第38話
「でーーとだぁ!?? ッチ! 冗談も休み休み言えよ、この偽りの王がッ!!」
翌朝、王座の間からナギの悲鳴に近い驚愕の声が響き渡った。
俺は欠伸を一つ噛み殺し、ソファに座ったまま彼女を冷たく見下ろす。
「視察だと言っているだろう。この国の現状を俺の目でもう一度確認する。お前は側近だ、当然付いてこい」
「嫌に決まってんだろッ! 誰があんたなんかと二人きりで……ッチ! 死んでも御免だよッ!」
「そうか。なら俺は一人で行く。だが忘れるな、お前は俺から五メートル以上離れれば呪いで心臓が止まる。俺が歩けば、お前は嫌でも犬のように後ろをついてくることになるが……それでもいいのか?」
「…………ッ!! ッチ、ッチ、ッチ!! どこまで最悪なんだよあんたはッ!!」
ナギは激しく地団太を踏み、悔しさで顔を真っ赤にしながら、俺が無理やり用意させた外出用の服へと着替えに走った。
数十分後。俺はパジャマ同然のゆったりとしたダル着に羽織りものという、王としてはあまりに無頓着な姿で現れた。対してナギは、文句を言いながらも「一応、王の隣を歩く以上は」と、彼女なりの矜持からか、仕立ての良い軽装の旅装束に身を包んでいた。
「……フン。そんなにお洒落して、俺とのデートが楽しみだったのか?」
「ッチ! 勘違いすんなよッ! 恥をかくのはあたしなんだからなッ!」
頬を膨らませて全力で嫌悪の表情を浮かべるナギを連れ、俺たちは城を出て活気あふれる街へと繰り出した。
大通りは、エルフたちの熱気に包まれていた。
至る所で新設された露店が並び、同族同士の交流に花が咲いている。
「開国した以上、これからは人間もこの街に増えていくだろうな」
俺が何気なく呟くと、ナギの表情が氷のように冷え切った。
「……ッチ。人間なんてゴミだ。奴らは私利私欲にまみれて、いずれこの世界樹も、あたしたちの居場所も独占しようとする。それは歴史が証明してるだろ。だから、人間のお前なんて信用できないんだッ」
ナギの言葉には、エルフたちが代々受け継いできた深い傷跡が宿っていた。かつて世界樹の支配権を巡り、人間側が仕掛けた一方的な侵略戦争。その因縁がある限り、彼らが人間に心を開くことはない。
「……それはさせないから安心しろ」
「あ……?」
「俺は、俺の支配するものを誰にも奪わせない。エルフはすでに俺の所有物だ。俺の持ち物を傷つける不埒な輩がいるなら、それが人間だろうが神だろうが、俺が根絶やしにして守ってやるさ」
ナギは一瞬、呆気に取られたように俺を見上げた。
「……エルフって……私も」
小声で、消え入りそうなほど微かな声だった。
「何か言ったか?」
「……ッチ! 何でもないよッ! さっさと歩けよッ!」
ナギは慌てて顔を背けたが、その耳の先が少しだけ赤くなっているのを俺は見逃さなかった。
だが、課題は山積みだ。エルフと人間の根深い因縁をどう解消し、共存させるか。あるいは、共存などさせずに恐怖で抑え込むか。考え直す必要がありそうだ。
街の視察を続ける中で、俺は経済的な欠陥も痛感していた。
現在は物々交換が主流で、効率が悪すぎる。
(ユグラディアで貨幣の流通が必要だな。……まあ、細かい設計はイリスに丸投げすればいいか)
そんなことを考えながら大通りの喧騒からわずかに外れ、薄暗い路地裏へと差し掛かった時、そこにはユグラディア王国の発展とは真逆の、ドロドロとした負の情動が渦巻いていた。
「……ヒヒッ、いいじゃねえか。この国に来れば食い物も寝床も保証されてるんだろ?」
「だったらよぉ、女の身体を差し出すくらい、安い手間賃だろ。なぁ、姉ちゃん!」
下卑た笑い声が石壁に反響し、不快な音を立てている。
俺が角を曲がると、そこには三人の屈強な男エルフたちが、一人の女エルフを壁際へ追い詰めていた。男たちは外の過酷な放浪を生き抜いてきたのだろう、その身体には数々の傷跡があり、エルフ特有の優雅さよりも野卑な暴力性が際立っている。
中心にいる女エルフは、すでにその薄い衣類を無残に引き裂かれていた。
「……や、やめて……お願い……」
という消え入りそうな悲鳴も、男たちの欲望を煽るスパイスに過ぎない。露わになった真っ白な肌は恐怖に震え、涙に濡れた瞳は絶望に濁っている。
「何をしている、貴様ら」
俺の冷淡な声に、男たちがぎょっとして振り返った。
一瞬、彼らの顔に恐怖が走る。だが、ダル着姿の俺と、小柄なナギという組み合わせを見て、彼らの慢心が恐怖を上書きした。
「……あぁ? どこのガキかと思えば、人間じゃねえか。ここはエルフの国だぞ? 人間のガキが、俺たちの『お遊び』に口出しするんじゃねえよ」
「ッチ……。救いようがない、このクズ共は」
隣で、ナギが低く、地を這うような声で吐き捨てた。彼女の纏う空気が一変し、殺気が物理的な圧力となって路地裏を支配する。
俺は男たちの言葉を無視し、目の前の光景を冷徹に分析した。
この国の致命的な欠陥。
それは、急増する人口に対して、治安を維持する「騎士団」という暴力装置が存在しないこと。
そして、圧倒的な女尊男卑……いや、正確には「圧倒的な多数派である女エルフ」を守るシステムがないことだ。外から流入してきた「力」を持つ男たちが、牙を持たない女たちを獲物と認識する……これは当然の帰結だった。
「くだらないことはやめろと言おうとしたが……」
俺が口を開きかけた、その刹那だった。
「――ッチ! 汚らわしいんだよッ!!」
閃光。
ナギの姿が俺の視界から消えた。
次の瞬間、男エルフ三人の身体が同時に硬直する。
「……あ、が…………?」
一人の男が自分の喉元を押さえた。だが、そこからは指の隙間を縫うようにして、ドロりとした暗紅色の鮮血が勢いよく噴き出した。
ナギの短剣が、目にも止まらぬ速さで三人の頸動脈を正確に切り裂いていたのだ。
「ぐっ、う……ぁ……」
男たちは絶叫すら上げられず、膝から崩れ落ちる。石畳の上に、生温かい血の海が急速に広がっていく。
ナギは返り血を浴び、頬とピンク色の髪に赤い斑点を作りながら、冷酷な瞳で死にゆく者たちを見下ろしていた。
「……ッチ。外道め。まともな生活ができるようになった途端にこれか。あんたたちみたいなクズを生かしておく空気すら、この街にはもったいないんだよッ」
ナギは死体の服で短剣を乱暴に拭うと、腰の鞘に収めた。
助けられた女エルフは、返り血を浴びた恐怖と、救われた混乱でガタガタと震え、声も出せずにその場にへたり込んでいる。
ナギが背を向け、不機嫌そうに舌を打つ。
「少し早いが、帰るぞ。気分が悪い」
俺は地面に転がる三つの骸と、その先に聳える世界樹を交互に見やった。
平和の象徴である大樹の下で、これほどまでに容易く蹂躙と殺戮が行われる。それが、俺の統治する「ユグラディア」の現実だ。
城への帰路、俺は頭の中で優先順位を書き換えていく。
通貨の概念を導入して経済を掌握する。
他国との交流を増やし、資源の循環を加速させる。
そして――何より早急に、この街に「法」を敷き、それを執行するための絶対的な「軍(暴力)」を、エルフたち自身に持たせる必要がある。
「……騎士団の創設か。やることが山積みだな」
俺は重いため息をついた。ナギの連続する舌打ちが、まるで俺の無能を叱責するように路地裏に響き渡っていた。




