第33話
世界樹の頂上、雲海を眼下に望む王の書斎。かつてゾナンが私的な悦楽のために使っていたこの部屋は、今や新生ユグラディア王国の政務の中心地へと変貌していた。
俺は黒檀の椅子に深く腰掛け、窓から差し込む夕光を浴びながら、側近の一人であるイリスの報告に耳を傾けていた。
「レオン様。……ふふ、見てくださいませ。これが我が国の『血液』となる魔石の最新報告書です」
イリスは艶やかな笑みを浮かべ、机の上に数枚の羊皮紙と、掌に乗るほどの大きさの魔石を置いた。その石は、内部から脈動するように淡い翠色の光を放っている。
「世界樹の根元から採掘されるこの魔石……。驚くべきことに、そのマナ濃度はセントリア王国の特級品を遥かに凌駕しております。さらに特筆すべきは、その『再生速度』。一度掘り尽くした鉱床でも、世界樹が大地から吸い上げるマナによって、およそ一週間で元の結晶体へと再生成されるのですわ」
俺は魔石を手に取り、その重みを感じる。指先から伝わってくるマナの奔流は、確かに凄まじい。
「……なるほど。一週間で再生する無限の資源、か。だがイリス、供給が需要を上回ればどうなるか、理解しているな?」
「ええ、重々承知しておりますわ。市場に溢れさせれば、石の価値は暴落いたします。……ですから、流通はすべて我が国で一括管理し、他国には『限定的な割り当て』という形で高値で売りつける。魔法が文明の基盤である以上、この石を握ることは、世界の首輪を握ることと同然です!」
「その通りだ……慎重に、かつ大胆に進めろ」
「ふふ、お任せくださいませ。……レオン様の覇道のためなら、私はどんな悪女にでもなってみせますわ」
イリスが熱っぽい視線を俺に向け、その豊かな胸を机に預けるようにして身を乗り出した。その時だった。
「……レオン様? 何でしょう、この空気……」
イリスが眉をひそめ、辺りを見回した。
書斎の隅から、音もなく這い出してきたのは、不気味なほど真っ白な靄だった。それは瞬く間に広がり、窓からの光を遮り、豪華な家具の輪郭を奪っていく。
「霧か。……イリス、下がれ」
俺は短く命じたが、返事はない。隣にいたはずのイリスの気配が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。視界は一メートル先すら覚束ない、完全なるホワイトアウト。
「……ッチ! 隙だらけなんだよ、偽王がッ!」
霧の奥から、鋭い殺気と共に、吐き捨てるような女の声が響いた。
次の瞬間、俺の背後から凄まじい速度で何かが肉薄してくる。空気の震えが、鋭利な刃物の存在を告げていた。
「死ねッ!!」
目前一メートル。霧を切り裂いて現れたのは、フードを深く被り、銀色の短剣を逆手に構えた女エルフだった。その瞳は憎悪で真っ赤に充填されている。
短剣が俺の背中を貫こうとしたその刹那、俺の意志に呼応して、周囲の空間が物理的に凝固した。
――キィィィィィィン!!
「なっ……!? ッチ、なんだよこれ……!? 刃が通らない……ッ!」
俺の周囲に展開された不可視の障壁『王家の盾』が、女の全力の一撃を火花と共に弾き返した。女エルフは驚愕に目を見開いたが、即座に空中で身を翻し、霧の中へと再び姿を消す。
「……曲者か。城の警備を潜り抜けた根性だけは認めてやろう」
「……黙れッ! ッチ、どの口が言うんだッ。あたしたちの森を、ゾナン様を奪った強盗の分際でッ!」
四方八方から声が響く。反響を利用し、位置を特定させない高度な暗殺術だ。
霧の中に潜む彼女は、何度も何度も舌打ちを繰り返しながら、さらに殺気を研ぎ澄ませていく。
「貴様だけは……ッチ! 貴様だけは絶対に許さないッ。この森を穢す悪党は、あたしがここで仕留めてやるッ!」
女の憎悪は、本物だった。だが、俺に向けられたその刃が、真実を知らぬ「盲目の正義」によるものだと知った時、俺の唇は自然と歪んだ。
「……面白い。その『正義』、どれほどの重みがあるか試してやろう」
俺は霧の中、気配が凝縮された一点を見据え、一歩踏み出した。




