〈1〉
新人賞用に書いたものの蔵出しです。せっかくなので。完結しているのでコンスタントに更新していこうと思います。美味しそうなごはんが書きたかったしろもの……のはず。
海になんて来るんじゃなかった。
飛び飛びの意識と段々苦しくなる自分の呼吸音を聞きながら、陽花は必死にもがく。
助けて。そう言いたいのに、息を吸おうとして入ってくるのは、空気ではなく塩辛くて酷く温い水だった。
「あ……っげほ」
浜辺で騒いでいる彼らは、こちらなんて見向きもしない。
頭から一際大きな波にのまれて、体が海中に沈む。
こんなに深く見えなかったのに。なんで誰も気付いてくれないの。靄のかかる頭の隅が、酷く冷静にそんなことを言っている。
必死に手足をばたつかせても、重りでもつけられたようになにひとつ言う事を聞かなかった。
それでも、なんとか開いた目に飛び込んで来たのは、迫りくる大岩。
衝撃と一緒に、陽花の意識はぶつりとそこで途切れた。
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昼休みのレストラン程、戦場と言っていい職場もないだろう。
注文飛び交う厨房を抜けて、今日も満員で騒がしい店内から、扉一枚隔てた小さな部屋へ向かおうと、狭い通路を進む。時計は既に二時を過ぎていた。
今日はいつもより客の入りがよかったのか、目を回している暇さえない忙しさに思わずため息が出る。最近メインの調理も任されるようになったのは嬉しいが、休む暇も無いのはなかなかに辛い。
昼もだいぶ過ぎたこんな時間にようやく休憩を許されて、へろへろと力なくその扉を開いた陽花は、自分のその行動をすぐさま後悔した。
「あっ! ハルちゃーん! 良い所にきたよー。ねぇねぇ、今度の定休日、暇でしょ? 海行こうよ海!」
「……急にどうしたんですか? 飲み会ならつい先週もしたじゃないですか」
「えー? ハルちゃんかたーい。それはそれ、これはこれでしょ? いあんりょこーってやつ? みんなでぱーっと海で遊ぼうよー! ね?」
扉の開く音に反応して背の高い影が飛びついてきた。
見ればそれは、流行に敏感で遊びと飲み会が大好きなフロア担当の先輩だった。
朝から延々と働いているはずなのにやたら元気なその姿に、ああまたか、と陽花はため息を飲み込む。
彼女は華やかで美しい、いわゆる「今どきの女性」グループのリーダーだ。陽気で明るい彼女は、ぽんぽんと毎週のように飲み会や小旅行の計画を立ててはスタッフ全員に声をかける。
何度断っても、毎度毎度声を掛けてくるマメさ加減と、つい数日前に入った新人のバイトの誕生日すら網羅している情報網には、もはや恐れ入るくらいだ。
今日も一部の隙も無く決められた、長い茶色のゆるふわ愛されパーマ。
陽花にはどうやったら出来上がるのか分からないカラフルで綺麗な爪。
足元は可愛らしいけれど凶器にしか見えない、とんでもない高さのヒールだ。
動き周り続けるフロア担当でこれとは、彼女は超合金の足でも持っているのか。
ひらがなとカタカナだけで喋ってるように聞こえる舌ったらずな彼女の声と、そのパワフルすぎるところが、最初に会った頃から陽花はどうも苦手だ。
「あの、新しいレシピを試したいので、私は……」
「やだやだやだー! ハルちゃんこないなんて付き合いわるいよー! この間もそう言ってきてくれなかったじゃん!」
ぷっくりと頬を膨らませる分かりやすい怒り顔。
陽花はうんざりだったが、同じ部屋にいた男性陣にはそうではないらしい。
「陽、お前別にそのレシピ、そんなに急がなくてもいいだろう? たまには顔見せてもいいんじゃないか?」
「チーフ……。はあ……。分かりました」
「きゃー! やったあ! チーフかっこいい! ありがとーございますぅー」
「いやいや」
でれでれ緩んだ顔の上司に言われ、周りでは同じように男たちがうんうんと頷いている。
男性陣は皆彼女の美しさと、計算され尽くした仕草の虜だ。
いかに自分を可愛らしく見せるか、どうすればそこまで研究できるのかが分からないが、見習えるものなら見習いたい。
別に見られない顔ではないけれど、特に目立つ美人なわけでもなく、スタイルもいたって平均。
髪型だって、染めてもいない黒髪を三つ編みにして、肩にたらしただけ。
化粧もごく薄く、色気より食い気を地で行く陽花では、どう頑張ってもとうてい太刀打ちできないだろう。
ちらほら休憩室にいる他のフロア担当の女性たちも、どちらかというと先輩に似通った人ばかり。既にどこからか仕入れてきた旅行雑誌片手にきゃっきゃとはしゃいでいる。
厨房に立つ女は陽花一人だけだったし、そもそもここの店員達は、皆ノリがよくて楽しいことが好きだ。
見事に味方が誰もいない状況に、陽花はどうしようもなくなって首を縦に振った。
「私なにしてんだろ……」
ぽつりと呟いた声は、早速はしゃぎ始めた周りにかき消される。
たった一人でも、この味が一番好きだと言ってもらえる料理を作る。
そこそこ有名な調理学校を出て数年。そんな一人前の料理人になるのが小さな頃からの夢だった陽花は、偶然訪れたこの店の雰囲気と技術の高さに一目惚れした。
イタリアンというより、少しお洒落な街の洋食屋さん。
働いている従業員達は皆楽しげで、大通りを外れた一角にあるのに、店内はいつも活気で溢れている。
その雰囲気と、独創的で温かみのある料理に魅せられ、自分もここで働きたいと必死で頭を下げた。
最初は少し渋られたが、もともと根が熱い人たちばかりだったおかげで、女ひとり、単身で飛び込んできたその度胸に、彼らは好意的だった。
けれど、熱意と腕を認められて、なんとか厨房に入れてもらったまではよかったのに、蓋を開けてみれば山ほどの不満と悩みにぶち当たった。
もっと別の場所があったかもしれない、ここは自分には合わないところなのかもしれない。
それでも、良い所だって多いこの店が、陽花は純粋に好きだった。考えれば考えるほど、選んだ道が正しかったかなんて分からなくなる。
これまでの道のりを自問自答しても、どうすればよかったのかなんて、ひとつも答えは出なかった。