第7話 リファズは世界に衝撃しか与えない
リファズの本を読んだ翌朝は、なんだか気分が塞いだ。
あの本に圧倒されている自覚がある。
階下に行くと、既にガルムが食事をしていた。彼の前に置かれた肉の脂っぽい匂いが鼻につき、硬いパンを噛み砕く力強い音が耳に響いた。
彼は全身が汗ばんでいて、どうやら朝の鍛錬を終えたところのようだ。
「おはよ」
僕はガルムの正面に腰を下ろした。
「おう、早いじゃねぇの。朝から辛気臭ぇ顔だなおい」
「ちょっと夢見が悪くてね」
本当の理由を苦笑に包みこんで誤魔化しつつ、僕も朝食を頼んだ。
目の前で元気に食事をするガルム。
給仕をしてくれる、店主の娘さん。
奥で料理を作ってくれている、店主の奥さん。
この場にいる宿の客たち。
そして、安い朝食を注文した僕。
全員が、あの解剖図の中身で構成されていることを、どうしても考えてしまう。図の横に添えられた、感情のない冷徹な文字が脳裏をかすめる。
……だめだ。考えるな、人体をモノとして扱うな。
あれはリファズの悪癖だ。真似するようなものじゃない。
そもそも魔素なしであれこれするという発想が、どうかしている。
事の是非は別としても、現代での活用はできないはずだ。
いつもと変わらない朝食が目の前に置かれる。
何も考えずに咀嚼して、胃袋に流し込む。味がしない。いや、味に意識が向いていない。
なんだか僕だけ、モノになってしまった気がした。
人の世界が遠く感じる。
ガルムは僕を不気味そうに見ていたけど、意を決した顔で口を開いた。
「ルミアナ、しばらく切り離した方が良さそうか?」
……驚いた。ガルムがそんなことを考えてたなんて。
「……僕を切り離すんじゃなくて?」
苦笑が漏れる。おかしなことになっているのは、僕の方だ。
異端かもしれないと言われたのも、僕だ。どちらもルミアナじゃあない。
「いやぁ、ゆうべのお前の様子を見て、正直それも考えたんだが」
ガルムが居心地悪そうに、頭をかいた。
昨晩の僕は、みんなに挨拶もせず部屋に引っ込んでしまった。余裕がなかったとはいえ、悪いことをしてしまったと思う。
「ルミアナは、どこにでも居場所があるだろ。うちから離れてもよ。神官はどこのパーティだって欲しいし、俺らみてぇなのと荒事をやらなくても、神殿に戻りゃいい。ルミアナの本来の居場所は、あっちだ」
一理ある。でもそうすると、ガルムとフィーネは?
僕の内心を聞いたかのように、ガルムが笑う。
「俺とフィーネは、ルミアナみてぇな善人じゃねぇからな。お前とつるんだ方が都合がいい。それに、お前が治癒魔法もどきを使えるなら、願ったりだ」
「……その言葉、後悔するなよ」
ガルムなりの配慮が、鮮烈に突き刺さってきた。不意打ちだ、ずるいぞ、卑怯者め。心の中で罵倒し倒す。そうしないと、どうしようもなく涙が出てしまいそうだった。
気持が少し落ち着いたところを見計らって、冷静さを無理やり表面に貼り付ける。
「……今はまだ、そこまでしなくて大丈夫だと思う。やばそうなら早めに言うよ。ガルムもやばそうだと思ったら言ってほしいし、僕を気にせず対処していいから」
「おう、任せとけ」
感激を表に出すのが悔しくて、なんでもない風を装っているけど、多分バレてるんだろうなあ。目のあたりが熱っぽくて困る。
スープを喉に流しこむと、酸っぱいキャベツとなけなしのベーコンをたっぷりの水で煮込んだだけの、ものすごく薄い味がした。その安っぽい味が、嬉しかった。
******
それから数日は平和だった。
僕は余暇を使って図書館に通い詰め、リファズの本を片っ端から読んだ。
読めば読む程、リファズの天才性を見せつけられた。努力では埋まりそうにない、圧倒的な差だ。
最初の頃こそ落ち込んだけど、途中から開き直った。というか、開き直らざるを得なかった。
リファズが使うのは、徹頭徹尾魔力のみ。魔素には一切触れない。それでいて、莫大な量の魔力を当然のように扱っていた。
消費される魔力量を術式の模式図から概算するだけでも、恐怖でゾワゾワと鳥肌が立つ。
リファズが平然と消費する魔力の量は、僕が人体修復をする時の比ではない。海の水と、コップに入った水の量を比べるが如し。話にならない。
こんなの、笑う以外にどうしろと?
そんなある日、セリアさんと図書館の入口で再会した。
彼女は相変わらず髪の毛をタイトにまとめ、服を崩れなく着ている。一分の隙もない。
「先日はありがとうございました」
お礼をするために、頭を下げた。新たな視点のきっかけをくれたのは、間違いなくセリアさんだからね。
「いえ、お気になさらないでください……少し変わりましたね」
「かもしれません」
自覚はあまりない。でも客観的に考えると、あの本を読んで、変わらない方がどうかしていると思う。だからきっと、変わったのだろう。
「師匠の本をセリアさんが用意してくれたおかげです。……ところでセリアさんは、リファズという天才魔法使いをご存知ですか? だいぶ昔の人物だと思うんですが」
万一知ってたらラッキーぐらいの気持ちで聞いてみると、セリアさんが形のいい眉をひそめた。
「リファズですか……どう書くのでしょうか?」
「こうですね」
Rifaz と空中に指で描く。
途端に、セリアさんが驚愕の表情で固まった。
「リオさん、それ……」
声を上ずらせながら、セリアさんが僕と同じように指文字を描いた。
Zafir
ん?
Rifaz
リファズ
Zafir
ザフィル
ものすごく単純なアナグラム。文字を逆から読んだだけ。
は?
ザフィル?
え?
えええええええ!?
大声を出しかけて、ギリギリのところで止めた。よく耐えた僕、偉い、偉いぞ。
ザフィルって、一人しかいないだろそんなの……!
誰だって知ってる伝説的な有名人だ。非常に悪い意味で。
ザフィルを示す異名が大量に脳裏を通り過ぎていく。
一説では、【大破壊】の元凶とされる人物。
一説では、魔族という幻の種族を、根絶やしにしたとされる人物。
一説では、己の力に飲まれて虚無に消えた人物。
破壊の大魔法使い。
300年前の悪夢。
魔法の化身。
世界の敵。
あり得ない。反射的に否定しようとする。
でも、今まで読んできたリファズの本の、あの脅威的な内容が、否定を許してくれない。
莫大な魔力を当たり前のように扱う術式、人間の命や体に対する冷徹な目線、理解しきれないほど高度な技術、魔素など不要と言わんばかりの態度……。
パズルのピースがはまっていくような、妙な満足感さえ感じる。
「査察局で最初に教わるもののひとつが、暗号や秘密文書に使われやすい言葉遊びなのですが……」
釈明するように、セリアさんが言う。
「まさか、こんなに単純だなんて……」
まったく同感だ。稀代の大魔法使い、偉大なる悪役、親が子を脅すときに使う人名ナンバーワンの超有名人が、こんなにわかりやすいものを使うだなんて。
あまりにもイメージとかけ離れていた。
セリアさんは、高揚と恐怖をごちゃ混ぜにした顔をしている。
「リオさんのおっしゃるリファズは、彼、なんですね……?」
うわずった声で、慎重に訊ねてきた。
「おそらく……」
直接証明できるものはない。でも、辻褄があってしまう。
積み上がった状況証拠を前に、僕は肯定するしかなかった。
「どうか、話を伺わせてください」
真摯な顔で、セリアさんが言う。これは断れないなぁ……。
なんだか僕、包囲されてない?
しかもその包囲網、激狭だよね?




