(1)
上野駅、午前六時十二分。
雪の降る東京へ、彼は夜行列車の三等車から降り立った。静かな町の朝早くではあるものの、往来を行く人の下駄の響きがからころと澄んだ音で聞こえてくる。
駅の軒下から上を見上げるとぱらぱらと小さな粒が落ちてくる。
「……東京にはこんなにも小さな雪が降るのですね。それに明るい。あれが話に聞く瓦斯灯でしょうか。ああ、あれが煉瓦造りですね。まるでここは本で見た西洋の街のようです」
ほう、と白い行きを吐き学帽をかぶり直し、和傘をさして彼は石畳を歩いて行った。
書生として此れから住む家は何処だろうか、住所は知っているのだがときょろきょろしながら歩いて居ると、何処ともなく「もし、そこの書生」と云う声が聞こえる。どうやら足許から聞こえるようだが、と下を見ると綺麗な毛並みの三毛猫が居て「漸く気付いたかね」と大層可愛らしい声で云う。
「東京では猫も喋るのですか、流石は帝都です」と彼は驚いたような調子で目を丸くしてしゃがみ、猫と目線を合わせた。
「左様、ただ帝都広しと云えども喋る猫は吾だけだと思うがな。君は今日から速水教授の家に来る書生だろう?」
「その通りです、何故ご存じで?」
「主人に頼まれたものでね。主人は昨日から英吉利の学会に往かねばならなかった故、出迎えをするように云いつけられたのだよ。君は我が家への往き方を知らぬだろう?」
そう云うと猫はくるりと彼に背を向け歩きだしたため、彼は慌てて猫について往った。
「猫さんは失礼ですがお名前は何と?」
「そうだな、街の人には『仕合わせの猫』と呼ばれたりもするが何と呼ばれようと吾は吾だ。好きなように呼ぶが佳い」
「それでは猫さん、とお呼びしますね。仕合わせの猫ですか。ふふ、好いですね」
「有難う。ただ吾は本当の仕合わせと云うものはとんと見当がつかないのだよ。勿論鰹節や魚を頂いているときは旨いと思うし、日向で寝ている時は心地良い。唯、其れは仕合わせなのだろうか」
「亡くなった母が云っておりました。仕合わせというものはその人の心であると。きっと猫さんも見つかりますよ。猫にも素敵な心がありましょう?」
「そうだな、探してみるとするか。さて、ここだ」
猫が立ち止り見上げた建物を彼も見上げた。
そこは大きな、この大日本帝国には似つかわしくない瀟洒な洋館であった。