第6話 僕は深淵に触れた
本には、無数の紙切れが貼り付けられていた。
あちこちに走り書きしたのをまとめたような、あるいはボロボロの欠片を継ぎはぎしたような、何とも歪な形をしている。
走り書きの欠片は、時に丁寧に切り取られ、時に乱雑に破られていた。それでいて、妙に神経質な様子で慎重に貼りつけられている。その割に、糊付けの甘い箇所がいくつもあるし、どうにも一貫していない。
筆跡も妙だ。一人分の筆跡に見えるのに、綺麗な字と拙い字が混在している。感情の起伏が激しい人だったんだろうか。よくわからない。
全体として、著しくまとまりに欠けていた。
……なんだか痛ましいな。リファズとは、どんな人だったんだろう。
てんでバラバラの文字を追っていくと、ただの欠片だった文字が、僕の中でだんだん形になってきた。
この本は、魔力だけを使う魔法術式のメモを寄せ集めたものみたいだ。
何とか理解できるけど、とんでもなく高度な内容だ。普通は何段階もの手順を踏むようなことを、一度でやろうとしている。理屈では成立するけど、こんなのは理論だけ、机上の空論だ。こんなことしても、普通は魔法の発動なんてできない。失敗するのがオチだ。そうとしか思えない。
しかしリファズは、この術式のまま進めている。つまり成功しているんだ。
あり得ない。全身が総毛立った。
******
次の本には、まず人体の形が描かれていた。次に臓器の位置、骨の形、筋肉のつき方、血管や神経に至るまで、細かすぎるぐらい細かく描かれている。描写方法を変え、見ている角度を変え、一切の漏れなく描き出すために、あらゆる方法が試されていた。
しかも筆致が滑らかで、躊躇したときに現れるインク溜まりや滲みがひとつもない。つまり描き慣れているし、人体の構造も熟知しているということだ。
どれだけ描き、どれだけ見れば、この領域に達するんだろう。多分リファズは、目を閉じていてもこれを描けるんじゃないだろうか。
凄まじさに怖気がたつ。
中でも手の構造の拡大図と、痛みの感じ方に対する考察が白眉だ。
手については、手を構成するあらゆる筋肉、血管、神経、腱、骨などに番号が振られ、どのように繋がっているか図示されていた。これさえあれば、手という物体を作成できそうな気さえする。
痛みに関しても、手の構造図に似た、あるいはそれを上回るような詳細さだ。読み終わった人が、人体に対してあらゆる痛みを止められる、あるいは作り出すことができると、錯覚しかねない危うさを感じた。
さらに、ページのあちこちに書かれた走り書きの内容が目を引いてくる。
痛みの止め方に関して、強弱についての言及はあれど、苦痛への同情や辛さを取り去る喜びといった、感情に関わる言葉が存在しない。文章から温度を感じない。
人体を、ただの物質として扱っているとしか思えなかった。
間違いない、リファズがあの修復魔法の作者だ。
たった二冊に目を通しただけなのに、軽い疲労を感じる。一端本を閉じて、今見たものについて考えることにした。
******
術式については、理解したなどとは到底言えない高度さで、やっていることの上っ面を撫でるのが精一杯だ。
やや理解できる解剖図にしたって、僕は修復魔法を使う時、ここまで詳細に確認できていない。おそらくリファズは、実際に人体を解剖したか、とんでもない精度で魔力を扱えたか……あるいはその両方か。
いやこれ、本当にとんでもないぞ……! いずれにしても、公表すれば大論争待ったなしだ。影響がどこまで波及するか、想像もつかない。
師匠がこの本を隠した気持ちが、なんとなく理解できてしまった。
あの修復魔法は、リファズの知識・技術・魔法体系の頂点なんかじゃない。ほんの裾野に過ぎないんだ。
僕は今まで、道具の補修や修理をする魔法の頂点にあるものが、人体修復魔法なんだと思っていた。しかしその価値観が、大きな音を立てて崩れていく。
こんな魔法使いが、いたんだな……。
体がゾクリと震え、寒くもないのに自分の肩を抱いた。リファズはあまりにも規格外だ。
師匠はこれを読んで、何を思ったんだろう。今の僕のような、恐怖と畏れと、自分の能力への疑いが混ざったような気持ちになったんだろうか。
震えが止まらないまま、次の本を手に取る。きっと僕は、読めば読むほど自信を失うだろう。魔法についてはできる方だと自負していたけど、リファズに比べると赤子同然だ。
いや、現代の魔法そのものが、価値を問い直されているのかもしれない。それぐらいのインパクトは充分にある。
結局僕は、閉館までその場を動けなかった。
******
図書館を追い出されてからも、あの本の内容が頭の中をグルグルしている。黒革の手触りや匂いまで思い出してしまう。内容の恐ろしさに吐き気さえ覚えるのに、考えることが止められない。
──結局僕は、あの本に魅了されているんだな。
内容に関して、理性で否定することはいくらでもできるのに、あの魅力だけは否定しきれない。
しばらくの間は、あの本を読むために図書館に通う日々が続く気がした。
リファズの本は、師匠と同じ方法で隠すことにした。あまり見せていいような内容でもないし、なんといっても、持ち帰るには多すぎる。
空間を綴じ直したときは、正直なところホッとした。あの黒革の本がこれ以上暴れないよう、抑え込めた気がして。
宿に戻った後は、さっさと部屋に戻ることにしよう。一人で頭を整理しないと、日常生活に戻れる気がしなかった。




