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さようなら、アラン様

馬車の揺れは穏やかで、ほとんど眠気を誘うほどだった。

けれど、まぶたを閉じれば昨夜の光景が蘇るに違いない。

だからリシェルは、ただ窓の外に流れる薄い朝靄を眺めていた。


王都の外れの小道は、夜明けの光を受けて淡く霞んでいる。

その静けさに包まれながら、胸の奥で何かがゆっくりと冷えて、そして整っていくのを感じた。


「……本当に、終わったのね」


呟きは自分の耳にも小さく響く。

指輪の跡が残る薬指を見つめると、そこにある空白が自分の心そのもののようだった。


どれほど尽くしても埋まらなかった隙間。

いまはただ、冷たい風が通り抜けるだけの場所になっている。


馬車はやがて王都の東区、まだ目覚めきらない商業地の外れに入った。

夜露の残る石畳を踏みしめ、リシェルは静かに馬車を降りる。


ここは彼女がかつて慈善活動で訪れた街区。

貴族が集う煌びやかな社交界とは無縁の、質素だが温かい場所だ。


だが、今は誰もいない。

店の軒先にはまだ灯りすらついていない。


──それが心地よかった。


人の視線も、噂話も、哀れみも祝福もない。

ただ、朝の空気だけが平等に頬を撫でてくれる。


細い路地の奥、古いレンガの建物に荷を運ぶ男がひとりいた。

背を丸め、丁寧に木箱を積み直している。

彼の存在は、風景の一部のように自然で、誰の記憶にも残らないだろう。


そのさまを眺めていると、不意に胸の奥で緊張がほどけた。


(……そう。今の私は、この街の誰と同じように、ただの一人の女)


確かめるように深く息を吸い、吐く。

その瞬間、胸の内側からゆっくりと痛みが抜けていく。


「今日だけは……何も考えずに歩きましょう」


ドレスの裾を軽く持ち上げ、一歩踏み出す。

控えめな足音が石畳に吸い込まれていく。


どこへ向かうのか、自分でもわからない。

けれどそれでいいのだと思えた。


昨夜までの自分は、行き先を“誰かに”決められる人生だった。

今日からは違う。

目的がなくても、選ぶのは自分だ。


陽が少しずつ強さを帯び、街の角に淡く影を落とす。

新しい一日が始まる。

過去が音もなく遠ざかっていく。


ふと振り返れば、王都の中心部がかすかに見えた。

そのどこかに、まだ眠るアランがいる。


彼は、自分が何を失ったのか、気づくだろうか。

それとも気づかないまま、あの令嬢と甘い朝を迎えるのだろうか。


どちらでもよかった。

もうリシェルには関係のないことだった。


「さようなら、アラン様」


もう一度だけ、小さく呟いた。

その声は秋の朝の冷たい空気に溶け、跡形もなく消えていった。


そしてリシェルは通りへとゆっくり歩き始めた。


石畳を踏む音が、次第に街の雑踏に紛れていった。

東区の中心部に近づくにつれ、店の扉がひとつ、またひとつと開き始める。

あたたかな湯気の立つパン屋、干し草の匂いが漂う馬具店、

そのすべてが、リシェルには遠い世界のように感じられた。


(……こんなにも、世界は動いていたのね)


公爵夫人として過ごした日々は、

限られた人たちの視線と声に囲まれた、窓のない部屋のようだった。

そこでは世界が“自分のために回っている”ように錯覚し、

同時に、息苦しいほど狭かった。


だが今は違う。

誰も彼女に気づかない。

誰も彼女を縛らない。

誰も彼女を選ばないし、拒まない。


それは自由であり──孤独そのものでもあった。


「……落ち着ける場所を探さないと」


か細い声で呟きながら、リシェルは通りの外れへ歩いた。


人通りの少ない路地の先に、小さな広場があった。

古い噴水の水はほとんど涸れかけ、

周囲には色あせた花壇があるだけの、簡素な場所。


誰も来ない。

だからこそ、足が止まった。


噴水の縁に腰を下ろし、両手を膝の上に重ねる。

手の甲に残る細かな傷跡が、かつて慣れない家事に励んだ日々を思い出させた。


「……あの時も、見てくれなかったわね」


些細な怪我に気づいてほしくて、

食卓のワインを注ぐときにさりげなく手を見せたことがあった。

アランは書類から目を上げずに、ただ「そうか」とだけ言った。


胸の奥がずきりと痛む。


気づけば、視界が滲んでいた。


涙はずっと拒み続けていたのに、

ここに来て、堰を切ったように零れ落ちた。


ぽたり、ぽたり──

石に吸い込まれるように消えてゆく。


「……どうして、あんなに……」


声にならない声が、喉の奥で震える。


愛されたかった。

ただそれだけだった。

見てほしかった。

名前を呼んでほしかった。

隣に並びたかった。

共に歩きたかった。


それだけのことが、どうしてあんなにも難しかったのだろう。


「……私を、捨てたのではなくて……」


言葉が震えた。


「最初から……“見ていなかった”だけなのよね……」


涙が指先に落ちるたび、

胸の奥の硬く凍りついた部分が、音を立てて崩れていく。


どれほど泣いたのかはわからない。

太陽はいつの間にか高く昇り、噴水の縁に当たる影の角度が変わっていた。


やがて、涙は自然に止まった。

嗚咽も震えも消え、ただ静かな余韻だけが残っている。


そして、胸の奥で小さな声が響いた。


──これでいい。


泣くことは負けではない。

弱さは恥ではない。

今日の涙は、昨日までの自分との別れだ。


リシェルはゆっくりと立ち上がり、

涙の跡が乾いた頬をそっと指で拭った。


「大丈夫よ、リシェル。

ここから始めればいいの……ひとりでも」


広場を後にし、再び通りへ歩き出す。


その背中は細く、まだかすかに震えていたが、

その歩みにはさっきよりも強く、確かな意志が宿っていた。

ゆっくりと。

しかし確かに、新しい人生へと歩き始めた

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