第28話
本来、この世界の魔法体系において「洗脳」という魔導は存在しない。精神操作に類するものはあっても、人格そのものを書き換えるような力は理に反している。だからこそ、その理を無視する力を持つレオンは、この世界における唯一無二のバグなのだ。
「この子らはボクが洗脳した。今この瞬間からボクの言うことを聞き、ボクのために命を捧げる人形になったのさ。どうだい? 君が積み上げてきたものは、今、ボクがすべて奪い取ったんだ」
ゾナンが醜悪な笑みを浮かべて宣言すると同時に、シホとラフィーネが糸の切れた人形のようにその場に膝をつき、力なく倒れ伏した。本来あり得ぬはずの「精神の上書き」。ゾナンが誇らしげに掲げたその指先には、淡く不気味な光が宿っていた。
レオンは沈黙の中で、ゾナンの手元を凝視した。この世界の理では説明できない現象。だが、その力の源泉に心当たりがあった。
「……なるほど。精霊の力か」
「せいかーい! 聖霊の加護があれば、この世界の退屈な理なんて関係ない。透明になることも、君の自慢の駒をボクの犬に変えることも、自由自在なんだよ! ざんねんだったねぇ、レオン君?」
ゾナンは勝ち誇り、肩を揺らしてレオンを嘲笑する。かつての支配者としての余裕を取り戻したつもりなのだろう。だが、対照的にレオンの肩が、微かに震え始めていた。
「……ひっ、ふふ……あーはははは! ははははははは!!」
「……何がおかしい? 恐怖のあまり、その空っぽな頭までおかしくなってしまったのかい?」
ゾナンが不気味そうに眉を潜める。レオンは溢れ出た涙を指先で拭い、地獄の底よりも冷たい視線でゾナンを射抜いた。
「笑わずにはいられん。貴様如き三流が……精霊という『外付けの補助輪』を借りた程度の人形が、俺の、この絶対的な支配を超えられると思ったのか?」
「強がりを……! そいつらはもう、ボクの命令にしか従わない人形なんだよ!」
「なら、試してみるか? ……シホ!」
レオンが言い放った直後。
ピクリとも動かなかったはずのシホの身体が、爆辞的な初速で跳ね上がった。
「――がぁぁぁぁっ!?」
ゾナンの視界が銀色の閃光に塗り潰される。
「そんな、ボクの支配が……っ!?」
驚愕の声が漏れるのと、シホの剣先がゾナンの右目に突き刺さるのは同時だった。
「あ、あぎゃああああ! ボクの、ボクの目がぁぁぁ!!」
絶叫し、のたうち回るゾナン。だが、その逃げ道を塞ぐように、倒れていたはずのラフィーネが優雅に立ち上がっていた。その指先は、すでにゾナンの顔面から数センチの距離に固定されている。
「レオン様の愛という『真実』を、貴方の安っぽい暗示で汚そうとした罪……。その顔面を消し飛ばすことで、少しは洗われるかしら?」
――ドォォォォン!!
至近距離で炸裂した極大の爆破魔法。ゾナンの左目とその周囲の皮膚、肉、骨がまとめて焼き飛ばされる。
「あ、あ……あぁ……」
両目から鮮血を噴き出し、もがき苦しみながら地面を這いずるかつての王。レオンは一歩、また一歩とゆっくり近づき、その泥水と血に塗れたゾナンの頭を、無造作に、そして力強く踏み抜いた。
「ボ、ボクの精霊魔法が……精神への絶対的な干渉が、なぜ……っ! 確かに、書き換える手応えがあったはずなのに……!」
「……教えてやろう、三流。俺の支配は、お前の言う魔法や暗示といった生ぬるい次元ではない。魂の根源に刻み込まれた『絶対的な理』だ。貴様のまやかし程度の暗示で、俺のテイムが上書きされるなどという甘い幻想は捨てろ。俺の所有物は、死んでも俺のものだ」
ゾナンは激痛に顔を歪め、欠けた歯の隙間から血混じりの笑みを漏らした。
「……ふふ……はははっ! まだだ! 勝ち誇ったつもりだろうが……残念だったね。ボクの本当の切り札は、ここにはないんだよ……!」
「ほう?」
「お前の支配しようとしているエルフ共は、今頃みんな死んでいるはずだ……! 俺が、精神を壊した女どもを、なぜわざわざ村に戻していたか分かるか? ……あいつらは全員、ボクの暗示を仕込んだ『爆弾』なのさ! ボクが合図を送れば、奴らは今頃村に火を放ち、仲間の首を刈り取り、井戸に毒を入れているだろう! 絶望に染まったお前の村を、せいぜい楽しみに待つんだな!!」
狂ったように笑い、自らの勝利を確信するゾナン。だが、レオンはただ退屈そうに鼻を鳴らしただけだった。
「……そうだったら良かったな」
「なに……?」
「強欲な支配者が、一度手に入れた所有物を容易く手放すはずがないよな。貴様が、わざわざ一度壊した女たちを野に放った。その時点で、何らかの再干渉を狙っていることなど、子供でも分かる稚拙な策だ」
ゾナンが目を見開く。レオンの声は、どこまでも冷たく響く。
「だから俺は、村に残るゾナンの『被害者』たちを、すでに一人残らず全員、俺の支配下に置いた。そして……精霊の微弱な支配よりも、俺の絶対服従のほうが、支配力は上だ。それは、あの壊れたイルマをテイムした時にすでに証明されている」
今頃、村の「爆弾」たちは、イリスや狂愛の信徒となったエルマの監視下で、レオンへの愛を囁きながら、穏やかな微睡みの中にいるだろう。
「……さて、ゾナン。俺は優しいから、一つ提案をしよう」
レオンは腰のホルダーから漆黒の短剣を取り出し、ゾナンの剥き出しになった喉元に、ひんやりとした刃を当てた。
「お前が持っている王の座を俺に譲れ。そして、その『精霊』の正体と、契約の方法、知っているすべてを吐け。……そうすれば、貴様の惨めな命くらいは、今すぐ刈り取らずに『解放』してやってもいいぞ?」
支配の格差を突きつけられ、光を失ったかつての王に、真の支配者からの無慈悲な通告が突きつけられた。




