層硬くする。


「灯さん……なんで……」

「……もしかして、あの話、本当だったん……?」


 腕を抱きしめて震える陽花は、緊張の糸が切れたのか、すとんと腰を抜かしてその場に座り込む。

 後を追うようにしゃがんだルルクゥは、見る方が悲しくなるくらい怯えている陽花の肩を、ゆっくりとさすってやる。

 小指からは、何故かいつまでも止まらない血がぽたぽたと砂を汚す。真っ青を通り越して血の気の無い顔で、陽花は何かを知っているらしいルルクゥを仰ぎ見た。


「話、って……?」

「まさか、この話せんといかんなんて思ってなかったんやけど……。あの、な、御伽噺みたいなもんなんやけどな。旦那の一族は、ここにしかおらん、人喰いの蛇の一族なんやって話が……あたしの街に伝わってるん。何代も何代も、ここで山守をしながら、人を、魔物を喰らって生きてきた一族の、その最後の一人が旦那やって……」

「人を……?」

「鳥族や、ハルちゃんみたいなヒトと恋をして、結婚して旦那みたいな半々の子供が生まれるようになっても、恋した相手は子が生まれたら喰われてしまう。そう、言い伝えられてん。……ただ、魔物が出る山や、それを越えんといかんここまで子供を来させないようにするためのただの御伽話やと思ってたんけど……その様子じゃあ、まさか本当に……?」

「ルルクゥさん、私、私は……」

「たちの悪い冗談、やったらええんやけど」


 立ち上がり、足の砂を払うルルクゥもどうしていいのか分からずに、震える陽花の背を摩ることしかできない。

 陽花は、顔を背けたルルクゥの言葉に無意識にぶるりと背筋か震えるのを、どこか遠いところで感じていた。

 どうして。

 頭の中は、その言葉だけで占められている。

 ほんの少し前まで、穏やかな、けれど大きな気持ちでいっぱいだった胸が、今は冴え冴えと冷えていた。

 あんなに優しかったあの顔は。気遣ってくれたあの言葉は。


「全部、この為だったの……?」


 陽花の作る料理に子供のようにはしゃぐ彼の姿と、あの雨の晩、自分を抱きしめてくれた力強い腕。そこに、とろりととけて、どことなく焦点の合わない灯の瞳と、恍惚とした笑みが重なった。


「ハルちゃんの料理、あんなに美味しそうに食べとるから、ほんとに迷信だったんやって、安心しとったのに……」


 泣きそうなルルクゥの言葉も、陽花には聞こえていない。

 両腕で自分の体を抱きしめて、陽花は膝を抱える。



 間違いなく灯は、陽花の体を喰らおうとしていた。

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