〈10〉
キリがいいので少し短めですが。
岩の向こう側から、騒がしい波の音に混じって酷い雨音がする。
明日の朝食に使うじゃがいもの皮を剥いていた陽花は、激しくなるばかりのその音に、ちらりと視線を入り口に投げた。
洞窟の中はいつものようにたんぽぽもどきの明かりによって暖かい光に満たされている。
しかし、みしみしと響く地鳴りと、木々の悲鳴が外の雨風の酷さを中まで伝えていた。
「灯さん、大丈夫かな」
少し前、こんな酷い天気の中でもいつものように狩りに出かけていった同居人に、陽花は小さくため息をつく。
こういった日のほうが魔物は活発になるからと、不安がる陽花の頭をひと撫でして、灯は出かけていってしまった。
今までだって雨が降る日はあったが、こんなに酷い嵐は初めてで、どうしてもそわそわと落ち着かない。
(無事に帰って……来るよね……?)
止まってしまった手を無理やり動かして、陽花は胸のもやもやを忘れることにした。
かち、かち、といつの間にかルルクゥが置いていった古めかしい螺子巻きの時計が煩い。
ごう、と風が巻く音が室内に響いた。
雨と風は、ひたすらその音を激しくするばかりで、一向に止む気配が無い。
「あーもう! 早く帰ってきて下さい灯さん!」
微かに雨音に混じって得体の知れない鳴き声がしている気がして、陽花は自棄になって手にしていた最後のじゃがいもを投げつけた。
いっそ先に寝てしまおうか、と机に掴まって立ち上がった、瞬間。
ズドン!
「きゃああ!?」
地響きとけたたましい音をたてて、入り口を塞ぐ岩が動く。
がらがらと石の崩れ落ちる音が後に続き、陽花は洞窟の上が崩れたのだろうと跳ね上がった心臓を服の上から押さえつけた。
幸い、落ちてきた岩は小さかったのか、ほんの少し入り口から外が見えるくらいの隙間を開けただけで、洞窟自体に被害は無い。
しばらく椅子の上で身構えたまま、震える両手で頭を抱えて陽花は耳を澄ませる。
けれど、それ以上なにも起きないことに、ほっと肩の力を抜いた。
岩が動いたことで雨の音は一層激しく、隙間から吹き込む風がばたばたとそこらの布をはためかせる。
少しの隙間とはいえ、少しずつ吹き込んでくる水に、何かいらない布でも詰め込んで凌ごうかと陽花は立ち上がった。
適当な布地を両手に、数歩入り口に近寄った時。
その隙間で、何かが動いていることに気付く。
初めに見えたのは、細長い紐のようなものだった。
うねうねと意思を持って蠢くそれは、岩の隙間からこちらを窺うように、ずるりと鎌首をもたげて陽花を見る。
「ひ……!?」
ばさ、と息を詰まらせた陽花の手から、布地が落ちた音に反応して、その紐のようなものの下から、手のひらほどある鋭い嘴が岩の間に差し込まれた。
「ぎぃ、ぃぃあぁぁぁあああぁ!!」
「な、なに、これ……!?」
がちがちと鳴らされる嘴から、耳障りな金切り声が響く。
その色は、まるで固まった血のようで、陽花の体から血の気と力がみるみる抜けていった。
恐らく、これが魔物というものなのだろう。
頭で理解しても、体は反応してくれない。がつ、がつ、となんとかして岩の隙間に体をねじ込もうとしているそれは、かろうじて鳥のようにも見える、不気味な化け物だった。
「ああぁぁぁぁああ! ぎぎ、ぃいィああぁぁあぁ!」
「ひ、や、やだ……!」
近寄ってしまって初めて気付く。
長く伸び、こちらをねめつける紐のように見えていたものは、魔物の目だ。
例えるなら、長く伸びすぎた蝸牛の目。
蠕動しながらぐにゃぐにゃと岩に張り付いて、自分の方へ伸ばされたそれに、陽花はへなへなとその場に座り込み、言うことを聞かない左足を引きずって後ずさる。
幸いと言っていいものか、力はさほど無いのか、岩をこじ開けて入ってくるような事にはならなさそうだ。
しかし、陽花はこの化け物をどうにかする方法を持っていない。
未だに呪詛のような声を上げて蠢くそれに、とうとう陽花の目から涙が溢れた。
「陽花!」
「っ……あ……!」
ぽたん、と陽花の頬から涙が落ちたその時、鋭い声とともに魔物の姿が吹き飛ぶ。
めきめきと木の折れる音がすぐ後に続き、陽花は目を見開いた。
衝撃で少しだけ隙間を大きくした岩から覗くのは、息を切らせた灯の顔。
ずぶ濡れの姿でちらりとこちらを見た灯は、しゅう、と喉から威嚇の声を漏らして吹き飛んだ魔物を睨んだ。
「こんな所まで降りてきて……! この子は、お前なんかが見ていいものじゃない!」
怒気を孕んだ声と一緒に、目にも留まらぬ速さで灯の尾が魔物を絡め取る。
めきめきと締め上げる蛇の巨体に全身の骨を砕かれ、岩場に叩きつけられた魔物は、二、三度力なく嘴を開閉すると、ぐたりと息を引き取った。
「かが、灯、さ……」
「陽花! 怪我は? 痛いところは!? ごめんね、怖かったろうに……」
「あれ、あれは……?」
「もういない。もういないから、大丈夫だよ。もう、平気だからね」
完全に魔物が死んだことを確認した灯は、入り口の岩を引き倒して震える陽花を抱きしめる。
怪我が無いことを確かめるように触れる指先は優しく、緊張の糸が切れた陽花の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
雨で濡れてはいるが、灯にも傷らしいものは無い。それに余計安心して泣きじゃくる陽花を、灯は黙って体の上に乗せ、ゆらゆらとあやしてくれる。
「灯さんも……っ、無事で良かった……!」
「陽花は優しいね。ありがとう。もう大丈夫。怖いものはいなくなったよ――」
濡れた灯の体は冷たかったが、陽花は自分が濡れることも気にしないでしがみつく。
自分を守ってくれたその体に、せめて暖かさが戻るように。
陽花は胸に灯った感情のままに、泣きながら大きな背中に回した腕に力を込めた。




