〈11〉
短かったので二話同時に更新します。ひとつ前の話もよろしくお願いしますー
「ハルちゃん! 昨日エグーに襲われたんやって!? 怖かったなぁ……。痛いとこない?」
「大丈夫です。ありがとうございます、ルルクゥさん。どちらかというと、あれが「エグー」の正体だった方がちょっとキツイんですが……。あんなの食べてたんですね……うえ」
「酷い雨だけでも体冷やしてないかって気が気じゃなかったんに、もうあたし心配で心配で……」
「傷は、それどころじゃなかったので……。痛みもありませんし、それにその、今日は朝から灯さんが休ませてくれたので」
「そかそか。しっかし、それでそんなことになっとるの? もう、旦那は過保護なんやから。けど、今だけはそれに賛成やんなぁ。えらい怖い目にあったんやもん」
キッチンでホットケーキを焼く陽花の足元に、灯の尾がべろんと伸びている。
一夜明けて、昨日の雨の気配も消えた快晴の空。
昼より少し前、ちょうどおやつの時間頃。狙ったように猛スピードで洞窟まで飛んできたルルクゥは、ぺったりと離れない灯の尻尾と視線に、うんうんと深く頷いてみせた。
ちらりと灯の方へ顔を向けると、いつもの緩んだ微笑を向けられてしまう。
「無理しちゃ駄目だからね? 陽花が怪我なんかしたら、俺泣いちゃうよ」
「あの、はい……」
「ふわー、旦那、なんかハルちゃん誑しこんでるみたいやんなぁ」
「ええー?」
「ちょ、ルルクゥさん何言い出すんですか!」
ふんわりとした笑顔と、どこまでも自分を甘やかしにかかる優しい声。陽花は思わずルルクゥのからかいに木べらを取り落としそうになった。
そのわたわたした様子と、ほんのり染まった頬を見て、ルルクゥはははん、とにんまりと笑う。
「旦那ぁ、ハルちゃん散歩に連れてってもええ?」
「え? ああうん。もう日も高いし、危なくないだろうからいいけど……。でも気をつけてね。昨日の雨でそこら辺滑りやすいから」
「あいあい。心配せんでも、傷一つなくお返しするんなぁ。あたしだって、いざとなったら羽も鉤爪もあるんよ。ほら、ハルちゃんそれ焼けたら行こ? 後であたしにも焼いてくれたら嬉しいんやけど」
「洗い物は俺がするから、行っておいでよ」
「は、はい。灯さん、ありがとうございます。ジャムとバター、置いていきますね」
特注で作ってもらった大きな鉄のフライパンいっぱいに焼きあがった分厚いホットケーキ。
大皿に四枚こんもりと盛ったそれを灯の前に差し出して、陽花はキッチンを出た。
「ハルちゃん、旦那のこと、ちょっと見直したんやない?」
「え、いやあの……! その……。ちょっと、というか、あの、ええと……かっこよかったです……」
頬袋ぱんぱんにホットケーキをほお張って、ひらひらと手と尻尾の先を振る灯に見送られて洞窟を出た二人は、陽花の歩調に合わせてゆっくりと波打ち際を歩く。
昨日の雨で汚れを洗い落とされたように、紺碧の海は穏やかだ。
どう見ても自分の気持ちがばれているらしい、したり顔のルルクゥの言葉。
陽花はうろうろと視線をさまよわせた後、真っ赤な顔でかろうじて声を絞り出した。
自分のためだけにあんなに必死になって、普段とは間逆の凛々しい姿で魔物を退けてくれた灯。
陽花だって、白馬の王子様に憧れた事はあるのだ。
(馬に乗ってないどころか、人間ですらないけどさ。あんなかっこよく出てきて、しかも今日も甘やかすだけ甘やかしてきて……。ほんのり恋に落ちても仕方ないじゃない)
「旦那もほっとしたんやないかなぁ。一人っきりの同居人やし。ハルちゃんかわええしなぁ」
「かわっ……可愛くなんかないです!」
「照れちゃってー。でもほんとに良かったんなぁ。なんにもなくて」
砂浜が途切れ、ちょうど森の入り口にある大きな木陰に、ルルクゥは嬉しそうに陽花に手を差し伸べる。
その手を取って倒木に腰掛ければ、爽やかな緑の香りが風に乗って陽花の髪を揺らした。
木の葉がたてる音以外、しんと静かな木陰で、陽花は隣で鼻歌を歌っているルルクゥに視線を投げる。
「あの、ルルクゥさん。灯さんって、どんな人なんでしょう」
「旦那ぁ? そうやんなぁ……」
頬を掻いたルルクゥは、聞いていいのか分からない、といった顔の陽花に笑いかけた。
「私、随分お世話になっているのに、あんまり灯さんの事も、ルルクゥさんのことも知らないな……って」
「そんなこと、気にせんでもええんよぉ。もう、ハルちゃんは律儀さんなんやから。旦那は……前にも言ったように、ここで山守をしてくれとる一族の、最後の一人なん。おかーちゃんは生まれてすぐ、ここを出てってしもうたらしいんなぁ。お父ちゃんはちっちゃい頃に流行病で亡くなったて。それからずうっと、一人であの洞窟に住んでてなぁ。たまに流れ着く人を助けたりして……。まあ、良くも悪くものんびりでいい人やんなぁ」
「お母さんがいなくなったっていうのは聞いてましたけど、お父さんもだったんですね……」
「おかーちゃんの顔は、全く知らんし、おとーちゃんとの思い出も、あんまり無いって言ってたんなぁ。寡黙な人やったんやと。あたしは、前に言ったようにこの山向こうの街で雑貨屋やっとるよ。街で一番飛ぶんが速かったから、山越えしなきゃならんこんなとこに住んどる、旦那の御用聞きに抜擢されたん。今はハルちゃんに会うために結構通っとるけど、本当は週に二回くらい来てたんよ。あたしも店番あるしなぁ」
地面にがりがりと灯らしいへたくそな落書きをしながら、ルルクゥが言う。
優しい口調で紡がれる灯の過去に、陽花はへにゃりと笑うあの穏やかな顔を思い出して、小さな棘が刺さったように痛む胸を押さえた。
時々流れ着く人と、たまに来るルルクゥ以外に話し相手もいない生活。
それ以外の時は、あの洞窟に一人か、魔物を狩るために山を巡るだけ。
珍しい姿が災いして、あの優しさを知らない人からは、初めのうちの陽花のように怖がられただろう。
「やっぱり、寂しいですよね……そんな生活」
「今はきっとそんなこと無いんなぁ。ハルちゃんがおるもの」
隣からかけられた明るい声に、陽花はきょとんとしてルルクゥを振り返る。
しばらくしてその言葉の意味が理解できた陽花は、じわじわ赤くなる頬を手で隠して、あーうーと意味も無い声を上げながら視線をさまよわせた。
少しでも灯の寂しさが、自分がいる事で紛れているなら。素直に、そうだったらいいな、と思う。
「私、お料理頑張ります。もっともっと、美味しいもの沢山作って、それで……灯さんが帰ってきても、寂しくないように迎えますね」
「ふふふ。ほんなら、ついでにあたしの分も作ってくれたら嬉しいんなぁ」
「当たり前です! だからその、ルルクゥさんも、沢山遊びに来てくださいね」
「やだー! ハルちゃんったらほんと、かわええなぁ! お姉さんがぎゅってしたるー!」
ぎゅー! と柔らかくて暖かな腕と翼に包まれて、陽花は擽ったそうに笑った。
なんとなく、自分の中で何かが吹っ切れたような、そんな気がする。
ここに来てもうだいぶ経つが、元いたあの場所、あの店に戻ることは、きっと出来ない。
今までずっともやもやと抱えていた最後のものが、ルルクゥの話でようやっと晴れた。
(どうせ戻れないなら、少しでも役に立ちたい)
自分の気持ちを脇に置いても、世話になった灯にほんの少しでも恩返しがしたい。
料理以外に取り得もないが、灯の支えになることが出来たらいいと、陽花は小さく拳を握った。
手始めは、灯に頼ってばかりの自分を変えるところから。
「ルルクゥさん、私のレシピって、ルルクゥさんのお店に置いてもらえますか?」
「へ? レシピを?」
「はい。いくつかのレシピを纏めて、冊子みたいにした物を置いてほしいんです。ほんの紙代くらいでいいので、お金が作れればいいなって……。そうしたら、灯さんにも少しはお返しができるかなって。今の私は、灯さんに貰ってばかりですし」
「ええ? でも、いっぺん流通したら、味盗まれるだけで終わってしまうやんなぁ。それでもええの? それが成功したら、ハルちゃんの料理が街でも食べれるようになるってのは、そりゃあ……嬉しいのは確かやけど」
「いいんです。その……ここの料理ってなんというか……。言っちゃあれですけど、そんなに美味しくはないですよね。手間をかけないというか、かけ方を間違えているというか」
「そうやんなぁ」
陽花の言葉にルルクゥは腕を組んで深く頷いた。くたくたに煮ただけの野菜や、黒焦げになる手前の小麦粉の塊。
焼いただけの肉だって確かに不味くは無いが、陽花の手間隙と愛情のこもった料理にはどうやっても適わない。
「料理の発展に貢献してるって思えば、むしろ嬉しいです。街の食事もあの硬いパンからして、こう……察しがつくというか。正直、盗める人が出るまで、それなりに時間もかかるんじゃないかと思いますし……」
「確かに……。まあ、ハルちゃんの料理食べてしまったら、元々街の料理屋なんか入る気にもならんからなぁ」
「だから、早いうちに少しでも沢山の人にレシピを手に取って欲しいんです。お願いします!」
うーん、と唸ったルルクゥは、陽花の熱い視線と自分の食事を天秤にかけて、結局折れた。
「なんか、ハルちゃんに悪いような気がしてならんのだけど……。ええよ。でも、商品にする紙は上等な奴こっちで用意するし、値段もしっかりつけたるから。ハルちゃんの腕、安売りなんかしたらあかんよ」
「えへへ、ありがとうございます!」
「ああもう、あたしハルちゃんには弱いんなぁ」
ばたんと砂浜に寝転び、お手上げだとじたばたもがくルルクゥに、陽花はぎゅっと抱きつく。
頭を撫でてくれる手つきは、本当に姉が出来たようだ。一人っ子だった陽花は、ぽかぽかする胸に少しだけ照れくさくなりつつ笑う。
「これで、少しは灯さんに恩返しができます。もちろん、ルルクゥさんにも」
「うふふー。ありがとなぁ。……しっかし実はハルちゃん、旦那のことだいぶ好きやんなぁ」
「えっ!? あっ、いや、そんな……!」
「誤魔化さなくてもええよぉ。旦那、ええお人やしなぁ」
「あの、その……はい……」
にへら、とルルクゥが告げた言葉に、陽花の頬が熟れた林檎のように赤くなった。その瞳には灯を想う深い気持ちが見て取れる。
微笑ましい陽花の反応に、ルルクゥは頭の下で腕を組んで、抜けるように青い空を見上げた。
「……ハルちゃんなら、大丈夫かもしれんなぁ」
「え? なにか言いました?」
「んーん。なんでもないんよ。さて、そろそろ戻ろっかねぇ。旦那がおやつのおかわり求めて探しに来ちゃあかんしなぁ」
「はい! 腕によりかけて、ルルクゥさんの分も作りますよ!」
嬉しそうに立ち上がって、ゆっくりと洞窟に向かう陽花は気付かない。
背後のルルクゥが何かを想い、ほんの少しだけ不安そうに眉を寄せていたことに。




