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未明の猫

作者: 相沢ごはん

pixiv、個人サイト(ブログ)にも同様の文章を投稿しております。


(ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 佐藤さんは猫と暮らしていた。大きくて、太った、あまりかわいくはない猫だった。だけど、佐藤さんは、その猫のことを愛していた。たぶん。

 佐藤さんというのは、以前、勤めていた職場の同僚だ。いままでにいたどの職場にも佐藤さんという人はいたのだけれど、「佐藤さん」というと、私はその佐藤さんを思い出す。


 佐藤さんはいつも定時で帰っていた。繁忙期などで周りがどんなに忙しくしていても、必ず定時で帰る。そのため、他の同僚や先輩たちから、ちょっとだけ陰でヒソヒソと言われていた。定時で帰ることは悪いことではないのだが、自分を含め他の人はがんばっているのに、なんで佐藤さんだけ……という気持ちがあったのかもしれない。

 私は、残業代をありがたがる質だったので、佐藤さんが定時で帰ることに思うところなどなかったが、佐藤さんがなぜ定時で帰りたいのかには少し興味があった。なにか趣味があるのか、副業をしていたりするのか、それとも、ただ帰りたいだけなのか。それこそ余計なお世話なのだが、気になってしまって、佐藤さんが退勤の準備をしているところに声をかけ、尋ねたのだ。

「佐藤さんって、なんでいつも定時で帰るの? なんか習い事とかやってるの?」

 べつに責めてるわけじゃなくて単純に興味があって、と言う私に、佐藤さんは、「猫の世話があるから、早く帰りたいだけ」と答えた。

「え、猫いるの? 見たい! 撫でたい! 今日、私も定時だからいまからお家に見に行ってもいい?」

 猫好きだった私は、佐藤さんの言葉に食いつき、持ち前の図々しさを発揮して、家に行きたいとねだった。そのころの私は、ペット不可のアパートに住んでおり、猫を飼いたくても飼えない状況だった。「そんなにいいもんじゃないよ」とか「人見知りだから部屋から出てこないかも」と、渋る佐藤さんに、

「材料とかビール買って、鍋パしようよ。家にお邪魔させてくれるなら、私が費用を出すよ」

 私はさらに図々しく圧力をかけていく。私の圧に負けた佐藤さんは、「うん。じゃあ、いいよ」と、うなずいてくれた。

「うちの猫、デブだし、あんまりかわいくないよ」

 佐藤さんは、謙遜なのかそんなことを言った。

「えー、デブ猫、かわいいじゃん。ていうか、猫はみんなかわいい」

「運動させなきゃいけないんだけど、なかなかね。動きたがらなくて」

 佐藤さんは悩ましそうに言う。

「穏やかな性格なのかな」

「でも、お風呂を嫌がんないのが幸い」

「ああ、多くの猫は水を嫌がるもんね」

 そんな会話をしながら、スーパーからの道を歩いて、こぢんまりとした日本家屋に到着した。佐藤さんの両親は亡くなっていて、いまは佐藤さんと猫のふたり暮らしなのだという。

「やっぱ、動物と暮らすなら、戸建てだよね」

 私の言葉に、「まあ、そうかな」と佐藤さんはうなずいた。

「ただいま」

 玄関の引き戸をガラガラと開けると、目の前に二階へ続く階段があった。

「にぃちゃーん」

 階段の上に向かって佐藤さんは声をかけた。私は当然、猫が顔を出すものだと思っていた。しかし、階段の上からのっそりと顔をのぞかせたのは、無精ひげを生やし、スウェットを着た太ったおじさんだった。

「え」

 思わず小さく声が漏れた。太ったおじさんは、私の姿を確認した途端に、壁の向こうへさっと隠れてしまった。

「うちの猫。ね。かわいくないでしょ」

 佐藤さんが真顔で言った。

「え、え、猫?」

 混乱する私に、

「うん。ごめんね、人見知りしてるみたい」

 佐藤さんは、先ほどのおじさんの態度を謝ってくる。

「それはべつにいいけど、え、猫?」

「猫。あれは猫。猫だと思わないとやってらんない」

「あ……そう……」

 詳しい説明はなかったけれど、佐藤さんのその言葉に妙に納得してしまった私は、佐藤さんの猫が実は人間のおじさんだったことに少しがっかりしつつも、気持ちを切り替え、意識を鍋パへと向けた。

「帰りたくなってきたでしょ」

 佐藤さんが言う。

「え」

「帰っていいよ」

「ちょっと待って」

「猫を見にきた人は、みんな帰りたくなるみたい」

 その言葉で、私の前にも、佐藤さんの猫を見たがった人がいたらしいとわかる。

「いや、待って待って。鍋パする気満々で来たから、食べてから帰らせてほしい」

「それもそうか。てか、西野さんて意外とメンタル強いね」

 佐藤さんは感動したように目を輝かせて言った。

「うん。よく言われる。あと、ナチュラルに失礼とか、デリカシーがないとか、無神経とかも言われる」

 私が言うと、佐藤さんは大きな口を開けて、あはは、と笑った。佐藤さんが笑ってくれて、少しほっとした。

 台所で、佐藤さんとふたりで鍋パの準備をしていると、

「くるちゃん、こちらの方もいっしょにごはんを食べるの?」

 戸から顔を半分だけのぞかせて、いつの間にかいた太ったおじさんが言った。

「うん。会社の同僚の西野さん」

 くるちゃん? ああ、佐藤さんの名前は来る海と書いて「くるみ」さんというんだったなあ、そういえば。などと、思っていたら、

「来海の兄です。こんばんは」

 太ったおじさんは言った。佐藤さんの猫は、佐藤さんのお兄さんだった。さっきはあった無精ひげがなくなっている。剃ってきたらしい。服も、スウェットからシャツとチノパンに変わっている。

「こんばんは、佐藤さんのお兄さん。西野です。お邪魔しています。ビール飲みますか?」

「飲みます……」

 知らない太ったおじさんと同じ鍋をつつくという状況を躊躇う気持ちが少しだけあったので、私は佐藤さんに倣い、彼のことを猫だと思うことにした。

 畳に直に座って鍋を食べ、缶ビールをぐびぐびと煽ると、口が滑らかになり、言わなくていいことを言ってしまう。

「佐藤さんのお兄さんは、お仕事はしてないの?」

「してない」

 猫は缶ビールを舐めるようにちびちびと飲みながら悪びれた様子もなく言う。

「兄ちゃんは、ずっとひきこもってるの。家から出られないんだ」

 佐藤さんは無感情に言った。

「佐藤さんはさあ、今後も、ずっとこの人の面倒見るの?」

「うん。そのつもり」

 私の無神経な問いに、佐藤さんは、それがあたりまえみたいにそう答えた。

「捨てちゃわないの? うんざりしてるでしょ? 捨てたっていいと思う」

「本人を目の前にしてひどいことを言わないでほしい」

 猫がしょんぼりと言う。大きな身体で背中をまるめている様子は、まるで小さくなろうとしているかのようだ。

「だって、家にいるだけでしょ。猫は存在するだけで尊いけど、佐藤さんのお兄さんは癒しにもならなそう」

 佐藤さんはまた、大きな口で、あはは、と笑った。

「ひどい」

 猫が言う。

「じゃあ聞くけど、家事とかやってんの? ごはんつくったり、日々の掃除、洗濯、洗面所のタオルの交換、トイレットペーパーの交換、ごみ袋の交換、電球の交換とか、佐藤さんの助けになるようなことを、なにかしてんの?」

「家事はしてない……けど、でも僕だって、投資とかでちょっとだけ稼いでる。くるちゃんほどではないけど」

「どのくらい? 最高で、佐藤さんの月のお給料の何分の一くらい?」

「四分の一くらい……」

「じゃあたぶん、一桁万円じゃん。副業レベルじゃん。まあ、全然ないよりは助かるけど」

「西野さんは、失礼だし無神経だ」

 猫は憮然として言った。

「よく言われる」

 私のこの性質は治らない。思ったことはすぐ口に出るし、相手の気持ちを慮ることが苦手だ。教えてもらえたら次から気をつけることができるけど、そういうことを教えてくれる人は少ない。だから、自分の発する言葉のすべてが、失礼でデリカシーがなくて無神経なのものなのだと自覚して生きていくことにした。そうすると、自分でそれに気づいていなかったころよりは、少し、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。なんで避けられてるんだろう、と、わけのわからないままに気を揉むことも減った。

「兄ちゃんは、癒しにはならないけど、ちょっと頼りになるんだよ」

 佐藤さんが、猫を庇うように言った。

「具体的なエピソードがあるの?」

「ある」

 私の問いに、佐藤さんは即答した。

「あったかなあ」

 猫は不思議そうにそう言った。

「高校生のとき、学校帰りに変質者に遭ったんだよね」

 佐藤さんが話し始める。

「え、やだ、怖い」

 思わぬ内容に、私は思わず声を上げてしまった。

「そいつ、ズボンずらして、×××を×××ながら近寄ってきて」

「ひー、最悪!」

「驚いて、怖くて声も出なかった。でも、たまたま家の近くで、たまたま兄ちゃんも下校中だったから」

「よかった。お兄さんいてよかった」

「兄ちゃんが変質者に向かって走って体当たりして助けてくれたんだけど」

「えー、すごい。えらいじゃん、お兄さん」

 興奮した私は、猫の肩に手を置きゆさゆさとその身体を揺らす。「いやあ」と言い、猫は照れくさそうにしていた。

「体当たりの衝撃で、変質者がブロック塀で頭を打って動かなくなっちゃってさ。もちろん下半身丸出しの状態で」

「え、そんなことあるんだ。それでどうしたの?」

「警察と救急車と近所の大人の人を呼んだ。変質者は気を失ってただけで頭を怪我したものの無事だったんだけど、のちのち、それが兄ちゃんの同級生の年の離れたお兄さんだってわかって」

「なにそれ、衝撃の事実。すごい。すごい嫌な事件」

「うん。嫌な事件だった」

 話し終わった佐藤さんは、ふう、と息を吐く。

「あのときは、学校中がなんだか気まずい空気だった」

 猫が思い出すように呟いた。

「じゃあ、それがきっかけで、ひきこもりになったとか?」

「いや、それは関係ない。もっと大人になってから、職場の人間関係とかいろいろあって、そういうのがきっかけ」

 私の問いに、猫はあっさりとした調子で答える。

「ていうか、佐藤さんを護ったんだ。えらいね、お兄さん」

 猫はまた、「いやあ」と言ったあと、なにやらもにょもにょと謙遜のような言葉を呟いているようだが聞き取れない。

「あ。ちょっと褒められたからって、私のこと好きになったりしないでよ。私、恋人いるからね」

 猫の謙遜を遮り、注意を促すと、

「ならないよ」

 猫はあきれたような様子で言った。

「佐藤さんのお兄さんは、女性に縁がなさそうだから、ちょっとやさしくされたら好きになるでしょ」

「ならないって。やさしくされてもいないし。本当に失礼だしデリカシーもないね、きみは」

「本当によく言われる」

 佐藤さんは、お腹を抱えて、ひーひー言いながら涙を流して笑い転げている。

「あと、土足人間っていうのも、言われたことある」

「土足人間?」

「他人のテリトリーにずかずかと土足で上がり込んでくるやつのことだって」

 猫は一瞬、「わかる」という表情をしたあと、「それは、ちょっとひどくない? 言いすぎじゃない?」とフォローしてくれようとした。猫はやさしいのだな、と私は思う。私とは違い、相手の気持ちを慮ることのできる人だ。

「でも、その言葉に自分でも納得しちゃったから、いいの。それに、私を土足人間って言った人が、いまの私の恋人」

「ええ……?」

 猫は、理解できないものを見るような目で私を見て、「僕は、西野さんの強靭なメンタルが羨ましい」と言った。

「佐藤さんのお兄さんも、強靭なメンタルの持ち主だと思うよ。だって、佐藤さんに養ってもらってるのに、家事とかせずに存在してるだけなんでしょ? 私だったら、申し訳なくて居たたまれないもん。家から出られないなら、家の中でできることをすればいいのに」

 そう言い返すと、佐藤さんは、きょとんとしたように私を見て、猫は、「それもそうか……」と呟いた。

「鍋、洗おうかな」

 猫が唐突に言った。

「どうしたの、急に」

 佐藤さんが驚いたように猫を見た。猫はなにも言わず、食べ終わった鍋や食器を流しに持っていく。佐藤さんは、猫のそのまるい後姿を、なんとも言えない表情で見つめていた。

 帰りは、佐藤さんが駅まで送ってくれるという。危ないからと遠慮したのだけど、少し話したいから、と言われ、ふたりで駅までの道を歩いた。秋の夜の空気が、鍋で温まった身体をひんやりと心地よく冷ましていく。

「西野さん。猫飼ってるなんて嘘言ってごめん。今日はありがとう」

 佐藤さんが言った。

「こっちのセリフだよ。こちらこそ、ありがとう。図々しく上がり込んじゃって、ごめんね。お兄さんにも失礼なこといっぱい言ったし。本当は、家に他人を呼びたくなかったんでしょ?」

 思えば、佐藤さんは私が猫を見たがったときに、少し渋っていた。あまり気にしていなかったけど、あれはきっとそういうことだったのだと、あとから気づいた。私はいつも、大事なことにあとから気づくのだ。

「うん。そうだったんだけど、でも、西野さんのおかげで、家の中が久しぶりに明るくなった。兄ちゃんも楽しそうだった。珍しくよくしゃべってた。私もいっぱいしゃべっちゃった」

「それならいいけど」

「西野さんが土足人間でよかった」

 佐藤さんのその言葉に、私はなんだかうれしくなってしまって、「えー、なにそれ」と声を上げて笑った。佐藤さんも大きな口で、あはは、と笑った。


 それ以来、佐藤さんの家に誘われて、佐藤さんと猫と私の三人で、ときどき一緒にごはんを食べるという不思議な関係が続いた。

 私が猫に無神経で失礼なことを言い、猫が反論する様子を見て、佐藤さんは涙を流して笑うのだ。

「あれ以来、兄ちゃん、少しずつ家事をしてくれるようになったんだよね」

 佐藤さんはうれしそうに言っていた。


 ある日、食器を洗い終わった猫が二階の自室に籠ったあと、佐藤さんと私は缶ビールを飲みながら、だらだらと思い思いに過ごしていた。佐藤さんは壁に背中をあずけ足を伸ばして座っていた。私は、佐藤さんの太ももに頭をのせて寝転がり、帰りたくないなあ、などと思っていた。

「兄ちゃんがさ」

 佐藤さんが、ぽつりと言った。

「うん」

 私は話を聞く態勢に入り、うなずく。

「夜中に泣くの。二時とか三時とかそのくらいの時間。隣の部屋からすすり泣く声が聞こえて、目が覚めちゃう」

「うん」

「なんだよ夜中にうるさいなって気持ちと、私が護ってあげるからそんなに泣かないでって気持ちが両方あって」

「うん」

「兄ちゃんは、どういう気持ちなんだろう」

「わかんない。本人に聞くしかないよ。答えてくれるかどうかはわからないけど」

「まあ、そうだよね」

 深刻な感じの打ち明け話を佐藤さんは淡々と話し、私はただそれを聞いて、役に立たない相槌を打つだけだった。それでも佐藤さんは、失礼でデリカシーがなくて無神経な私をたびたび家に招待してくれた。


 その後、恋人の転勤を機に彼との結婚が決まり、遠方へ引っ越さなくてはならなくなったため、私はその職場を辞めることになる。お別れのあいさつをして以来、佐藤さんとは疎遠になってしまった。そもそも、連絡先の交換もしていなかったことに、退職してから気づいたのだ。


 現在は、あの場所から遠い地で、夫と共に戸建てに住み、念願の猫とも暮らしている。夫が、猫の名前を「くるちゃん」に決めたとき、私は驚いて理由を尋ねた。夫は、「うちに来てくれたから、来るちゃん」と、私がなぜ驚いているのか不思議そうにしていた。佐藤さんのことは、夫には話さなかった。あの不思議な関係は、なんとなく、自分だけのものにしておきたかったから。

 夫婦で話し合い、子どもは諦めると決めたので、余計にくるちゃんがかわいい。くるちゃんは、夫と私の間を取り持ち、物事を円滑に進める助けになってくれている。

 そんな生活のなかで、私はたびたび、佐藤さんのことを思い出す。佐藤さんが大きな口を開けて笑う姿や、佐藤さんの猫が大きな身体をまるめて、小さくなろうとしている様子を。そんな猫に、佐藤さんは、愛憎の念が入り混じったような複雑な視線を向けていた。そういえば、私は、佐藤さんの猫の名前も知らない。

 その後、働くことになったいくつかの、どの職場にも佐藤さんという人はいたけれど、あの職場の同僚の佐藤さんは、唯一無二だった。

 佐藤さんの大切な猫は、いまでも未明に泣くのだろうか。



ありがとうございました。

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